4-1. 父と息子の関係(5)

          *

 ショウとリョッカとが初めて出会った日。あれはいつだっただろうか。ショウが覚えているのは初冬の冷たい空気だ。

 その日は、暖かかった前日までとは打って変わって冷え込み、母が体調を崩した。母はひたいにびっしりと汗を浮かべ、顔を赤くし、そして苦しげに眉を寄せていた。そんな母の様子に気づいた若い使用人が、慌てた様子で部屋を飛び出していく。ショウはその背中を茫然ぼうぜんと見送った。

 こういったとき、ショウは母のそばにいることを許されない。たとえそばにいたとしても、すぐに部屋から追い出されてしまう。それが常だった。

 だが、この日は違った。ショウが母のベットの横で、膝を抱えて座っていても、誰にも何も言われなかった。

 間もなく、先ほどの使用人が人を呼んで戻ってくる。バタバタと駆け込んできたのは、母より少し若い、きれいな女性だった。

 それがリョッカだった。

 リョッカは血相を変えて母に駆け寄り、すぐにその容体ようだいを確認した。

 おそらく父も家令もいなかったのだろう。一緒に戻ってきた若い使用人は慌てふためいて、使い物にならない状態だった。当然、ショウの姿も視界に入っていない。リョッカもまた、母に視線を釘付けにしていて、ショウに目を止めることはなかった。

 だからショウはそれを目撃することになった。

 リョッカは一旦、母から離れると窓を開け、その直後、風が、部屋の中を駆け巡った。それまで何となくよどみ、重苦しく感じられていた空気が、一気に清々すがすがしいものへと入れ替わる。

 何が起きたのかと目を瞬いていると、リョッカの手に握られているものに目が留まった。薄桃に色づいた半透明の四角い粒だ。それをリョッカが、ショウの見ている前で、強くまんだ。

 すると再び風が沸き起こった。今度は穏やかで暖かな風だ。部屋の中はあっという間に暖かな風で満たされた。

 ショウは気づいた。今、室内に沸き起こった二つの風は、リョッカが起こしたものだ、と。

 ショウは目を丸くしてリョッカを見遣みやった。リョッカは何事もなかったかのように窓を閉め、再び母に寄り添うと、その口元へ手を当てた。

 ショウはそんなリョッカの行動を息を詰めて見守る。次は何をするのだろうと期待が膨らんだ。けれど、今度はショウがわかるようなはっきりとした変化は起こらず、リョッカは母の口から何かを引っ張り出すような動作を繰り返すだけだった。

 このときは何をしているのかわからなかったが、のちに仲良くなったリョッカに聞いたところ、体内の悪い空気を引っ張り出していたのだという。そんなこともできるのだと知ってショウはひどく驚いた。

 他にも二つ、三つ、見慣れない動作を繰り返し、そしてリョッカは母の容体を落ち着かせた。いつの間にか額を覆い尽くしていた汗の粒は消え、母は穏やかな表情で小さく寝息を立てている。

 けれど、落ち着いた母とは対照的に、ショウは興奮状態にあった。ショウはリョッカの手が空いたと見るや否や、勢い込んで質問した。

「ねぇ! 今の、なぁに?」

 そこで初めてリョッカがショウの存在に気づき、悲鳴を上げた。使用人も愕然とした面持ちでショウに駆け寄り、急いでショウを部屋の外に出そうとする。

「ぼ、ぼっちゃん。こんなところにいらっしゃってはなりません、お母様は具合が悪いのですから」

「ねぇ、なぁに? なぁに、さっきの!」

「ぼっちゃん! どうか今見たことはお忘れください。でないと死神がお母様を連れて行ってしまいますよ」

 その言葉はある意味事実だった。けれど子どもの好奇心はそう簡単には収まらない。ショウはその使用人に纏わりついて、何度も何度も繰り返し尋ねた。

 結局、それを見かねた執事が留守の父に代わって答えた。

「特殊能力を使って悪者を追い出していたのですよ。彼女は特殊能力者ですから」

「とくしゅのうりょくしゃ?」

「生まれつき、他の人には真似できない技能をお持ちの方のことです。まだ学習しておりませんでしたか」

「あ、ううん。習ったよ! 鳥さんを飛ばしたり、つるをびーんってやったりする人たちのことでしょ?」

「えぇ、そうです。おわかりになりましたね。では、もうよろしいでしょう? 今後は覗き見などしてはなりませんよ」

「のぞき見じゃないもん!」

「それは失礼いたしました。では、次はすぐにお部屋をお出になってください。そういうお約束でしたでしょう?」

「えー」

 ショウにそんな約束をした覚えはなかったが、リョッカの治療中に部屋にいてはいけないのだということはわかった。そして、部屋にいさせたくないがために、興味を持たぬようリョッカのことを黙っていたのだと、ショウはそう理解した。

 もし、このとき説明したのが父であったなら、その後の結果はまた違っていただろう。


 そして時は流れ、半年か、一年か。幼いショウにとっては長い長い時間が過ぎた。

 そのころになるとショウは、自由時間のたびにリョッカを探して遊んでもらうようになっていた。特殊能力こそ見せてはくれないが、リョッカは非常に面倒見がよく、ショウはすぐにリョッカのことが大好きになった。今思えば、ショウは、せりがちで甘えられない母の代わりに、リョッカに甘えていたのかもしれない。

「ごめんね、治すことはできないの。でも、悪くならないようにすることはできるから……」

 リョッカはまるで口癖のようにそう繰り返した。リョッカがことさら、ショウのことを気にかけてくれたのは、その無力感から来るものだったのかもしれない。

 その日もショウは自由時間になった途端、部屋を飛び出した。そして屋敷の中を探し回り、リョッカを見つけて飛びつく。だが運悪く、リョッカは父と話をしているところだった。

 父は眉間の皺を深め、子どもは外で遊んでいなさい、と追い払う。父に逆らってはいけないと子ども心に理解していたショウは、仕方なく一人で庭に出た。

 そうしてしばらく遊んでいると、かさかさと葉のこすれ合う音がした。辺りを見回せば、敷地を囲う柵の手前に植えられた木が揺れている。

 何気なく近づいてぎょっとした。木の枝の間から人の手が生えている。

「こんにちは、ぼく。お名前は?」

 声をかけられてさらに驚いた。一瞬、逃げ出しそうになるものの踏み留まり、声がした植木へと視線を向ける。

 よくよく見れば、植木のさらに奥、柵の向こう側に軍人が二人いた。そのうちの一人が、柵の隙間から手を伸ばし、植木の枝を押さえている。そうして作られた隙間から軍人たちは顔を覗かせ、にこやかな笑みをショウに向けた。

 男の子にとって強くたくましい軍人は憧れの的だ。それはショウとて例外ではなかった。

 大人の言いつけを思い出して迷ったのは一瞬だけだった。知らない人について行ってはいけないとは言われていたが、話してはいけないとは言われていない。だから大丈夫だとショウは心の中で言い訳した。

「ヤガミショウだよ」

「そうか、ショウくんか。よろしくな。実はおじさんたち、いくつかショウくんに教えてほしいことがあるんだ」

 会話するだけでも興奮してしまうショウに向けられた、憧れの軍人さんからのお願いは、すさまじい威力を発揮した。断るという選択肢は一瞬たりとも思い浮かばず、ショウは嬉々として頷く。

「いいよ! なぁに?」

「この家に、不思議な力を使って風を起こしたり、空気を動かしたりする人はいないかい?」

「リョッカのこと?」

「そうだ、そのリョッカという人。どんなふうにしてた?」

「えーとね、お部屋でパチンってやって、ぶーって風を起こすんだよ。それでね――」

 ショウは身振り手振りを交えて、一生懸命に説明すると、軍人たちは顔を見合わせて頷いた。その表情に一瞬、鋭さが過ぎったが、ショウがそれに気づくことはなかった。

「そうか、ありがとう」

「どういたしまして」

 ショウは軍人たちの役に立てたことが嬉しくて、にこにこしながら見送った。だが――。

「ぼっちゃん、今の方は……?」

 振り返ると、いつの間にか使用人がそばに来ていた。比較的ショウのそばにいることが多い、世話係を任されている者だ。

「軍人さんだよ。あのね、僕に聞きたいことがあるって言ってね――」

 そうショウが得意げに話をすると、世話係の顔がみるみると青ざめていった。

「どうしたの……?」

 だが、世話係は答えず、強い力でショウの腕を掴んで引っ張った。

「い、痛いよ」

 世話係はショウの訴えにも足を止めることなく屋敷へと戻り、そのまま母の寝室へとショウを引きずり込む。

 母は今日は目を覚ましていて、突然やってきたショウたちを驚いた表情で見ていた。そしてその母の手前、ベッドに椅子を寄せて座っていた父もまた、入り口を振り返り、怪訝そうな顔をする。

「大変でございます」

 訳もわからぬまま立ち尽くすショウの隣で世話係が説明をし、その直後、父の様子が一変した。

「お前は、お前は、お前は!!!」

 立ち上がった父がショウの襟元を掴み、強く揺さぶる。息はできないし、首は痛いし、目は回るしで、ショウはただただ苦しかった。あっという間に顔は真っ赤になり、まなじりに涙が浮かんだ。

 そんなショウを見て、慌てて止めに入ったのは母だった。

「あなた! それより、早くリョッカを」

「あ、あぁ。そうだったな」

 はっと我に返った父は二度とショウを見ることなく、機敏な動作で部屋を出て行った。

 それから母は動揺している世話係に指示を出す。

「あなたはこの子を部屋に。そのあとはあの人を、主人を助けてやって」

「か、畏まりました」

 部屋に戻るとショウは独りになった。

 激怒した父と、泣きそうな顔で唇を噛みしめていた母。二人の表情を思い出し、何かはわからないけれど、いけないことをしてしまったんだと理解した。

 その途端、恐くなった。けれど部屋には誰もいない。ショウはベッドにもぐりこむと、布団を頭までかぶって体を丸めた。

「母上、父上……リョッカ……」

 ばたばたと慌ただしい足音が屋敷の至る所から聞こえた。足音は一つではない。複数、それもかなり大勢だと思われた。それと同時期に聞こえるようになった野太い怒声。普段の屋敷では聞くはずのない喧騒が飛び交い――束の間、それが途切れる。

 甲高い女性の悲鳴。そして、必死さが感じられる父の声。

 喧騒はすぐに戻った。だが、喧騒の合間を縫うようにして響いたその悲鳴が誰のものであるか、ショウはわかってしまった。

 その後も喧騒はしばらく続き、やがて静まった。そして訪れた静寂は、恐怖心をあおるような陰鬱いんうつさを多分に含んでいた。

 ショウは最後までずっと布団にもぐって隠れていた。怖いものを見たくなくて布団にもぐったのに、状況がわからないこともまた怖く、結局、耳を塞ぐことはできなかった。

 「音」は様々な情報をもたらした。けれどショウは気づかなかったふりをした。そして、怖いことなど何もなかったのだとそう思い込もうとした。

 実際、そのあとショウが父から知らされたのは、リョッカがいなくなった、という単なる結果だけだった。この日、何があって、どうしてリョッカがいなくなったのか、そういった怖い話がショウの耳に届くことはなかった。

 そしてリョッカを失って間もなく、母は他界した。


 それが十二年前のこと。

 もし、ショウが初めて風捕りの力を目にしたとき、それを黙っているように執事が口止めしていたら、きっと軍人に尋ねられてもショウは答えなかっただろう。

 もし、ショウがもう少し警戒心が強い子どもだったら、そもそも軍人とは会話などしなかっただろう。

 けれど実際には、そんな「もし」は存在しなかった。ショウは自らの口で、リョッカの存在を話してしまったし、リョッカを失ったことで、母の死を呼び寄せてしまった。すべてショウが引き起こしたことだ。

 そしてもう一つ。父が母の死に際に間に合わなかったのも、おそらくショウのせいだろう。あのとき父は、帰って来るのが遅れた理由を仕事としか言わなかったが、本当はリョッカをかくまっていたことで身柄を拘束されていたのかもしれない。

 十二年間ずっと、ショウは父を責め続けてきた。

 母代わりであったリョッカを失い、母を亡くし、そして帰って来なかった父を恨み、憎んできた。

 それは間違いだった。悪いのは父ではなく、自分。今になって、父を恨み続けてきた十二年間が間違いだったと気づかされ――ショウは目の前が真っ暗になった。

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