これら十三編

陋巷の一翁

彼女が傘を貸す季節(少年と梅雨)

 明け方は雲が少し出ているくらいだったのに、帰る時間には黒雲が空を覆う本降りの雨になっていた。季節は梅雨。降り注ぐ滝のような温ぬるい雨。学校帰りの下駄箱で、僕は傘を忘れて途方に暮れていた。

 ――ああ、こんなことなら――と後悔してももう遅い。黒い空をいつまで見つめていても雨は降り止む気配を見せず――むしろますます強くなるように僕には見えた。

 もう小一時間もここで難渋している。身体はそれほど寒くはないけれど、まとわりつく湿気がとにもかくにも気持ちが悪い。まだ雨の中にいた方が良いような――。だったら。それなら。

「……はい、貸してあげる」

 ――鞄を頭に載せてこの土砂降り雨を突っ切るか。そんな覚悟を決めたとき。唐突にピンク色で棒状の物体が目の前に差し出された。

 なんだろう――これは。一瞬戸惑った。

「……はい」

 もう一度、突き出される。それでこれが雨を防ぐための道具――傘であることがわかった。傘を掴んだ手の先を見やる。そこに彼女が立っていた。

 僕は声をかけてきた彼女を意外そうな目で眺めやる。なぜなら彼女と僕はただのクラスメイトでしかない。会話もほとんど――したことない。それが、どうして――?

「……貸してあげる」

「え? ――なんで――?」

「ちゃんと後で返しなさいよ」

 こんな――ことを。混乱する僕を尻目にそう言って押しつける様に傘は何度も突き出される。僕は彼女の顔をまじまじと見つめた。思えばこんなに近くで彼女の顔を見るのは初めてのことだった。

 トクン。

 急に心臓が脈を早め、不思議と顔の火照りを気取られやしないかと不安になる。けれども彼女の顔は横を向いていて、僕のことなど気に止めた様子もなく。そしてその横顔がとても美しかった。横を向いたまま彼女はぼそっと言った。

「……早く受け取りなさいよ」

「ああ、ごめん――」

 ぼんやりとしていた僕はようやく彼女から傘を受け取る。受け取った傘は仄ほのかに熱と彼女の香りを帯びていて、そのことが女性の優しさというものにまだ慣れていない僕をうっとりとさせた。

「それじゃ」

「……ありがとう」

 薄い実感のまま僕は彼女に感謝の言葉を返す。それが届いたのか届かないのか確認する暇いとまもなく彼女は簡単に僕の前から立ち去ってしまった。

 後にはピンクの傘を大事そうに持った僕が取り残される。それと土砂降りの雨の音。

 ――まるで夢でも見ているようだ。不意の好意にぼんやりとそんなことを思っていると、さっきの彼女がこの雨の中、真っ黒な傘を差した僕のよく知らない男の背中を追いかけてゆくのが見えた。彼女の顔はこんな雨の中でも喜びに輝いていた。雨の中でもまるでそこだけ晴れているかのように。僕の思考は夢から現実に引き戻される。

 ああ、なるほど、――つまり、――そういう。

 僕は全てを理解し、呆れると言うよりむしろ感心してしまった。

 ――うまいこと考えた物だ。手渡されたもはや熱を失った傘を軽く見つめ僕はそんなことを思う。

 他にもとりうる手段はありそうな物だったけど、これが彼女にとってそれが一番自然なやりかたなのだろう。

 土砂降りの雨の中、彼女に足を止められてどこか困ったような男と、そんな男に向かって何事かを真剣に提案する彼女。そんな光景を眺めながら僕は二人の会話を想像する。

 ――傘を忘れた友達に傘を貸したから、帰る傘がなくなっちゃった。帰り一緒の方向でしょ? 一緒に入れてくれない? ――そんな感じかな。

 落としどころとしては悪くない。罪の意識も感じない。それどころか、良いことをしたというおまけ付きだ。なるほどよく考えた物だ。俺は心の中で舌を巻いた。

 彼女に悪感情は抱かなかった。むしろそうすることが自然に見えた。

 とはいえ、この傘どうしよう。

 ――ありがたく使わせて貰うとするか。

 あいにく僕は傘が女物とか男物とかを気にする方じゃない。好意には、ありがたく感謝で答えよう。たとえ彼女のそれが打算に満ちていたとしても。

 僕は傘を開いた。カラフルな花柄の色彩が視界に入ってさすがにちょっと恥ずかしくなったけれど、少しの躊躇の後、僕は彼女の傘と共に雨の世界へ足を踏み入れる。花柄の傘は優しく雨から僕を守ってくれた。

 彼女の幸せもまた花開くようであった。向こうに見える開いた一本の黒い男物の傘の下には窮屈そうに彼女と男が並んで入っている。横目で見送る彼女はとてもとても幸せそうに見えた。ちらりとこちらを向いた彼女の視線に僕は開いた傘を僅かに回して応対する。まるで猫が尻尾を振るように。

 ――しっかりやれよ。

 そんな気持ちを乗せたつもりだが、彼女がどう思ったかはわからない。――もしかしたら恥じたかも知れないし、自らの打算を後悔したかも知れない。――そんなもの、男と一緒に帰れることで消え去ってくれればいいが。いいやもしも彼女が不安がっていたり後悔していたりとしたら――男はそんな彼女の気持ちを消し去ってしかるべきだろう。

 がんばれよ。

 ――幸せにしなかったら、承知しないぞ。

 そんな思いを込めて、クルリ、クルリと僕は頭上の傘を回す。ピンク色の花柄模様が優しく揺れて、僕に微笑をもたらした。二人の姿が見えなくなっても時折僕はその動作を繰り返す。まるで祈りを捧げるように。

 ……これで僕の話はおしまいである。ああ、あと使った傘は陰干した後、ちゃんと彼女に返したから。あしからず。

 だから彼女の実在を指し示すものを僕はもう何一つ持ち合わせていない。こうして彼女は僕の記憶の中だけの存在になった。それから時は流れ当然のように僕と彼女の間をやんわりと引き裂いて、もはや――彼女はあの雨の日の男と結ばれることができたのかどうかという噂すら聞くことのできない遠い存在になりはてた。

 けれども僕は、まだあの雨の日、僕に傘を差しだした時の上気した彼女の顔を忘れることができないでいる。

 おそらく一生、忘れることはないだろう。

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