第15話
何時だったかわからない。肩を叩かれ、目を覚ました。窓外はまだ闇の中で、身体はまるで眠った感じがしない。薄目を開けながら、布団の上に正座をしている香織さんに視線を向け、
「どうしたの」
聞いてからようやく時計を確認する。すでに深夜三時近くだった。
「なんだか、気分が悪くて」鎖骨の辺りを撫でている。「外に行きたい」
悪い夢でも見たのか、不安そうな顔だ。
「わかった」
時間も時間だったのでなるべく音を立てないようにしながら着替えを済ませる。携帯電話と煙草、それに財布くらいあれば良いだろうと乱暴にポケットに突っ込んで、欠伸を噛み殺しながら香織さんの支度を待った。
冬の空は澄み渡っていて、空気は冷たく、音はしない。星が良く見えた。
すっかり着込んでいるのに身体を抱いていないと震えてしまいそうだった。寝起きなのも良くなかったのだろう。もとよりクリスマスの一夜から体調は余り万全とは言えず、長旅の疲れも出ていた。
香織さんは前を歩きながら、ゆっくりとだが、確実にどこかに向かっているように道を進んでいく。息は少し荒い。
到着したのは、昼にも通った橋だった。変な名前だったから記憶に残っていた。
香織さんは橋の中ほどで歩みを止め、眼下を流れる川に視線を投げた。僕はその横に立ち、煙草を咥えてから、彼女にも一本薦める。
「ありがとう」
先に自分の分をつけてから、彼女にも火をつけてやろうと思ったが、かじかんだ手でうっかりライターを川へ落としてしまう。仕方なく、キスをするみたいに火を分け合った。長時間居るなら、この火種は大事にしておかなければならない。
しばらくお互いに言葉を発さず、ただ緩慢に流れていく時間に身を任せた。風は余りなかったが、ただ立っているだけだと余計に寒さが身に凍みる。
「ごめんね」
それが何を示すのか、瞬間的に理解できなかったのは、脳みそが半分程度すでに凍っていたからだろう。残ったもう半分も、起きているかどうか。
尋ねるように視線を向けると、こちらを向いた彼女と目が合う。闇の中で、彼女の輪郭はぼやけていて、確かにそこに居るのに、居ないようにも思えた。
彼女は結局答えない。鈍重な頭で、伝わらなかったのかと思い、
「何がです?」尋ねる。「今、連れ出したこと?」
また視線をどこかへ向けて、
「ううん」香織さんは困ったように笑った。その音だけが聞こえる。「いや、それもそうなんだけど。もっと、ずっと前から」
「ずっと前?」彼女の言わんとするところがわからない。「プレゼントを用意し忘れたこと?」
「違うよ」面白くなさそうに言う。「最初から」
最初から。
反芻するが、理解が追いつかない。
灰が落ちる。
「僕を名指しで呼び出したこと?」
ようやく到達した回答に、彼女は頷く。
確かに未だはっきりとした理由は語られていないが、謝られるようなことなのだろうか。それもわからない。
「日野間くんは」吐き出された煙は長い吐息を可視化する。「何で私があなたを紹介してと純に無理を言ったのだと思う?」
「それは」最初の印象を思い出す。「高科も言っていたけど、僕はミナコを亡くしてひと月ほどで、似たように落ち込んだ人なら自分も暗いところから抜け出せるよう手を取ってくれると期待して、とか、そういう感じだと」
「違うの」彼女は首を振った。「その言い方を真似するなら、私は多分、もっと暗いほうへ向かうために、日野間くんと出会いたかった」
彼女は何を言っているのか。
「もっとわかりやすく言ってほしい」
「最初は」煙草を川へ投げ捨てる。「あてつけのつもりだった。嫌がらせと言ってもいいかな」
「あてつけ?」想定外の言葉に堪らなくなって、次の煙草へ火を継ぐ。「何の話をしているんですか」
「私が日野間くんと接触して、交際関係に至れば、きっとその人は嫌がるだろうって思ったの」
「その人って、好きだった人のことですか?」
「そう」
僕と香織さんが付き合うことで、香織さんの好きだった人が嫌がる。その場面は、どういう相関図であれば成立するのか。
今までまるで想像もしてこなかったが、もしかして僕の知り合いのうちの誰かが、それに当たるのか?
そんな考えを見透かしたのかどうか、
「私の好きな人と日野間くんは会ったことがあるけど、私の知る限り、直接かかわりはないよ」彼女は物分りの悪い子どもに教え諭すように、優しく言葉を置いた。「日野間くんはだから、ただ私に利用され、巻き込まれただけなんだ」
香織さんに利用されている自覚はあった。しかし彼女自身の言うそれは、脱却のためのものとは向きが違うように思われる。いや、明確に、違うのだろう。
「全然わかりません」怒っているというよりは、本当に言葉通りの状況だった。「僕とかかわりのない人なのに、僕に利用価値があるんですか?」
「あったんだよ、私にとっては」香織さんはしかし、遠回りするように大事なところは明言しないで話を続ける。「それがあったから、最初から私は、日野間くんと付き合うために、わざわざ会ってもらった」
それならば、僕の酔っ払ったための本音も、それに答えた彼女の恥じらいも、虚像だったのだろうか。そんなことがあるのだろうか。
いや、美奈子でさえ、四年間も僕を騙したんだ。ひと月くらい、なんてことはなかったのかもしれない。
そんなことを目の前で言われても、思いのほか冷静でいることが、自分でも驚きだった。
「こんなことを言ったら、嫌うよね」彼女の声音も落ち着いたものだった。「でも聞いてほしいの」
「いいですよ」だからか、そう返している。「聞きます」
「ありがとう」声音は同じまま、彼女は続けた。「どうして日野間くんと付き合うことがその人に対する嫌がらせになるのか。確かに二人の間にちゃんとした接点はない。それならなぜか。単純に考えての通り、その人が好きな相手と日野間くんが繋がっているからに他ならない。だから日野間くんの近くに私が居るのをきっと嫌がると、そう思ったの」
香織さんの好きな男が好きな女と、僕が繋がっている。言葉にするだけでややこしく、頭がこんがらがりそうだった。
紐解くように考えると、当たり前だが、まず浮かんだのは姉の優子であった。僕の肉親である以上、彼女よりかかわりが濃厚な女性は他に居ない。姉のことを好きな人に対する嫌がらせとして僕と交際するというのも、頷けるところではある。こうして語らなければ僕たちはいずれ結婚していたのかも知れず、そうなれば香織さんは優子と大きく見て家族になる。優子を好きならば、その輪に香織さんの存在があることは、疎ましいだろう。
そして次には、美奈子が浮かんだ。彼女にしてみても、形はどうであれ、長く交際していたことは事実だ。美奈子と付き合った僕と付き合う、というのは遠いところでは確かにあてつけになるのかもしれない。
それ以外には浮かばない。というより、それらしい人物はこの二人しか居ないと言って過言ではない。
そしてまさしく香織さんが好いているという相手についても想像を巡らせてみた。
美奈子の線から考えてみると、彼女とは同じ高校に通っていたため、男女を問わず共通の知人というのは多く居た。それこそ高科も彼女のことを知っている。尻軽という悪名で名高かったわけだから、同級生であれば大抵は彼女の存在を認知していた。あるいは僕との交際期間中、本命としてずっとそこに居座っていた年上の男の話なのだろうか。しかし僕はその人と会ったことはない、と思う。
優子の場合はどうだろうか。優子のことを好きになりそうな男で、僕も知っている人間。まず浮かんだのは正孝さんだった。「好きになりそう」どころか事実結婚を視野に入れて交際していたのだから、彼を外すことは出来ない。ただ二人は、僕と香織さんが出会う前には別れていた。そうならば、あえて僕を介する必要などないし、嫌がらせとして成立させるには少々希薄な関係性だった。
あるいはもしかして、あの野々宮とか言う男のことなのだろうか。確かに、顔を合わせたことはある。彼は少なからず優子には繋がらないと思うが、それが美奈子となるとちょっとわからない。
香織さんが好きになった男、そしてその人が惚れた女とは、思い浮かばないだけでもっと別のところに居るのだろうか。
どちらにしても当てはまるのは高科だったが、まさか実弟に嫌がらせをするために、当人に頼んで僕と付き合うなど、そんなひねくれたことはしないだろう。もし仮にそうだとしても、その高科当人が香織さんを酷く心配して「嫌がらせ」のワードにも気付かず言われた通り僕を紹介するのも不自然だったし、高科と優子が初対面の挨拶をするのも、僕と高科の関係を持ってして「直接かかわりがない」と言うのも、不自然だった。ただ高科の矛先が美奈子なら、ありえないとも言えないことになるのだろうか。
考えがまとまらない。
僕には香織さんが好きな相手も、その人が好きな相手も、結局想像するしかできない。
なぜこんな話を彼女が切り出したのか、そしてこの話がどう転がっていくのか、それを見守っているしかないのだろうか。
香織さんは首を振った。
「実際に付き合うことになっても、最初のうち、私の心はその人から離れなかった」はっきりとその言葉を口にする。ひとつ謝罪をしてから、でも、と言って続けた。「次第に、日野間くんに惹かれていったことも事実だった。私のために尽くしてくれるあなたが傍に居て、嬉しかったし、あなたのことを大切に思えた」
それではこれは、決別が完了したことを伝えるための、前置きなのだろうか。
自分を落ち着けようと胸に手を当てる。
「確かに日野間くんの印象通り、私は暗いところから抜け出せそうだったんだと思う。そのまま交際を続けていけば、きっと当たり前に復帰できたんだと、そう思う。あなたは本当に、優しい人だから」僕は目を閉じた。「でも、やっぱりあの人のことが忘れられない。いや、忘れさせてくれないの。今も頭の中にその人が居て、じっとこっちを見ているの」もし、と言ってから、「あのとき会わなければ、あのときすでに私の心が日野間くんに向いていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」
ついに香織さんは泣き出した。
喘ぐように言葉をつっかえながら、
「気付くのが遅かった。もっと早く日野間くんのことを好きになっていれば、こんなことにはならなかったんだと思う。あなたが優しくしてくれるたび、胸が痛くなって、辛かった」僕も泣きそうだった。「ごめん、全部私が悪いの」
「なんだか別れの言葉みたいだ」冷静なふりをしようとしても、ついた溜息が震えているのは明白だった。「駄目だったって話か」
前置きだと、思い込もうとしただけだった。
顔を覆う香織さんを見ないように、川上のほうへ視線を投げた。ずっとずっと遠く、どこから流れてきているのかもわからない。時間と同じだ。当たり前に過ぎ去っていく。ただそこにどしりと構える大きな岩は、どれだけ圧力を掛けてもそう簡単には流れてはくれない。
彼女にとって、その人は、それと同じだった。
僕では、水圧が足りなかった。
ただそれだけの話らしい。
「ひと月だけど、楽しかったですよ。クリスマスも過ごせましたしね。出来れば一緒に年越しもしたかったけど……」考えるよりもまず、そんなことを言っている自分が居る。沈黙になってしまうのが怖かった。「明日起きたら、すぐに帰りましょう。部屋のものは少しずつ出していけば良いです。僕も手伝いますよ」
香織さんは駄々を捏ねる子どものように、首を振った。
背中を撫でてやろうとしたが、やめた。それが許されるのか、わからない。
短い交際だった。それでもそのほとんどを一緒に過ごしてきた事実がある。緊張したような顔も、歌で発散する姿も、映画を褒める声音も、全部好きだった。付き合ってくれたことも、一緒に住んでくれたことも、純粋に嬉しかった。
でも結局はそれが報われなかったことが、報われてなど居なかったのだと突きつけられたことが、悲しい。
いや。
大仰に首を振る。
人生なんてそんなものじゃないか。
そんなことの繰り返しだ。知っていたことだ。手に入れたと思ったら、ただの幻影だった。でも美奈子の時のようにそこに長くを費やしたわけじゃない。
大丈夫だ。落ち込んでも、また戻れるさ。
何かを拠り所にすれば、きっとまた立ち上がれる。
そうやって、無理やりにでもポジティブなふりをして考えるしかない。
煙草の火はすっかり消えている。煙は立たない。
目を閉じる。
隣から声がする。
「本当にごめんね」
か細い声で、聞いていられない。
「もう良いですよ」
ポツリと、独り言のような声量しか出なかった。
「でも、ごめん」
繰り返すので、
「謝らないで下さい、惨めになります」
笑ってみたつもりだが、そう見えたかどうか。
「うん」
香織さんは隣で、小さく頷く。
彼女は苦しそうに見えた。
「冷えますから、もう戻りましょう」
それでも首を振る。
「ううん。まだ」
「体調、悪化しますよ」
「体調なんて、いいの」
「そんなこと言わないでください。もう眠れそうですか?」
「……そんなの、どうだっていい」
言い捨てるような、ぞんざいな口調だった。
顔を見ることは出来ないまま、
「恋人でなくなっても、僕は香織さんが好きです。その気持ちを無下にしないでください」
それでもそれを口にする。
苦しい。
馬鹿みたいだ。
彼女は少し間を取った。それが精神の変動により生まれた間でないことが、今はわかる。彼女は心に別の誰かが居ると言い切ってしまったのだから、もうこちらには向かない。
「ごめん、でもいいの」
「香織さん」
息が荒い。
「違うの」
「違う?」
「私は……」
「何が違うんですか?」
「迷っちゃ駄目」
「何ですか?」
「やらなくちゃ」
「どうしたんです?」
「約束したんだから。そうしたら、愛してくれるって」
「何の話をしているんですか?」
「ごめんね」唐突にこちらを向いた香織さんの顔を見て、驚きで反応が遅れた。「私も、すぐに行くから」
ドン、と背中を押され、僕は抵抗する暇もなく、腹部に痛みを覚えたかと思うと、くるりと反転するように柵を越えた。
何を考えることもなく、何を思い出す暇もなく、一瞬で、それまでと同じように、全てが黒くなった。
水面に映った自分の、情けないほど歪んだ表情が、最後の記憶になった。
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