空はまだまだ遠く

ウサギ様

空って案外近い

 ーー天才やらと言われようとも、蒸気の熱もそれに焼かれる痛みも知らないお前はどれほど腕を磨こうが、三流だ。


 男はライターに火を点けて、口元に運び咥えた煙草に火を移した。

 空の上で輝いているであろう日の光は薄らとぼやけていて何もなく直視しても不快感は覚えない。 そのために昼間で雲もないというのに街は薄ら明るいだけだ。


「技術は発展したが、これは変わらない」


 男は蒸気にも似た白い息を吐き散らし、目の前に広がる巨大な蒸気機関を見詰める。

 これと男が指したものは、目の前の蒸気機関ではなく、口から吐き出される煙草の味だ。


 男は幼少の頃から味わってきたそれをもう一度吸い込み、一歩踏み込み蒸気機関に手を当てる。


「悪くない。 それなりに良い造りをしている」


 目の前の機巧を見て素直にとは言い難い言葉で褒める。

 その鉄の塊を見れば、知らぬ者ならば、船であると答えるだろう。 あながちそれも間違いではない。

 そう思い至った男は微かに笑いながら、軽く握った拳の甲で軽く叩く。


「それなりに、ですか。

これは手厳しい……。 これでも高名な機巧師の方を、集め作ったのですが」


 男に初老の男が言った。 それなりに自信でもあったのだろう。

 何度か甲で鉄の塊を叩いた後に、呟くように言った。


「技師ではなく、元の鉄だな。

まぁ、それでも悪くない。 これならば空に蒸気を吐き散らすのも可能だろう」


 男はそう言ってから鉄の塊から離れた。

 初老の男は一応及第点はもらえたのかと胸を撫で下ろした。 これで空を飛ぶことが出来なければ、大損も過ぎる。


 男達のそんなやり取りの中、小柄な身体に大きな作業着を無理矢理に着せたような、不恰好な服装をした子供が男の元に駆ける。


「手が焼けてます」


 鉄の塊、油の匂いに、蒸気の熱。 このどれとも相性が良いとは思えない高い声が男の耳に入った。

 その言葉に男は手を上げて見ると、長い間鉄の塊に夢中になっていたせいで全く意に介していなかった煙草の火を手で握っていた。


 間抜けだなと。 男は心中で自嘲して、煙草の火を握り潰した。

 また。 そう似合わぬ作業着姿のの子供が言ったが、男は煙草の火がなくなったことを目で見て確認して、作業着のポケットの中に吸殻を突っ込んだ。


「空は、夢ですよね」


 初老の男は子供の姿に意を介す様子もなく、童のように目を開いて太陽の光を反射させながら語った。

 空は夢だと。


 子供の姿そのままの初老の男にほんの少しの呆れを覚えながら、男は軽く鉄の塊を見上げながら傾聴する。

 自身がどれほど空に夢を見て、恋い焦がれたか。

 馬鹿らしいとは思いながら、それでも貧民あがりの男がここまで成り上がり、焦がれたそれを手にすることを目前にまでやったのだから驚嘆に値する。 手放しで褒め讃えることも吝かではなかった。


 まだ誰にも踏み散らされていない処女の空を我が物に出来る。 初老の男は太陽を見上げながらそう言った。


 事実として考えても、人間が惚れ込み近寄り飛ぼうとも、振り払われるように空から落ちるのがこの世界の理だった。 空は鳥のみを良しとしてそれ以外は要らないと言う高嶺にあるものだ。 確かに高いところにはある。


「空、ね。 またいつか乗せてくれ」


 師が遺した設計図から生み出された船。 男はそれにもう一度触れると、小さく笑った。


「飛行には、まだ技師の力が必要です。 なので……初飛行時に、整備と緊急時の対応にーー」


 老人の言葉は男の手に遮られた。

 深い火傷跡が大量に残った手に驚き、喉から出掛かっていた空気が音を含まずに吐き出される。


「俺は乗れねぇよ。 少なくとも技師としてはな」


 老人は息を飲み、呻くが、そう簡単に引き下がれるものでもなかった。


「お願いします。 あの方の弟子は貴方だけではないですか」


 男は表情を歪めて、ライターを取り出し、火を付ける。

 老人に見せつけるように、その火によって自身の指を炙る。

 焼けた肉の匂いがする。 老人は表情を歪めて、それを見た。


「俺は所詮、出来損ないだ。 身に余る光栄だが断らせてもらう。

……あのクソジジイには、息子もいただろ。 そいつでいいだろう」

「彼も一流の技師ではありますがーー」


 「んっ」と小さな声と、パチンという音が響く。 男の手からライターが落ちて、それを少女が取る。


「馬鹿なことは止めてって、ボク言いましたよね?」


 少女が男に詰め寄るが、男は気まずそうに頬を掻いて焼けた手で少女の頭を撫でる。

 そして小さな声で確かめてから、老人の方に向き直った。


「悪いな。 直前の確認ぐらいはする」


 少女に手を引かれて男が去っていく。 歳下の少女に頭が上がらない姿は以前に見た技師に似ていて、老人はため息を船に吐きかけた。


「あの人は、貴方のことも息子だと思っていましたよ」


 男には届かない。 聞こえていたとしてもそれは変わらないだろう。

 煙の匂いに、焼けた肉の匂い。 鉄臭さのまわりにそれを残していった男の姿はもう見えはしない。

 空を見下げる日はまだ遠い。



 昼飯時は逃したが、それはいつものことだ。

 少女が甲斐甲斐しく、毎日決まった時刻に調理を終えても、男の口に入るのはその一時間後か、三時間後か。 あるいは少女が再び作り直すか。

 食事が二人の口に入る時間はいつも不定だった。


 男の仕事が一息つけば食事。 男の仕事が終われば就寝。 男の仕事が続けば続いただけ、無茶苦茶な時間に食事を摂ることになる。


「たまには外食しません?」

「お前の作る飯でいい」


 少女は甘いデザートの匂いに後ろ髪を引かれるような思いをしながら、男の背を追うように歩いた。

 別に自由に出来る金銭も時間もあるのに、どうして今に限ってそんなにも食べたいのか、少女は軽く首を傾げながら家に置いている食材を思い出す。


 男は煙草を口に咥えて火を付ける。 男の吐き出した煙は、近くの家に取り付けてある排気口から出た蒸気の渦に巻き込まれてどこかに消えていった。


 あんな苦いものを好き好んで吸うなんて、この人は味覚もおかしいのだろうか。 ケホッ、軽く少女が咳き込み。

 男は煙草の火をまた握り潰した。


「空は夢だと思うか?」


 男が虚げに空を見上げながら口を開いた。


「ボクはそんなに魅力を感じませんよ。 地上なら汽車が早いし、海なら船があるから。

何処に行くにしても、空を飛ぶ必要って感じですね」


 男は軽く頭を掻きながら、目線を空から戻し、少女の顔を見る。


「女には分からないか」


 空を飛ばなければ、空には行けないだろうが。 男は言葉を飲み込みながら、不満そうに唇を尖らせる少女を見た。

 マヌケな話だ。 技術も何もない少女の方が、よほど分かっているのかもしれない。

 けれどもそれを認めるのは癪で、別の言葉を続けた。


「空に飛べば、空に飛ぶ必要も出てくるだろう」

「ロマンってやつですか? なら、受けたら良かったのに」


 少女は簡単に言うが、男にはその簡単なことが出来なかった。 断ったのは意地だろうか。

 男は白くボヤけた道を歩きながら、考える。

 答えはまだ出ない。 空を飛びたくないはずもなかった。


「女には分からないか」


 もう一度繰り返すが、それは男にも分かったことではない。

 男は吸いかけで止めた、まだまだ残っている吸い殻を見る。 それでも自らの思いがあまりにも女々しいことぐらいは、理解していた。


「いつも、そればっかりで」


 少女の言葉を聞き流し、霧にも似た蒸気が肺を濡らすような感覚のする区画にきた。

 男にとっては知ったことではないが、工業区と呼ばれるそこに着く。 煙草が湿気り吸えたものではなくなる不景気な場所であるが、男にとっては都合がいい。

 他にやることがなければないほど、仕事に集中が出来た。


 やはり、男は女々しかった。 技師としての知識を授けてくれた物は、そんな環境がなくとも、のめり込み続けることが出来ていた。

 自身には環境が必要だ。 煙草に火を灯すのが面倒で、都合がいい弟子の世話がなければ、まともに生活すら出来ない。

 もう単純な技術ならば、知識を授けてくれたあの人も遥かに超えている自負はあっても、彼よりも腕の良い技師ではなかった。


 ーー知識なら教えてやることは出来る。 だが、お前には技術は教えててやることは出来ない。


 結局、弟子とは認められなかった。

 心が曇るのが分かる。 故人に対する感謝と恨みと尊敬。 そのどれもが自己主張するように、心を曇らせた。

 感覚が、外界との関わりが欠けている身体を持っているせいで、などと思わなくもない。


「ラノさん、ご飯食べないと……」


 俺には熱がない。 着崩した作業着を戻す。 弟子の少女の言葉を無視して、工房に向かう。


 工房の扉を開ける前に、地上の蒸気で見えない空へと目を向ける。

 俺に触覚があれば、今頃あの爺さんと空について語り合っていたのだろうか。 男はそう考えてから暗い工房の中に入った。


 あまりにも女々しい。 空から逃避をするように、穴倉の中で槌を振るう。

 この瞬間だけは、何も考えずにいられた。


「ああ、空は遠い」


 まだまだ空は遠くにある。 工房から蒸気を吐き出させれば吐き出させるほどに、霧が濃くなり、空が遠のく。

 だからだろうか、槌を振るえば、蒸気を散らせば、空を忘れられた。



■■■■■


 空という夢があった。 あるいは疾病があった。

 世界一の技術都市、そこでも一番と呼ばれるような技師がいた。

 いい歳をして青い空に魅せられた壮年の男で、設計士とともに一つの図面を引き続け、設計士が死に、最後には一人でその図面を書き終えた。


 巨大な飛行船だ。 有人飛行は未だに成功していないが、小さいおもちゃのような模型を飛ばすことは出来ており、その船を完成させることは理論上は可能だった。


 けれど、有人飛行は蒸気技術との食い合わせが悪かった。

 軽い気体を鉄の風船に詰めて、蒸気機関により浮かせ動かす。

 言ってしまえば単純なことだが、それを成し得ないのには理由があった。


 まず、巨大な鉄の風船を作る技術がない。 これは形だけならば容易に作ることが出来る。

 だが、船を動かすだけの蒸気機関から排される熱により、風船内部の気体が暖められることで内側からの圧力がかかる。 風船を膨らませ過ぎたらどうなるか。

 かといって、鉄の風船を厚く丈夫にしたならば、重さが増して飛行が困難になってしまう。


 コストがかかるが初めから熱した気体を入れるという策もあったが、蒸気機関の上にそんな熱量のある物をおけば、有人飛行は難しくなる。


 より良い鉄を、より均一に風船を生み出す技術を。 それがあれば作れるものだ。 けれど、それを求めるには男は年老い過ぎていた。


 世代の交代は、空という流行病が移ったかのように行われた。

 設計士の弟子は優秀だった。 技師の男では本職でない故に粗があったが、それをしっかりと見極め、良い部分は残して悪い部分は現実と照らし合わせながら訂正していく。


 一世代前の設計よりも幾分か小ぶりになり、飾り気が失われた設計図。 弟子はそれを握り締めて一人の老人の元に向かった。

 足で歩いているけれど、地を進む道は着実に空に近づいていた。


 空という流行病。 老人はその設計図に震え、備えていた私財の大半を投げ打って、多くの技師を抱え込んだ。

 腕がいいのはもちろんのことだが、腕が良くとも年老いた者は雇われなかった。 時間のかかる事業だったからだ。

 この飛行船が、技師達の明確な世代交代を表していたと言えるだろう。


 流行病は収まることなく、老人は病に犯されたように熱を帯びた顔で空を見上げ続けた。


 この製造に関わり、苦い顔をしている技師はきっとこの一人だけだろう。


 ラノライノ=ベトル。 誰もが近寄れないような熱気の中、煙草の煙のように蒸気を吐き出した。

 どれほど集中していたのか、分かりはしないが、腹が減っているので短い時間でないことは確かだ。


 完成したそれを眺めて息を吐き出した。 ただの船の模型。 仕事でもないそれを握って、工房の外に出た。

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