第25話 胎児

 学校には行けなかった……全然……オレは、本当にガキだったから。どうしようもないガキで、毎日コバンくんと一緒に居ることしか考えていなかった。あの子はオレの全てで、あの子以外の人間は居ても居なくてもいいと思っていたから、学校なんかどうでもよかったんだ。

 ふう……呼吸のしかたを忘れてしまいそうだ。何をどう話せばいいのか、苦しくなってきた。心臓がいっとき停止したみたい。

 ああ、大丈夫だよ、大丈夫。

 普段からコバンくんは表情を表に出さないから、何を考えているのかを想像するのは難しかった。だけど、あの時は、きっと混乱していたんだろうな。どうしていいか分からないのに、オレには笑いかけてばかりで……。もっと、あの子のことを気にかけてあげればよかったのに……。

 グレープフルーツがすくすくと育って、植木鉢が窮屈そうだったから、庭に植え替えてあげたんだ。草むらから出てくるミミズやカナヘビに、コバンくんはちょっとびくつきながら、カレースプーンで土をほじくるオレを見ていたよ。

 庭に下ろした小さな樹をふたり並んで見下ろしていたら、コバンくんは泥だらけのオレの手を握ってお腹にあてたんだ。コバンくんもオレも、まだ十三歳だった。

 嬉しかったよ。嘘じゃない、ただ、嬉しかったんだ。神様からの贈り物だと思っていたから。ひとりで喜んでいたら、コバンくんは泣き出してしまった。どうしてなのか判らなかったけれど、泣きながら笑っていたんだ。

 馬鹿みたいに、いっぱい名前を考えたよ。オレが男の子の名前を考えて、コバンくんが女の子の名前を考えるんだ。オレがノートに書かれた名前に印しをつけると、コバンくんは、その子が空からやってくる絵を描いてくれた。十二色の色鉛筆で、オレも一緒になって描いたよ。

 楽しくて、毎日朝までそうやって遊んでいたのに、オレたちには、他に方法が無かったのかな……。

 驚いた? でも、お腹の赤ちゃんがゲームのクリーチャーくらいにしか思えなくて、どうやって退治しようかと、とんでもないことばかり考える奴らよりもましだろ? ああ……だけど、そいつらの方が現実的かな……。だって、コバンくんは不安で不安でしょうがなかっただろうから……。

 あの日も……ようやく目覚めた寝ぼすけのオレは、コバンくんに会いに行こうとしていたんだ。台所に置いてあったクリームパンとコーヒー牛乳だけじゃ足りなくて、お菓子でもないかと食料棚を漁っていたら玄関のチャイムが鳴った。

 その後の記憶は曖昧だ。

 気づいたらオレは、コバンくんとコバンくんのお母さんとの三人で電車に乗っていたんだ。聞いたことのない小さな駅で降りてから長い距離を歩いた。

 どのくらい電車に乗っていたのかも憶えていないし、三人で何かを喋ったのか、それとも黙ったままだったのかも憶えていない。コバンくんのお母さんに叱られた記憶も無い。ただ、その町は強い汐の香りに満ちていた。ちょうど、この町と同じようにね……。

 白い塀で囲われた立派な家の前で、足下を歩いていたカニを踏みつけそうになったけど、コバンくんがそっと教えてくれたことは憶えている。水の流れる音がしていたから、海に続く川が流れていたんだと思う。

 そこは産院だった。時々、猫がケンカしているような声が聞こえてきたから病院で飼っているのかと思ったけれど、今考えると、あれ、赤ちゃんの泣き声だったんだね。

 白衣のおばあさん先生は怖くもなく優しくもなく、淡々と仕事に取り掛かるようにコバンくんのお腹に機会をあてていたよ。エコーグラフィーっていうのかな?……超音波の……体の中が見えるやつだよ。大きな樹に耳を当てたような、しゅくしゅくという赤ん坊の心臓の音が、診察室に響いていた。

 パソコン画面に映ったお腹の赤ちゃんは、大きな頭をしていて手や足もちゃんとあった。妊娠十一週目だと言った先生は、親指と人差し指で輪っかを作ってオレに見せた。このくらいの大きさだって……。

 人間だった。小さいけれど、人間だったよ。

 この子の体をバラバラに刻んで外に掻き出すんだ、と言われた。

 涙が、勝手に零れた。

 コバンくんのお母さんには、「あんた、一円だって稼げないでしょ」としか言われなかった。中絶するのにもお金がかかるのに、出産費用はそれの三倍も四倍もかかるとも言われた。育児には、もっと、もっと、だと……。

 働きたいと思った。

 麻酔が切れてげえげえ吐きながら、痛いの我慢して……「お医者さんって、人の命を救うのが仕事なのに、人殺しの手伝いもするんだね」って、コバンくんに言われて……本当に、そう思ったの。

 オレ、ちゃんとしなきゃ……。

 少しでも偉くなりたくて、学校に行きたいとじいちゃんに頼んだんだ。学校に行き始めたのはそれからだよ。

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