なにもしていない

 筆談をしている僕と喜与味をよそに、学ランの中学生は黙々と本を読んでいる。そして赤い着物の志摩冷華は筆を休めることなく原稿を書いている。アカネは一人でもくもくと原稿用紙に何かを書き込んでいる。先日、彼女は小説を書いていると言っていたので、おそらくそれだろう。たまに筆が止まると、彼女はこちらをちらりと見てくる。ちょうど僕が彼女の方を見たときに、たまたま彼女と目が合ってしまい、そのとき彼女は「なにみてるのよ」とでも言いたいような表情をしていた。

 この中で唯一、僕一人が何もしていない。本を読んでいるわけでもなく、何かを書いているわけでもない。元々僕は、自分の意思でここへ来たわけではない。ただ連れてこられただけだ。熱心になるほどやりたいことがなく、すべきこともない、ただ周囲を傍観しているだけの存在。僕がまさにそれだ。自分ひとりだけ取り残されたような、そんな気持ちになった。

『ごめん。そろそろ帰る』

 僕は手元にある原稿用紙に、その一言だけ書いて喜与味に見せると、返事を待たずに席を立った。

 店を出ると、外は薄暗くなっていた。スマートフォンのライトを点灯させ、その光を頼りに僕は家へと足早に歩いた。

 外灯も無い森林を一人で歩くのは心細い。熊が何かが今にも襲ってきそうな雰囲気。足が震えている。しかしブックカフェへと引き返すつもりはない。はやくこの森を抜け出したい一心で、僕は震えながらも足を前へと進めた。

 しかし結局その日、僕は家へと帰ることはできなかった。森が、僕を帰さなかった。

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