最終章

「まったく、あなたという人は……。羞恥心というものがないのですか?」

「違いますよ。浴衣のときに下着を着けないのは男性のロマンなんです!」

 おしとやかに横を歩くチエリさんに、わたしは拳を握りしめながら力強く言った。

 少し蒸し暑い空気は海へと向かう風に流され、虫の音は徐々に波の音へと変わっていく。空では細い三日月がわたしたちを見下ろし、夜をうっすらと照らしていた。

「ハルキ兄様ー」

 わたしは花火の準備をしている彼を見つけて名前を呼んだ。Tシャツにハーフパンツという格好で、彼はろうそくに火を付け終わるとこちらを振り向く。

「ようやく来たか」

 何気なく言ったハルキ様の第一声に、横からため息が聞こえた。

「ようやく来たか、ではありませんわ。女性がわざわざ普段着から浴衣に着替えてきたのですから、ほかに言うことがあるでしょう?」

「そうですよ。ハルキ兄様」

 二人に言い寄られて彼は困ったような表情を浮かべる。そんな彼を見て、わたしとチエリさんは顔を見合わせて苦笑を浮かべた。

 わたしたちは彼が全身を見やすいように一歩を下がると、二人揃って両腕を広げながら浴衣を見せて感想を求める。

「で、どうですか?」

「どうですの?」

 少しくすぐったい彼の視線に耐えながら、わたしたちはハルキ様の言葉を待った。二人の視線が彼に集まって、彼は少し視線を外しながら口を開く。

「ああ、そうだな、二人とも似合ってるよ」

 それはぶっきらぼうな口調だったけど、わたしの胸を一杯にするには十分だった。

「ありがとうございます♡ ハルキ兄様♡」

「おい! 暑いから抱きつくな!」

 飛びつこうとするわたしの肩をつかんで、ハルキ様はわたしを引き離そうとしながら後ろに声を飛ばす。

「チエリ! こいつをなんとかしてくれ!」

 でも、何も反応はない。気になって振り向くと、そこには頬に手を当ててもじもじとする彼女の姿があった。わたしはハルキ様から離れると、彼女の手をとって言った。

「さあ、花火を楽しみましょ」

「え? ええ、そうね」

 少しほうけたままの彼女の手を引いて、わたしは砂浜に置かれたベンチに腰掛ける。隣にチエリさんを座らせると、面倒臭そうにそっぽを向いてハルキ様が何かを差し出してきた。

「ほら」

 差し出された台紙には数種類の花火が並んでいて、その中からわたしはススキ花火を、チエリさんは線香花火を一つずつとる。そして、わたしとチエリさんは空き缶の中に立てられたロウソクから手持ち花火に火を着けた。先端の紙が燃えて炎となり、次に光の粒がシャワーのように吹き出して、海底を照らす明かりのように暗い砂浜に光の空間を生み出す。

 一方でハルキ様は、わたしたちから少し離れると、自分はライターから直接手にしたススキ花火に火を着けて楽しみ始めた。

「あの、ヒガンさん?」

 ハルキ様を見ていたわたしに、チエリさんが線香花火を見つめたまま話しかけてきた。

「なんですか?」

 わたしも自分の花火に視線を戻して聞き返す。それは無数に降り注ぐ小さな流れ星のようで、今なら何でも願いが叶うような気がした。

「わたくし、あなたともっとお話がしたいですわ。その、ハルキさんのこととか……」

 わたしは黙って彼女の声に耳を傾ける。

「も、もちろん、それだけじゃありませんけど。だから、夏休みが終わっても……」

 そのとき、お腹に響くような大きな音とともに夜空が明るくなった。「あっ」というチエリさんの声に横を見れば、線香花火が砂浜に落ちてゆっくりと光を失い。わたしの花火も勢いを失って消えていく。

 わたしたちは水の入ったバケツに燃え尽きた花火を入れると、打ち上げ花火へ視線を移した。

「きれいですね」

「そう、ですわね」

 チエリさんの声は少し寂しげだったけど、わたしは聞こえない振りをして次々と咲いては消えていく大輪の花を静かに見上げていた。

 ごめんなさい。

 嬉しさの影から覗く恐怖に気づいて、わたしの心にそんな言葉が浮かび上がる。でも、その恐怖は漠然とていて、広がる不安にわたしは自然とハルキ様のほうへ目を向けた。

「⁉」

 そこには、わたしを見つめる彼の視線があって、絡まる視線に自分の鼓動が早くなる。彼は、胸を押さえるわたしから慌てて視線をそらすと、ラムネのケースを取り出し、いつものように中身を口へと放り込んで噛み砕いた。

「あ、ハルキ兄様、わたしも……」

 腕を伸ばして立ち上がろうとしたわたし横を、桜色の風が追い抜くようにして過ぎていく。

「ハルキさんだけずるいですわ」

 チエリさんはそう言って、彼の手からケースを素早く取っていく。

「おい! バカ、返せっ!」

 慌てる彼を無視して逃げるように浴衣を翻しながら、彼女はケースを月明かりにかざしてふたを開けようとする。でも思うように開かなくて、彼女はケースを頭上で叩きだした。そして、やっと開いたケースからラムネが一粒落ちていく。それは月明かりを反射して真珠のように輝き、そのまま艶めかしく開いたチエリさんの口へと消えていく。

「それは、まずいッ!」

 切羽詰まった彼の声が、闇夜を切り裂いてわたしの耳を震わせた。

 ラムネの消えたチエリさんの口を見つめる彼の顔は、一切の血の気を失って幽霊のようだった。

 彼の豹変振りにわたしの体は悪寒で鳥肌が立ち、不安だけが急速に膨らんでいく。

「クソッ!」

 ハルキ様の吐き捨てる声と砂の飛び散る音が同時に聞こえ、次の瞬間には女性のくぐもった声が聞こえた。

「ん⁉ んんん!」

 声のほうに焦点を合わせると、そこにはチエリさんの唇を強引に奪うハルキ様の姿があった。ハルキ様は彼女を逃がさないように強く抱きしめたまま、貪るようにチエリさんの口を蹂躙していく。突然のことに逃げようとしていたチエリさんの体からは次第に力が抜けていき、見開かれていた瞳も次第に細くなって、目尻に涙を浮かべたまま彼を見つめるだけになる。

「ハルキ兄様?」

 荒い鼻息さえも聞こえてきそうな乱暴なキスをする彼と、それに身も心も溶けていくような彼女の姿に酷い疎外感を覚えながら、それでもわたしの体は動かない。

 彼の唇が彼女から離れ、その間を唾液が一筋の糸のように伸びていく。でも、それは彼の一言で断ち切られた。

「チエリ! 飲み込めッ!」

 怒声のようなその言葉にわたしの体は怯え、肩をつかまれたチエリさんはビクッと体を震わせると頷くように喉を鳴らした。

「よし、それでいい」

 乱れた息のまま、安堵を含んだ声でハルキ様が言う。しかし、花火に照らされた彼の額には大粒の汗が吹き出し、ふらつく体は次第に左右に大きく揺れていく。そして彼は、崩れる積み木のように砂浜へと倒れ込んだ。

「ハルキ様⁉」

 彼のもとへ駆け寄り、わたしはその体に触れようとする。その瞬間、

「ぐっ! がぁああぁあああ!」

 喉をかきむしりながらハルキ様が砂の上に倒れてもがき出した。

 なに? これはなんなの?

 状況を理解できず、わたしは彼を見下ろしながら呆然と立ちすくむ。すると、また何かが倒れるような音が聞こえ、そちらに視線を向ければ、今度はチエリさんが倒れていた。

「これは予想外の事態かもしれないわね」

 突然後ろから聞こえた声に振り返れば、キクノが闇夜に浮かびながら難しい顔をしていた。

       ◆

「何か知ってるの⁉」

 詰め寄るわたしにキクノは慌てた様子もなく言ってくる。

「毒だよ」

「毒⁉ なんでそんなもの⁉」

「ハルキが護身用に持ってたんだ。それを、あのお嬢様が間違って食べちゃったみたいだね。それをハルキが回収して、でも彼はそれを呑んでしまった」

 ハルキ様に目を向ければ、彼は四肢を痙攣させながら目を見開き、焦点の定まっていない瞳は空をただ見上げていた。

 かすれるような彼の呼吸が、わたしの胸を締め付ける。

「お嬢様の様子からすると、彼女はハルキから解毒剤を飲ませてもらったみたいだね」

 少し離れた位置に倒れているチエリさんを見ると、少し顔をしかめてはいるものの息遣いは穏やかで、確かに彼女は大丈夫そうだった。

 なんとかしないと。

「ハルキ様! 聞こえますか? 解毒剤はもう無いんですか?」

 彼の耳元で叫んで様子を見るけど、視線は変わらず空に向けられたままで、彼は何も応えてくれない。

 わたしは彼のハーフパンツのポケットに手を入れると、中身を全部取り出していった。でも、中には解毒剤のようなものはなくて、わたしは砂の上に落ちていたピルケースを見つけると、それの中身を彼の体の上にぶちまけた。バラバラと白い粒が幾つも散らばり、その中にも解毒剤らしきものは見当たらない。

「なんか、見た感じ助からなさそうだし、放っておいてもいいんじゃない?」

「なんで、そんなこと言うのよ!」

 キクノの普段と変わらない言い方に苛立ちが爆発して、わたしは砂浜を殴りつけて叫んだ。

「このままじゃ、彼が死んじゃうのよ⁉」

「どうせ死んだってループするんだしさ。そりゃ、また探すのは面倒だけど、時間なんてあたいらには幾らでもあるんだから、無駄なことしなくても……」

「違うッ! そうじゃないのよ!」

「じゃあ何? ハルキが助かる方法でもあるの?」

 相変わらず淡々と言ってくるキクノを睨みつけ、わたしは乱れかけた息を無視して言葉を吐き出す。

「そんなのわからないよ! でも、ここで彼を死なせてしまったら、彼の死を背負うのはチエリさんなのよ⁉」

「だからなんだって言うのさ。それこそイグノアに戻れば経験の一つになるだけだろ?」

「そうでも、好きな人を自分の手で殺した経験なんて……」

 頭が痛い、重い。記憶が、経験が、わたしの中で何かを断ち切ろうと暴れ回ってるみたいだ。

「とにかく、わたしはハルキ様を助けるのッ!」

 自分の中の獣を黙らせるように叫んで、わたしは彼を抱きしめた。痙攣し続ける彼の体は冷たく、限りなく細い息が耳元で彼の存在の儚さを伝えてくる。

「ヒガン、もう手遅れだって……」

 キクノに構ってはいられない。

 お願い! 死なないで!

 想いという力を信じて、わたしは彼の中にいる自分を通して呼びかけた。

 抱きしめるほどに彼の体は冷たくて、自分の息の温もりを、汗ばむ体とその奥にある高鳴る鼓動を伝えようと、わたしは強く抱きしめ続ける。

 しばらくすると彼の体は微かに温かくなったように感じた。でも、まだ足りない。もっと、もっと、もっともっともっともっと……。

「無駄だよ、ヒガン。ダウンには防衛機構があるって言っただろ、ヒトの体だって例外じゃない。むしろ想力の源である幽体を閉じ込めてるんだから、体内のほうが排除しようとする力は強……」

「うるさいッ! そんなの知らないッ!」

 わかってる。今だって現状維持がやっとで、それもきっと時間の問題。でも、そうじゃないの。わたしが止めたいのは彼の死だけど、そうじゃない。

「だめだよ! 死んじゃだめッ! あんな、忘れたいと思うような、思ってしまう死なんて……。意味さえも殺してしまう死なんて、悲しすぎるから……」

 諦めの縁で叫ぶわたしに、キクノが優しく話しかける。

「死なんて、ただの区切りだよ。それ以上の意味なんて、幻想と同じで元からありはしないんだよ」

 それでも、わたしは彼を抱きしめ続けた。

 戻りかけていた彼の体温は再び失われ始めている。それなのに世界の陵辱が始まったわたしの体は燃えるように熱く、頭の中はぼんやりとして、なんとか意識を保とうと頑張っても目の前で星の光を消していく黒い雲のように、快感は容赦なくわたしの意識を塗りつぶしていく。

「く、うぅ、あ、はぁ、あぁあ♡ はぁ、ひッ、ひゃっ♡ くぅ、や、やぁ♡ いや、やめて、やん♡ はぁ、あぁん♡ やだ。いや。いやいや、い、やぁああああああああああああ!」

 肌が粟立つような快感が全身を波のように駆け抜け、脳は痺れて彼を求めて子宮が激しくうずき出す。甘美な死の歌声が耳の奥で激しく鼓動を打ち鳴らし、自然と溢れる涙は恐怖と歓喜をない交ぜにして、わたしは彼を抱きしめたまま獣のように叫んだ。

 そんな中、微かに残った理性が、彼の命の奥底へと手を伸ばして想いを届けようとする。

 カブト様、お願い! 戻ってきて!

 でも、その想いを掻き消すように雷鳴は轟き、雨雲が月を隠して幾つかの街灯だけが砂浜を冷たく照らす。そして、何もかもを洗い流すように激しい雨が降り始めた。

 熱いくらいの体とは対照的に、急速に心が冷えていく。彼の体から温もりはすっかり消え落ち、息遣いも聞こえず、その瞳は開いたまま闇をその内にただ映していた。

       ◆

 そこは深海のように暗く静かだった。

 わたしの思考はゆっくりと、重く沈むように落ちていく。ただ、意識だけは鮮明で、どこか懐かしい心地よさに導かれて、音もなく降る雪のようだった。

 周囲に意識を向ければ、闇の中に泡のような淡い光が幾つも浮かんでいる。その中の一つが、音もなくわたしのそばを通過する。

《ヒガンに、もう一度……してもらうんだ》

 それは彼の声だった。でも、その意味がわからない。

 また、別の泡が通り過ぎていく。

《まあ、そのときは……人を呪わば……て言うからね》

 苦笑交じりの声が、彼の困った顔を思い出させる。でもそれは、わたしに向けられた言葉ではないように思えた。

 なぜだか少し息苦しい。

《彼女を救えない……を僕は許せないから》

 救う? 彼は何を言っているのだろう。

 まるでノイズのように意識が軋む。うまく息ができない。

《自分でも卑怯だとは……けど》

 悲しげな声が、わたしの意識を締め付ける。

《……を信じることしか……ないから》

 優しい声が、わたしの意識をかき乱す。

《いいかい?》

 いいわけがない。

 意識が痛みを伴って、錆び付いた歯車のように苦しい。

《君の手で僕を》

 静かな声が色を失っていく。

 苦しい。聞きたくない。もう続きはいらない。

《僕を殺して》

 首を締め付けられるような苦しさに、意識を手放しそうになる。

 もうやめて。

《君が》

 なんで……。

《僕を》

 どうして……。

《殺せ》

 嫌だよ!

 もう意識が続かない。わたしは、もうここにはいられない。

 わたしの意識が急速に浮上する。

       ◆

「ヒガン! ヒガンってば!」

 マグマのようにうずく子宮と耳の中を叩くような鼓動の向こうから、わたしを呼ぶ声が聞こえる。その声を意識すると次に雨の音が聞こえ、続いて背中を打ちつける滝のような感覚がやってくる。そして、わたしはゆっくりと目を覚ました。

「キ・ク・ノ?」

「ヒガン⁉」

 まだ体が燃えるように熱くて頭がぼーっとする。キクノの声も陽炎のように揺らめいて、上半身の下に広がる心地好い感触に、まどろみは強くなる。

「……ン……」

 激しい雨音の間を縫って、何か息遣いのような音が聞こえる。

「ヒ、ガン……」

 それは、わたしの名前だった。

 こぼれ落ちるようなその儚い音の連なりを追って、わたしは肉塊のように重い自分の体を持ち上げていく。

 見下ろす先にはずぶ濡れの彼の体があって、その胸は微かに上下していた。わたしは期待と恐怖で軋む首を動かして、なんとか彼の顔へと視線を向ける。

「カ、ブト……さ、ま?」

 わたしの弱い声は、雨音に掻き消されて自分の耳にさえ届かなかった。でも、わたしの視線の先で彼は動く。視線をわたしへと向けて、彼は弱々しくぎこちない笑みを確かに浮かべた。そして、彼の唇が動く。

(終わりにしよう)

 それは決定的な引き金となって、わたしの中で何かが崩れていく。

 どうして? なんで?

 なんで、わたしは泣いてるの?

 自分の頬を伝わる雨とは違う温もりに、わたしは戸惑い、それでも抑えきれずに雨に全身をさらしながら無防備にありったけの感情を吐き出した。

「ああ、あああ、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 心を縛っていた大切なものが震えて砕け、消えていく。

 嫌だ。嫌なのに。それは彼との約束なのに。

 それでも喉から、体の奥から感情は産声のように天へと駆け抜け、それも次第に消えていく。そして、何も無くなったわたしの体を激しい雨が打ちつける。

 目の前でゆっくりと上体を起こした彼が、わたしの頭を優しく撫でる。わたしは、その懐かしい感触に震え、その胸に顔をうずめて強く抱きしめた。

 そして、わたしはふらつく彼を支え、彼はわたしの肩に手を置いて一緒に立ち上がる。

 重たい雨に打たれながら、わたしたちはそれぞれの足で立つと向かい合った。

「じゃあ、始めようか」

 辛そうに苦笑いを浮かべながら言う彼に、わたしはただ頷いて想いを形にする。それは契約を断ち切る力、彼との確かな繋がりを消し去る絶望の意思。

 手の中にあったのは、あのナイフだった。

「何を、しているの?」

 咎めるような声に振り向けば、濡れた桜の花びらのような髪をまとったチエリさんが、こっちを見ている。

 わたしは手にした刃を見て、怯えるように震える彼女へ視線を戻すと、「ごめんなさい」と唇を動かした。

 彼女の瞳は助けを求めるように彼を見て、何も言わない彼からゆっくりわたしへと向けられる。そこにあるのは怒りと悲しみ、そして……。

 ごめんなさい。

「やめてよッ!」

 わたしの気持ちを否定するように彼女が叫ぶ。わたしは刃を見つめることしかできず、それでも彼女の嗚咽がわたしを追い詰める。

「いいんだ、チエリ」

 彼女の声に応えたのは彼だった。彼は白い息を荒く吐き出しながら、彼女を真っ直ぐに見つめる。そして、わたしに向けたような、でもどこか遠くを見るような柔らかな笑みを浮かべる。

「何がいいの⁉ 訳がわかりませんわ!」

 突き放すように彼女は叫び、彼は大きく息を吸って何かを思い出すように話を続けた。

「俺は……、いや、僕は待っていたんだ」

 かすれる息遣いに目を向ければ、彼はチエリさんではなく空を見つめていた。雨は容赦なく彼の顔に降り注ぎ、その頬を幾重にも濡らしていく。

「そう。僕を殺していいのはヒガンだけ」

 それは、わたしにしか聞こえないような小さな呟きで、でも、だからこそわたしには大切な言葉だった。

 彼は再び大きく息を吸うと、はっきりと今度は彼女へ向かって最後の言葉を告げる。

「ごめん。君とはここでお別れだ。でも、きっとまた会えるから。じゃあ、またね」

 そう言って彼は、彼女からわたしへと顔を向けた。恐る恐る視線だけで彼女を見れば、驚いたその表情は彼を見つめたまま歪み、雨音に混じって悲しい叫びが耳を打つ。でも、彼はそんな音など無いかのように決して振り向くことはなかった。

「さあ、葬送は終わりだ。新しい契約を始めよう」

 彼は、見上げるわたしを優しく見つめてそう言うと、刃ごとわたしを抱きしめた。

 彼の口から咳き込むような短い息が吐き出され、わたしの手がゆっくりと温かくなっていく。

《デッドトリガー及びデッドフラグを確認。ループを終了し、シャットダウンを開始します》

 わたしを通して彼の終わりが聞こえる。

 彼を貫いた刃からは光の蔓が伸び、それは彼とわたしを包み込むと、赤と青、二色のアサガオを咲かせていく。それは混じり合うことはなく、でも離れることもなく寄り添って、闇の中で大きな光の樹を形づくっていった。それは大きく広がり、雨の代わりに淡い光を降らせ始める。

 わたしは、白く塗りつぶされていく意識の片隅で幾筋もの光を見ながら、まるで光る大きな海月のようだと思った。

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