第16話 モンシロチョウ
旅の理由は、僕が思っていたよりもずっと重苦しいものだった。レオの想いがどれだけ純粋でも、好奇心とそれに伴う行動は動物に近いのだ。ただ、誰に対してもそんな感情を抱いたことの無い僕には、どうでもいいことなのだけれど……。
君は、どう思う?
チャチャの眼はそう問いかけていたけれど、僕には薄ら笑いをしているように見えた。それがぞくぞくと、背中に冷たい滴を這わせたと同時に、何かが膝に掴みかかった。のっそりと半身を起こしたレオが、首を垂れ、僕の太ももを押さえつけている。這いずりながら胸に伸し掛かり、首にがっつりと爪を食い込ませると、吸血鬼が食事を摂るように、耳下に顔を寄せた。
「よせ。レオ、違う」
チャチャはレオの腕を強く掴み、僕から引き離した。レオの行動が予測できなかったのか、声が裏返っていた。
「寝ぼけんなよ」
それでも、すぐに優しく言い聞かせると、レオはぱちぱちと瞬きして僕を見つめた。くるくる動く瞳と、呆けたような半開きのくちびるが、僕とチャチャを間違えてしまったことを認めている。僕は起こった事を理解できずに、ただ心身を拘束され、鼓動を抑えようとしていた。
「暑い」
レオはフードを払い、手の甲で額を拭った。蒸れてぐじゅぐじゅになった髪が顔を覆い、表情が見えない。
「具合は、どう?」
チャチャは、レオの顔を下から覗き込んだ。
「ああ……頭、痛いの治ったかも」
チャチャは頭の重みでへこんだスポ-ツバッグを手繰り寄せると、タオルを出してレオに手渡した。
「吐き気は?」
「大丈夫。水、ちょうだい」
バッグの中を掻きまわしたチャチャが、いくつかの衣類を抱え込みながら取り出したペットボトルを差し出すと、レオは待ち構えていたようにグイグイと蓋をひねる。
「なあ、それ脱がない?」
チャチャは、喉を鳴らすレオのダッフルコートの裾を引っ張った。ペットボトルを床に置いたレオは、座ったまま脱いだ。やっと暑さから解放されたように、ひとつ息を吐く。
「洗濯する」
「洗濯?」
「ここ、水も石鹸もあるし今日は天気もいいだろ。コインランドリーの節約になる」
「面倒だな」
気怠げに、レオはタオルで顔を拭った。
「おまえが言うな、洗濯すんのは俺なんだから。汗、すごいだろ。そのまま着ていると、また風邪がひどくなるからさ。今着ている物、脱げよ」
レオは返事もせずペットボトルとタオルを突き返すと、白いフリースのスウェットとTシャツを二枚重ねて床に脱ぎ捨てた。上半身裸で立ち上がり、カーキ色のカーゴパンツのベルトを外し始めたので、僕は即座に眼を逸らし背中を向けた。
「ほら、これ着ろ」
衣擦れの音が耳に届くと、うつむいた僕の眼の端に、脱ぎ散らかされた衣服を拾い集めるチャチャの姿と、靴紐を結ぶレオの手が映った。手洗い場の方向へ去って行くチャチャの足音までを確かめて、僕はそろそろと顔を上げた。
そして、窓際に立つレオの後ろ姿を、思わず瞳に留める。
レオは爪先立ちで伸びをしていた。襟の擦り切れたワイシャツはチャチャのお下がりだろうか。サイズの合わない長めの袖が、羽織った白いニットカーディガンからはみ出して、頭の後ろで組まれた手を隠すように揺れている。窓の外を見ながら大きく手を広げ、はああ……と息を吐くと、そのまま飛んで行ってしまいそうだった。
レオは、泥まみれの芋虫でも、眠り続けるサナギでもなかった。
「あの……大丈夫、ですか?」
「うん」
そう言って振り向いた顔は、服を脱いだ瞬間、眼に飛び込んできた脇腹と同じように、モンシロチョウの翅を太陽に透かせたくらい白かった。
「ねえ、あれ、さっきの、もう一回弾いてよ」
柔らかい和紙を裂くようなかすれ声は、どこが猛獣だというのだろう。
「さっきの?」
「クリスマスみたいなの」
「あ……はい」
速足で舞台に飛び上った僕は、オルガンの椅子を引いた。電源が入ったままだったことに気が付いて、確かめるように鍵盤を押すと、釣られて走り出したスニーカーの音が、鳥のさえずりのように、きゅっきゅ、と背中から聞こえた。
ずらりと並んだボタンが、クリスマスツリーの電飾のように輝いて見えるのが面白いようで、舞台に上がったレオは僕の肩越しに覗き込む。
「あ、あの……ち、近いです」
「え?」
「弾きにくい……」
「ああ、そう……じゃあ……」
レオは舞台を飛び降りると入り口まで走り、振り返って手を挙げる。
「ここなら、いいー?」
それは離れ過ぎだ。冗談なのか、本気なのかが判らない。
目覚めよ、と我らに呼ばわる物見らの声が聴こえ(SIX CHORALS BWV.645)
真夜中に花婿の到着を待つ乙女と、物見らの合唱だというこの曲は、新郎新婦が入場するのに相応しい。魂との婚姻を待ち焦がれる神の子と、先導する物見らの呼び声が、夜のしじまを切り裂いて鳴り響けば、どれだけ美しいかと想像する。
「すごい、すごい、それは誰の曲?」
僕の奏でる偽物のコラールに賛美の声があがった。いつの間に戻ってきたのか、レオは舞台の下から僕を見上げていた。僕が母さんの傍で聴いていたように……。
「バッハです。バッハの教会カンタータを編曲した……」
「やっぱりクリスマスみたいだよ。他にも何か弾いてよ」
レオは僕の言葉を遮って笑う。鍵盤に向き直った僕は、レオが一度は耳にしたであろう美しい旋律を思い浮かべた。
イエスは我が変わることなき喜び(CHORAL BWV.147)
バッハの数多いカンタータの中で最も有名な神様に宛てたラブレターは、「私の喜び、私の命、あなたを離さない……」と綴られていた。僕にとってラブソングにしか思えない強烈な歌詞が、この曲に存在するなんて、レオは知っているだろうか。
「それ、知ってるよ。聴いたことある。ねえ、もう一度弾いてよ」
レオは同じ曲を三度リクエストした。弾き終えて下を見ると、退屈そうに顎を上げて喉を掻き毟っていた。短くなった爪のおかげで引っ掻き傷はついていないようだが、白い粉が噴いてぱらぱらと落ちていく。欠伸をしているのを見て、僕はオルガンの電源を切った。
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