雪の背中に生えた羽
吉浦 海
第1話 崖の上の保育園で
ジャケットの下にセーターまで着込んだけれど、今日はずいぶん暖かい。テレビの中のお天気お姉さんは、春色のコートを着て、「四月並の暖かさ」だと教えてくれた。
天気予報の直前、三日前から行方不明になっている乳児についてのニュースが流れていた。彼女は別段気にする様子もみせず、にこやかに自分の仕事をこなしていた。産院から連れ去られたと思われる乳児は、今も見つかっていなくて、ただひたすら頭をさげる院長に、棘のような容赦ない言葉が、マイクを持つ手から発せられていたっけ。
家の居間には、何も言わずそのニュースに見入る、ひとりの女が居た。
天気予報はあてにならないというし、四月並というのが、具体的にどの程度なのかが想像できなくて、昨日と同じような恰好をして来たのに、長い石段には解けた雪が水たまりをつくり、一段上がる度に滴の跳ねる音をたてる。
顎下の汗を手で拭いながら階段の先を見上げ、あの綺麗なお天気お姉さんの言うことをきいておけばよかった、と僕は後悔した。後悔しながらジャケットのジッパーを下ろし、昨日と違うのはお天気だけではない、と首をひねる。
鼻から息を吐いて、まだらにペンキの剥げた水色の鉄柵に手を掛ける。開きっ放しの錆びた門が、不安げにぶらさがっている。
「閉め忘れたのかな」
妙な引っ掛かりを覚えた僕は、ひとりぽそりと呟いた。
年末に草むしりと剪定を済ませていたので、崖の上に建つ保育園の庭は、さっぱりと整えられていた。ネジが外れて傾いた門を閉じると、丸く刈り込まれたツツジが並ぶ、箱型ぶらんこの横を通り過ぎる。
海から吹く風が、園庭裏で崖を臨む松林を、びゅう、と鳴らした。
泥濘を避けて園舎の廊下に土足で上がり込む。汚れがこびり付き、ひび割れた窓ガラスが、歪んだ僕の姿を映している。
園舎の隣、赤い矢印を空に向ける建物の前で立ち止まる。ジャケットのポケットから取り出した鍵は、まるでゲームの中で旅する主人公が、苦労して手に入れたアイテムのような形をしていた。
鍵穴に鎖し、回してみるけれど、手ごたえがない。空回りを続ける鍵に、ほんのちょっと苛立ち、溜め息をつくと、木の葉のように小さな紙切れが爪先の上に落ちた。
悪戯のつもりで侵入した何者かが、ここで飲食でもしていたのか……。
扉の透き間から落ちたレシートを、僕は指先で摘みあげる。ドラッグストアーの名前を確認してから足下に投げ捨てると、レシートは回りながら裏返り、再び靴の上に舞い落ちた。
───おやすみ。起こさぬように、そっと扉を閉めるよ───
レシートの裏側にボールペンで書かれたメッセージが、ふっ、と眼に留まった。泥の付いたレシートをもう一度摘み上げポケットにしまうと、僕は建て付けの悪い扉をこっそり慎重に少しだけ開き、片眼で覗き込んだ。
ぶおーん…………
トイレの古い換気扇のような低い機械音がする。
力を入れて、今度は思い切り開く。錆びた蝶つがいがのこぎりを引くような音をたてる。開いた扉を拳で軽く叩き、ほーっ、と息を吐いた。
力を入れすぎるとノブが外れてしまうのが心配だった。何度かネジを締め直したことはあるのだが、もう、この扉も限界だな。
扉を閉じると機械音は消えていた。
入り口横の下駄箱には蜘蛛の巣が掛かっていた。並んだスリッパは埃だらけだ。
敷かれた玄関マットの上に揃えられた、一足の白いスニーカーに履き替えて、艶のない板張りの床を歩く。かつて大勢の園児たちが走り回っていたであろう会堂に、僕の足音だけが響いた。
薄っすらと幾つもの靴が這い回った痕がある。最後にモップ掛けをしたのはいつだったかな。誰も居ないのに、どうして埃は積もるのだろう。そのままにしておくと、悪い菌を肺の奥まで招き入れそうになる。
歩く度に綿埃が舞うのが気になるけれど、まだ、今日は掃除をする気分じゃないと、いつものように迷わず正面に向かった。そして、いつものように、ひょい、と舞台に飛び乗った。
「ふうっ、暑う」
脱いだジャケットを舞台の
いつもなら足下を暖めるところなのだが、今日は必要なさそうだ。電気ストーブが置いてある、舞台袖をちらりと見てから床に眼を落す。延長コードを手繰り寄せ、その先にあるコンセントにプラグを差し込んだ。
舞台の中央に無言で構える、黒い電子オルガンの蓋を掌で拭った。するするとスライドさせて蓋を開き、電源ボタンを押す。
幾つもの小さなボタンが、瞬く間に赤と緑の光を点したと同時に、ラジオをチューニングするような耳障りな音がした。耳を押さえて電源を切り、もう一度スイッチを入れた。
よし、今度は大丈夫。
腕まくりして椅子に座る。音量は最大。鍵盤を押して音色を確かめる。
Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ(われ汝に呼ばわる、主イエス・キリスト)
小さな頃、僕はあの曲が弾きたくて、母さんにレッスンをねだった。
ソファで居眠りする父さんの前で、テレビから流れてきたソ連の古い映画のタイトルは「惑星ソラリス」だったと思う。それはすばらしく形而上的でさっぱり理解できなかったけれど、音楽だけは印象的だった。DVDを借りてきて、その曲が流れる場面だけを何度も再生していたら、母さんは立派な教会のオルガンコンサートに連れて行ってくれたよね。
オルガニストはこう言った。
「終わりの、ファ、は唯一の神を表しているのだ」
あの時のパイプオルガンの荘厳な音は、どうしたって出せないけれど、自分が自分に聴かせるために、よく似せて作った音は、まあ、よし、としよう。
両手の指を組んで手首を鳴らしながら回す。少しの間、眼を閉じて、音楽に集中する準備をしてから三段鍵盤に指を置く。
今日は、バッハのカンタータ第一四〇番の第四曲を奏でよう。このコラールの旋律はきわめて有名だ。神の国の到来だの、魂との婚姻だのという難しい説教は、なかなかすっと頭に入ってこないし、神父と牧師の違いもよく判らないけれど、天国は楽園で、どうかすると、死ぬことさえ怖くないのだ、と思えてくる。
僕の魂も、少しくらいは浄化されているような気にさせるのが、美しい旋律の企みなのだ。まるで、天使が手招きしているように聴こえないか。僕は、ただ、好きな曲を聴きたいだけなのに……。
演奏を終えて手を膝に置く。
とても、静かだ。
でも、何か、何かが居るのは確か。
ひっそり身を隠しているのは、季節外れの暖かさのために土の中から出て来た蛙なのか、割れた窓ガラスの透き間から餌を求めて飛んできた野鳥なのか。
明るいうちから幽霊が出るとも思わないけれど、身を硬くして耳を澄ませてみる。辺りを見回し椅子から降りる。舞台から会堂全体を眺める。
部屋の隅に子供用の小さな椅子と机が積み重ねられ、埃だらけのブラウン管テレビが老女のように座っている。大きな南側の窓からは、陽が射し込むだけで、蛙の跳ねる姿はない。
手招きしたのは僕の方だったのか。
天使を召喚してしまったのか。それとも、悪魔か……。
居る、居る、居るのは、舞台袖だ。
忍び足で近寄ると、僕は舞台袖の幕を握り締めた。
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