死者を感じると、生者に無視されても平気になる
ちょっと今、ネット記事を適当に流し読んでいて見つけた情報で妙な気持ちになっています。メンヘラの人とか、あるいはこじらせてしまった人の、精神は幼少時に周囲から構ってもらえなかった事が原因である、というような話。
私も正直、親は共働きだし、あまり人に共感を抱けるタイプの人間ではなかったから、こういう、他人に構ってほしいという人の気持ちがよく解かりません。
私は、無人島にひとりぼっちにされても、たぶん平気でしょう。暇つぶしの道具があれば、別に人の姿を見なくても気にもしないかも知れない。
こうしてネットで情報発信をしているくらいだから、人から認められたい欲求は人並みにはあるんだろうと思うけれど、身を苛むほどに反応が欲しいわけでもないなと思います。
あなたの苦しみはなんですか? 私には解からない。誰かが反応を返してくれない事には、その誰かが居るという事を感じ取れないのでしょうか。
たとえば耳を澄ませば、どこかで子供がわめいている。友達同士で遊んでいるのでしょう。隣近所のどこかの家で掛けているテレビの音が、何かのラジオ番組からの音楽が聞こえてくる。それは誰かが居るということにならないのでしょうか。
あなたに関わっている人だけが実在で、あなたに関わり無い人は存在しないのでしょうか。係わり合いのない誰かが存在するだけでも、そこに誰かが居ることは安心ではないのでしょうか。
愛されている実感というものが、どんな精神状態なのか、どんな環境であればそうだと思えて安心できるものなのかが解からない。
生きている人間でなくても、たとえば私はうしろの神サマが興味深々でこっちを気に掛けている事が感じられる。道を行く時、ふと目を向けた先にある小さな道祖神の祠に軽く会釈すれば、そこに小さき神の存在を感じることが出来る。
それは他の人からすればただの気の迷い、妄想だと思うかも知れない。私は根拠もなく常に自信に満ちていて、だから他人など正直どうでも良いと思っている部分もある。根拠のない自信の源は、幼少時の成功体験や安心できる環境などではなく、むしろすべての否定から生まれたものだから。
この世には、何もない。
何もないと解かった時に、人が否定する神々の存在もオカルトも、私には揺るぎないものとなった。それを否定する人々の根拠が崩れ去ったからです。
その人々にとっては私の感じるものが否定する材料に満ちていたとしても、私にとってはその人々こそが存在する材料に欠けた、曖昧な幻に思える。
中途半端に信じてみたり、疑ってみたりを止めれば楽になれるよ。何もないということは、可能性においてはすべてが在るということだ。
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