8 仁龍湖(じんりゅうこ)
――毎日顔を合わせていると、一日居なくなっただけでこうも不安になるのだろうか。いつも手を振っている彼女の姿が見れないというだけで、俺の心はこんなにもそわそわするものなのだろうか。今日一日、何も手に付かなかった――。
「はあ……結局見つかりませんでしたね」
コタツ布団の無い掘りごたつの中で足を遊ばせながら、手では頬杖を突いている梓が言った。
「仕方がなかろう。あれだけ行動範囲も広うて、目立った霊気跡も消え失せてしもうたのだ。事件ももう起きておらんのだからな」
丿卜は霊体でありながら、座布団に肘をつき、畳に寝転がっている。
「普通の学生程度の行動範囲はあるですよね、あの霊。せめて目撃情報でもあれば居場所も絞れるんですけど……」
梓は小さな二又のフォークで、一片の羊羹を刺した。
「まあ、便りの無いのが良い便りよ。梓の除霊した方の霊が本命でござったのであろう」
「本当に何も起こってないのなら問題ないんですけど、私の知らない所で何かしらのとんでもない事が起こってる気がして……そう考えると何だか不安で、夜も眠れないんです」
梓は羊羹を口に運びながら嘆いた。
「うん? 夜ばかりか、昼寝もいつもの如くしているように見受けられるが……」
「……言葉のあやですよ。それくらい不安だっていう事です」
「言葉のあやぁ? ……うぬ?」
外から聞こえてくる突然の慌ただしい物音に、丿卜は口をつぐんだ。
「誰か来たみたいですね。それも、急ぎの人が」
梓はゆっくりとフォークを置き、立ち上がった。そして障子を開け、本殿への連絡通路を進んでいった。
「ああ……そこの人、助けて下さい!」
本殿に梓が顔を出すや否や、男は血相を変えて、勢いよく梓の元へ走り寄った。
「あ、うち、畳敷きなんで、土足はやめて頂きたいんですけど」
「ええっ!? ……ああ、す、すいません」
男はその場で靴を脱ぎ、手に持った。
「と、とにかく、助けて欲しいんです。取り憑かれたに違いない!」
「落ち着いて。そんなに錯乱していては、霊の思う壷ですよ」
梓は男を諭しながら、男を観察した。年齢は十代半ばの、恐らく高校生か大学生。梓や、奇しくも金本と同じくらいの年齢だ。
衣服は乱れていて、手には急いで脱いだ靴を持っている。この様子だと、彼は何らかの体験をしてから急いでここへと来たのだろう。となれば、それ程の時間は経過していないはずだ。が、にもかかわらず顔からは血の気が全く感じられず、酷くやつれている。
恐らく、この人は取り憑かれている。それはこの人の様子からの推測ではなく、この人後ろに現れているものを見ればはっきりと分かる。
「これはまた、禍々しい……」
丿卜が声を漏らした。
梓にも、この男の後ろにある邪なオーラがはっきりと見えている。隠そうともしていない。それどころか、自らの邪悪さを主張しているかの様に存在感を漂わせている。
(こちらが隙を見せれば、恐らく、すぐに殺されるですね)
梓はそんな事を思いつつ、男に慎重に話しかけた。
「えっと、とにかく話を聞かせて下さい」
「はい! あの……」
「立ち話もなんですし、座って話しましょう」
梓が手で部屋の中央にある座布団に座るよう促すと、男は足早にそこへ向かい、座った。
「かなり焦ってるですね」
「素直に座ってくれるだけマシに御座ろう」
「ですね」
梓は丿卜とひそひそと話をしながら、もう一つの座布団へと座った。
「ええとですね、俺達、心霊スポットに向かっていって、家に入ったんですけど、そこが心霊スポットで、他にも霊能者とか除霊師とか、あたってみたんですよ。でも片っ端から拒否されて、いいって人も、除霊し始めたら気が触れたみたいになっちゃって……」
話し方から、この人が相当焦っていると、梓は読み取った。
「なるほど。まあ、落ち着いて下さい。私が居る限り、霊もそう簡単には手出しできませんから。ほら、少なくとも、今のところは大丈夫でしょ?」
梓は手を大きく広げ、自らの無事を男に知らせた。
「あ、は、はい」
「で、心霊スポットって、どこに行ったんですか?」
「えっ? え、ええ。#仁龍湖__じんりゅうこ__#って所で……」
――そう、全ては仁龍湖が始まりだった。あんな場所へ行かなければ……。
「ちょっと雰囲気出てきたんじゃね?」
運転している秋山さんが言うと、助手席の#出山__いでやま__#が窓を覗いた。
「暗くてなんも見えねーっすね」
出山の言う通り、この車の外は真っ暗闇で、辛うじて、車のヘッドライトに照らされている木々や地面が見えているだけだ。人の居そうな建物も、三十分前に立ち寄ったコンビニ以来、全く見ていない。
「暗くて見えないかもしれないけど、多分もう、下は湖なんじゃねえかな」
右の後部座席に座っている#野内__のうち__#が言った。野内は、俺達の行く心霊スポットをこの場所に決めた張本人だ。この仁龍湖を詳しく調べて来たらしい。
「こっち側だよな」
湖は左側に見える筈だ。俺はそう思って窓を覗いたが、何も見えない。
「見えねーな」と出山の声がした。
出山も助手席から覗いていたらしいが、何も見えていないみたいだ。
「そっちじゃねえの?」
出山は野内に言った。野内は運転席の後ろで携帯電話の地図を見ている。
「いや、こっちが陸側っすね、坂になってるみたいっす」
野内は携帯電話と窓を交互に覗き込みながら言った。
「そっかー、じゃあやっぱこっちか。あれがそうか?」
出山は恐らく、木の陰から見える真っ暗な空間の事を言っているのだろう。俺もそんな気がするが、どの道、この暗さの中では、離れすぎていて暗闇にしか見えないだろう。
「おっと」
秋山さんがブレーキをかけた。
「対向車か。ここ、結構、人、居るのか?」
俺は野内に聞いた。
「まあ、結構有名だから……すれ違えますかね?」
野内が言うと、秋山さんは余裕そうに答えた。
「大丈夫だ。初心者マークは外れたばっかだけど、あんなの飾りだからな」
秋山さんは大学生で、出山の知り合いだ。
仁龍湖に行く事は決まったものの、深夜に電車やバスが走っているわけがない。そこで出山が知り合いをあたってくれた。そして見つかった知り合いが秋山さんというわけだ。
対向車と俺達の乗っている車がすれ違った。見た感じ、結構ぎりぎりだったと思う。
「もうちょっと寄ってくれよ」
秋山さんが対向車に毒づきながら、再び道の真ん中へと車を移動させた。
それから暫く、この暗闇の中を淡々と車を走らせていると、出山が指差しながら言った。
「おい、あれ、何だ?」
「ライトだよ。あそこが橋だ。秋山さん、あそこ、渡って下さい」
「おし、分かった」
野内が言うと、秋山さんは快く返事をした。が、出山はそれとは対照的に舌打ちした。
「ちっ、ライトアップされてんのかよ」
先程の車とのすれ違いの事と合わせて、どことなく期待できない残念な空気が車内を包み込んだ。
やがて、俺達の前に、真っ赤な橋が姿を現した。暗闇の中に浮かび上がっているそれは、中々に存在感がある。
「ここで良くねーか? こういう橋も面白そうじゃね?」
秋山さんの問いに、出山が返した。
「秋山さんの好きにしていいっすよ。どうせここらを歩くんだし」
「よっしゃ、止めるぞ」
秋山さんはそう言って、橋の中ほどで車を止めた。
「本当にここなのか? あんま怖そうじゃねーな」
出山はあまり乗り気ではなさそうだったが、俺は出山を促しつつ、車から降りた。
「まあ、行ってみようぜ」
橋の一部を成している赤い大きな柱が、両脇に斜めに突き出ている。その姿はどことなく、俺に鳥居を連想させた。
「とりあえず、適当にうろつこうぜ」
懐中電灯を持った野内が歩き出すと、同じく懐中電灯を持った秋山さんも隣に付き、俺と出山はそれに続いた。
夜の湖の上だからか、風は夏だというのに冷たい。下を見ると、仁龍湖の湖面にはライトの光が反射し、ゆらゆらと揺らめいている。
「やっぱライトがなあ、人もいっぱい居そうだし」
「まあ待てよ。本番はこれからだから」
愚痴る出山を、野内がなだめた。
「ああ、ここじゃないんだ」
俺は野内に聞いた。
「ここもそうだけど、もっと凄い所があんだよ」
野内は笑顔でそう言った。
「それは何処にあるんだ?」
秋山さんが聞くと、野内はもうすぐ着くであろう、橋のたもとを指差しながら言った。
「ええっと、確か橋が終わったら右に曲がるんですよ。そこに矢島家があるんです」
「矢島家?」
秋山さんが聞いた。
「廃屋ですよ。昔、一家惨殺があったらしい」
「お、いいじゃん。そこ行こうぜ!」
急に乗り気になった出山が言った。
「いや、最後の締めだから、あそこ」
野内が言った。
「えー、どうせ他には何も無えって。けちけちしてると夜が明けちまうよ」
「俺も気になるなあ、そこ。近いなら早く行かないか?」
出山に続いて秋山さんも言った。
「秋山さんまで……」
「いいんじゃないか。もしかしたら時間かかるかもしれないし」
いつの間にか橋のたもとで立ち止まってしまっている状況を見かねて、俺は野内に言った。
「うーん……そうだな。夜だし見つからないと嫌だもんな」
野内は納得し、右に向かって進みだした。
橋の外は、ライトアップは勿論、街灯も無い。俺達は懐中電灯の光を頼りに、なおも続くアスファルトの道路を進んだ。
俺が後ろを振り返ると、ライトアップされた赤い橋が、暗い空間の中でまるでそれだけが浮き上がっているかのように、一際存在感を出していた。
「えーと、確かこの辺りなんだけど……」
野内は湖とは逆側の森の中を懐中電灯で照らしているが、見つからないようだ。
「あれじゃないか?」
秋山さんが言った。秋山さんの照らしている所に、板の残骸のようなものが見える。
「ああ、それかもしれないっす!」
野内もそれを照らし始め、二人の光が舐めるように全体を照らすと、俺の頭には、風雨にさらされて今にも崩れそうな、木造の一軒家の姿をした廃墟のイメージが残った。
「行ってみようぜ」
出山が言うと、俺達は草木の生い茂っている藪の中から、その廃墟へと続く道を探し出した。
「ここか?」
秋山さんが指を差した所は、他と同じで草は伸び放題、手入れは全くしていないようだ。が、そこだけ草が念入りに踏みつけられているらしく、廃墟まで続いていると思われる。
「ここから行ってみよう」
野内はそう言うと、藪の中の、道とは言い難い道を進んだ。それに俺達三人も続く。
やはり手入れはされていないらしく、気を付けないと草に足を取られそうだ。生えている草木にしても、人の背ほどあるものもあり、掻き分けないと進めない所もあった。
まるで矢島家に行く人を拒むかのような、歩き辛い所を四苦八苦しながら進むと、やがて、お目当ての矢島家が見えてきた。
「ここだな」
「すげえな」
「ああ、ここ、絶対いるよ、なんか分かる」
野内、秋山さん、出山が次々と感嘆した。ライトで照らした時と、印象は全く変わらない。
矢島家は木造で、築年数はかなり古そうだ。家の傾きは、ぱっと見では感じられないものの、手入れされてる様子はない。木造住宅なので、恐らく腐食が進んでいる所もあるだろう。いつ崩れてもおかしくない。
窓ガラスは割れ、瓦も所々剥げている。いかにもおどろおどろしい感じで、心霊スポットとしての雰囲気は、よく出ている。
「じゃあ行くか」
秋山さんは、そういって足を一歩踏み出した。
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