黄昏をゆく葦の小舟

たびー

第1話 ブルーバード

 カーテンは開けたままにしておきましょう。

 今夜は満月ですもの。それに星明かりがとてもきれいよ。外はまるで黄昏どきのよう。

 カーテンもだいぶくたびれてしまったわね。布がすっかり薄くなって、細く裂けているしカーテンレールが何カ所も壊れている。

 直そうにもレッスン場の天井が高すぎて、私なんかが梯子をかけても手が届かないわ。

 鏡と床は毎日お手入れしてきたけれど、それも今日でおしまい。私はモップを片付けて、レッスン場に置いたベッドに眠っているあなたの額にキスをする。

 開けた窓から、かすかに人のざわめきが聞こえる。広場に集まる人が多いのかしら。二階の窓から外を見ると、噴水のまわりやベンチにやってくる人たちがいる。

 そうね、一人きりだとさびしいものね。なら私はここにいるわ。

 さてと、準備をしなきゃ。この日のために用意していたものがあるから。

 私は隣の部屋へ床を踏み抜かないように慎重に足を進める。クローゼットへ行くと、奥にしまっておいた紙の箱を取り出す。高さのない長方形の大なものだけど、軽いから私でも運べる。

 どうかしら、まだ着られるかしら。

 蓋を開けて中を確かめる。

 白のストッキング、よかった破れていない。それから、ペパーミントグリーンの衣装チュチュ。肩紐を持って目の前に高くかざす。ふわりと横に広がる裾はチュールを何枚も重ねて作られている。

 胸の位置に植物の弦を思わせる曲線的に縫いつけられたパールとスパンコールがきらきらと光っている。やっぱり、すてき。虫食いもないみたい。もっとも、細かいものはずいぶん見えにくくなったらから、気にしないの。

 着替えてみるとチュチュはすんなり体になじんだ。髪はどうしようかしら。おだんご……シニヨン、結えるかしら。長さは申し分ないけど艶を失ってまとめづらくなっている。でもヘアクリームが残っていたはず。髪飾りもつけたいからがんばって結ってみましょう。

 鏡に映る私は、おばあさんだけれど、平気。目をつぶれば、ほら。発表会の出待ちの順番に胸をときめかせている小さなバレリーナに戻れる。

 ほんとのことを言えば、そのときには主役ではなかったけれど。それでも、年に一度の発表会で衣装を身につけてきれいにお化粧をしてステージたつのは、ほんの端役でも心がわきたった。

 それに、あなたの踊りを見られることが、誰よりも拍手を浴びるあなたを見ることが、とてもとても楽しみだったの。

 ステージの袖から走り出てきて、軽やかに高くジャンプ。まるで、宙に止まっているように見えたわ。音楽に合わせて、しなやかな体から語られる物語をいつまでも、いつまでも見ていたかったの。一緒に踊るのは、私じゃなかったけど。


 だから、私を人生のパートナーに選んでくれたときには、夢みたいで信じられなかったもの。

 レッスン場のすみで不器用に踊る私に気づいていたなんて。


 いつでも楽しそうに踊っているから。だから、つらいレッスンをしていても、君の笑顔を思い出すと、バレエを嫌いにならずにすんだよ。


 そう言ってくれたのよ、覚えてる?

 左手の薬指は、結婚式であなたが私の指につけてくれたその時のまま、今も光っている。


 これでどうかしら。髪を結いあげて、小さな金の冠を頭に乗せた。ほら、私はフィオリナ姫。青い鳥のパートナー。あなたの得意なレパートリー、私が大好きだった踊り。

 トウシューズは……はいてみましょう、せっかくだから。もう爪先で立つなんてできないけど。

 若いときには思いもしないことよね。

 いつか踊れなくなる日が来るなんて。ずっと踊れると思っていた。あなたなら、ずっと、って。

 人が減っていって不自由になる生活を、アンドロイドが手伝ってくれたけど、なぜか踊ることはできなかったわね……どうしてかしら?

 人類の知識の粋を集めた宇宙開発の技術力で作られて、器用に家事や介護をしてくれたのに、歌うことや踊ることには向いていなかった。


 芸術には魂がなければいけないんだ、ってあなたは言った。


 感動は魂の共振だから……それを持たないアンドロイドには踊れないんだ。


 ほんとうは音楽を流したいわ。でも送電は一週間まえに終わったし、蓄電池もあなたを見送るときにレコードをかけたら使いきっちゃった。

 私がレッスン場に戻ると、外からは歌声が聞こえた。聖歌? ちがうわ、聞き覚えのある懐かしい曲調。仕事が終わって家路を急ぐ歌。

 わたしもそれにあわせて鼻歌をうたいながらゆっくりと踊ってみる。丸まりかけた背筋をできるだけ伸ばして、ゆっくりゆっくりとステップを踏む。


 隣にまぼろしのあなたを見つける。

 レッスン場に集まった子どもたち、生徒たちに教えるあなた。


 私たちの選択は、間違ってはいなかったのかしら。

 子どもを持つことはなかったけれど、たくさんの子どもたちを教えたわ。でも、物流が鈍くなって、トウシューズ一足、レオタード一着手に入れるのから苦労が始まって、大きな国際大会はおろか教室での発表会もままならなくなって……。

 あなたも、年老いて踊れなくなった。


『終わる日』が公式に発表されたとき、わたしとあなたは結婚したばかりで。幼いときからささやかれていた噂が真実だと知らされて、子どもは諦めたのよね。

 悲しい想いはさせたくないって、ふたりで決めたの。

 それでも、レッスンにやってくる子どもたちのお世話をするとき、柔らかな髪を結ってあげたり、上手にできたって抱きしめるとき、愛おしさでいっぱいになった。


 たとえ、終わる日が分かっていても……その日まで子どもといられないかも知れないけど、それでも……。下の世代には、まだ子どもが生まれていたから。

 あの子、もういくつになったかしら。『さいごの世代』たちは五十くらい? ご両親はお元気かしら。お母さまもうちの生徒さんだったのよね。


 そんな思い出話をあなたの枕元で続ける。先に逝ってしまったあなたに。


 きゅうに空が明るくなる。

 外のざわめきが悲鳴に変わる。建物全体が、ずんっと沈む。

 さっきから続いていた振動が大きくなる。

 空は、明るく……赤く染まっていく。

 ああ、あなた。この時一緒にいられたならと。堅くなった手を握る。思わずあなたをかばう。


 背中に衝撃、ベッドごと体が折れた。


 終わりの日、空から星が降ってくる。それは七十八年前から分かっていたこと。


 私はあなたと、青い鳥を踊る……。

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