一歩退いて

 教室の窓際の一番前の席。そこが氷川喜与味の席だ。昨夜、彼女の部屋が荒らされた。何者かに昨夜、巨大なハンマーのようなもので彼女の部屋にあるものすべてがひとつ残らず、砕かれたりつぶされたりしていたと、朝のショートホームルームで担任が僕ら生徒に告げた。しかも彼女は昨日の夕方から行方不明だという。不振な人物を見かけたら自分か駐在さんに知らせるように、極力下校時は二人以上で帰るように告げると、担任は足早に教室を去っていった。二人以上と言われても、僕はいつも登下校は一人だ。行動を共にするほど仲のいい友人はいない。

 巨大なハンマー。それを聞いて、まっさきに頭をよぎったのが昨日のあの男である。黒服の男。校門のところに立っていた男である。彼は巨大なハンマーを持っていた。しかも、こちらの教室を見ていた。彼を見たのは僕だけだったのだろうか。

 しかし妙である。あんな巨大なハンマーを持った男だ。目立たないわけは無い。誰かが不振に思っても不思議ではない。それにあのハンマーで部屋を荒らすとなると、ものすごい轟音が鳴り響くはずだ。その音に、家族や近所の人間は誰も気付かなかったのだろうか。それとも、たまたまそのとき、家に誰もいなかったのだろうか。担任の口から、細かい詳細は語られなかった。僕の頭の中であらゆる疑問がぐるぐると渦を巻いている。不思議だ。何にも関心が無い僕に、今回のこの出来事に対する好奇心が芽生え始めているようだ。

 授業の合間、教室内では氷川喜与味の話題で持ちきりだった。不審者が身近に潜んでいるとなると、誰もが興味を持つだろうし、自分の家も被害に遭わないかと不安にもなるだろう。実際僕もそのうちの一人だ。ただしまわりの雑談に参加しようなどとはいっさい思わない。一歩退いて会話を聞くだけだ。窓の景色を見ているフリをして、話をしている連中と顔を合わせないように、ただ聞くだけ。そして頭の中で情報を処理する。変に人と関わり、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。立ち入らず、一歩退いているほうが気楽でいい。僕はいつもそう思っている。


 その日の放課後。担任のことばを無視して僕は、ひとりで帰ろうとしていた。校門を出て右に曲がり、少し歩いた。僕の足で五分ほど歩くと、左手に公園が見えてくる。その公園を僕が通り過ぎようとすると、「安藤くん」と後ろから誰かに呼び止められた。振り向くと、うちの高校の女子生徒がひとり立っている。

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