第2話 真菜香のピンチ
そして放課後。
この八桜市は、海岸に近い山を切り開いて造られた新しい街だ。街全体がゆるやかな坂になっていて、小学校はその坂の上の方にある。小学校のすぐ裏は、まだ切り開かれていない自然のままの森が残っている。歩く人のほとんどいない細い山道には、古いお地蔵さまがあった。
道の一方の側は、草で覆われた急な斜面になっていて、小学校が見下ろせる。マンションやオフィスビル、東京とこの街をむすぶリニアモーターカーの路線も。そのさらに向こうには青い海が広がり、海の上に浮かぶ宇宙港も見えた。
お地蔵さまの後ろで、真菜香はどきどきして待っていた。落ち葉をふむ足音が近づいてくる。いよいよだ。あの憎い虎ノ門夕姫がやってくる……。
「中町さん?」
声をかけられ、真菜香はびっくりした。それは夕姫の声ではなかった。
「あなたは!?」
「初めまして。夕姫の姉の、竜崎知絵です」
知絵は木のかげから姿を現わして、にっこりと笑った。
思いがけない知絵の出現に、真菜香はうろたえた。夕姫の血のつながらない姉が、十一歳で大学の先生になるほどの天才少女であることは知っている。でも、どうしてここに現われたのか……?
「夕姫なら来ませんよ。念のために、街の反対側に行かせて、アリバイを作らせてますから」
「ア、アリバイ!?」
うろたえている真菜香を無視して、知絵は楽しそうに斜面を見下ろした。
「ふうん、やっぱりね」
「何が!?」
「ここから転げ落ちたらけがをする。骨折とまではいかなくても、けっこうひどいすり傷や打ち身ができる。それを親や先生に見せて、『虎ノ門さんに乱暴されて突き落とされました』と言えば、大さわぎになるでしょうね。夕姫は休学か、悪くすれば退学……」
「な、何を……!?」真菜香は青ざめた。「わ、わたしがそんなことを――」
「たくらんでないとでも?」
知絵は真菜香を見つめ、まるで悪役のように、にやりと笑った。
「自分が勝てないからって、親に泣きついて、夕姫を運動会に出させまいとするようなひきょう者なら、考えつきそうなことだと思うんだけど?」
真菜香は息がつまった。まさに知絵の言った通りだったからだ。夕姫を手紙でここにおびき出しておいて、口論のあげく、突き落とされたふりをするつもりだったのだ。
「あいにく、わたしにその手は通用しないわよ。わたし、体力の方はさっぱりだから。『竜崎知絵に暴力をふるわれた』と言っても、だれも信用してはくれないでしょうね」
「…………」
「でも、わかんないのよ。なぜあなたがそんなに夕姫を憎むのか。夕姫の方では、あなたのことなんか知らないって言ってるんだけど?」
「と、虎ノ門さんだけじゃないわ……」
「ん?」
「あなたもよ!」真菜香は怒りを爆発させ、知絵に指をつきつけた。「あんたたちふたりとも、憎いのよ!」
「どうして?」
「先週のわたしの算数のテスト、八十五点だった」
「いいじゃない。夕姫なんて三十五点だったわよ」
「良くない! クラスの平均点が八十五点だったのよ! わたし、平均点だったの!」
知絵はきょとんとなった。「平均点じゃだめなの?」
「だめなのよ!」
真菜香はぼろぼろと涙をこぼしはじめた。
「……ずっとそうなのよ。算数だけじゃない。国語も社会も理科も、いい成績も悪い成績も取ったことがない。いつも平均点なの。背だって高くも低くもない。日本の小学五年生の女子の平均身長よ。名字が『な』だから、出席番号もいつもまんなかあたり。今のクラスでも、三十五人中、十八番──どまんなかなのよ。
ただひとつ、人よりすぐれているのは、足の速さ。でも、クラスで一番というだけ。ほかのクラスにはわたしより速い人がいる。だから運動会では決して勝てない。
うちの学校は一学年五クラスだから、運動会ではいつも五人で走る。わたしは一年からずっと三着よ。四着や五着になったことはないけど、いくらがんばっても二着になれない……」
「うらやましいわね。わたし、幼稚園に通ってたころ、運動会ではビリだったから……」
「ふざけないで!」真菜香は、きっと知絵をにらみつけた。「あなたは足が遅くたって、頭がいいじゃないの! 人に自慢できるものがあるじゃないの! 顔だって美人だし!」
知絵は答えにつまった。「美人だ」と言われて、「そうよ」と答えるのは変だし、「そんなことない」と答えるのもウソになる。知絵は自分でもそこそこ美少女だと思っているからだ。
「わたし、小さいころからドラマが好きだった。女優にあこがれてた。大きくなったら美人になって、テレビで人気者になるんだって夢見てた。でも、十歳ぐらいになったら、自分が美人になれないことに気がついた。それに演技や歌の才能もないから、テレビになんか出られっこない。
自分に何か才能がないか試したわ。ピアノや英会話を習ったし、絵の教室に通ったこともある。でも、どれも同じ。あるていどはできるけど、けっして平均よりうまくはならない。わたしには何の才能もないの……」
「……それで、わたしたちをねたんだの?」
「そうよ! ねたむのは当然でしょ!? あなたたちの未来はバラ色よね。あなたはきっとノーベル賞を取る。虎ノ門さんはオリンピックで優勝する。でも、わたしには何もない。何かを発明したり、冒険したり、人から注目されたり、ほめられたり、賞をもらったりすることもない。何もおもしろくない平凡な一生を送るのよ!」
「あ~、でも……」知絵はなぐさめる言葉を探した。「ふつうの人は、みんなそういう一生を送るんだし……」
「だからいやなのよ! わたしはほかの何万人もの人と同じ人生しか歩めない。ほかのだれかと人生を交換したって、何の支障もない。だったら、わたしの価値って何? わたしは何のために生きてるの?」
「……ふつうの人生でも、りっぱな人生よ」
「あわれみなんかけっこうよ! あんたなんかにわかりっこない。天才に生まれた人に、絶対にふつうの人生を歩まない人に、なんの才能もないふつうの人間の気持ちがわかるもんですか! あんたなんかに――あんたなんかになぐさめられたら……」
真菜香は泣きながらさけんだ。
「かえってみじめなだけよ!」
そして身をひるがえし、走り去っていった。知絵はぽかんと、その後ろ姿を見送った。
「そういうことだったのか……」
「そういうことよ」
ここは八桜市の海岸。人のいない夕暮れの砂浜にすわり、知絵は夕姫に、真菜香の言ったことを話していた。
遠い水平線に浮かぶ宇宙港では、ちょうど宇宙ステーションに向かうシャトルが打ち上がったところだった。この距離では点のように小さく見える宇宙船が、夕焼けの空に一本のロケット雲を引いて、まっすぐに宇宙へ向かってゆく。
この街ではありふれた光景だ。
「まあ、世間の人が天才をねたんでるとは知ってたけど、さすがに面と向かって言われるとねえ。こたえたわ……」
夕姫も珍しく暗い顔をしていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんの頭が良かったり、ボクの足が速かったりするのって、悪いことなの?」
「そんなわけないでしょ」知絵はちょっと悲しそうに笑った。「生まれつきなんだもの。しょうがないことよ」
「でも、中道さんみたいな子から見たら、悪いことのように見えるのかなあ……」
「そうかもね。わたしから見れば、運動会で三着になれるなんて、うらやましいんだけど」
「ボクも。算数で八十五点も取れるなんてすごいよ」
「あなたはもっと勉強しなさい」
「はあい」
夕姫はばつが悪そうに首をひっこめた。
「でもさ、お姉ちゃん」
「何?」
「お姉ちゃんは考えたことない? ふつうの女の子に生まれてたらどうだっただろうかって」
「まあ、考えたことがないと言えばウソになるわね。でも、考えないことにしてる」
「どうして?」
「『自分の頭がもっと悪かったら』なんて願うのは、平均や平均以下の人に対して失礼だからよ。中道さんの言ったことは正しい。わたしたちがふつうの人をうらやんだり、『ふつうで良かったね』なんてなぐさめるのは、向こうから見れば侮辱なのよ」
「そっかー……」
「それに、ありえなかったことをうじうじ考えてもしょうがない。わたしたちはこういう自分として生まれてきて、今ここに、こういう自分として生きてるんだもの。それは変えられない。ただ、わたしたちにできることをするまで」
そう言って、知絵は立ち上がり、スカートについた砂を払った。
「とりあえず、今はカニの問題が優先ね」
「うん、そうだね――今夜あたり、また出るかな?」
「たぶんね。またクジラの声が聞こえたら出動よ。今夜はパパもママも、学会の出張でお泊まりだし、いいチャンスだわ」
知絵は親指を立て、にこっと笑った。
「今夜じゅうに、けりをつけましょ」
その夜遅く。
真菜香は松林の海岸をさまよい歩いていた。あのまま家に帰らなかったのだ。
自分がみじめだった。
夕姫たちが悪くないことぐらい、自分でもわかっていた。この憎しみが見当ちがいなものだということも。本当は平均点しか取れない自分がきらいなだけなのだ。自分に対するいらだちや憎しみを、夕姫たちに向けていただけなのだ。
だが、親に泣きついて夕姫を百メートル走に出させまいとしたことや、夕姫に罪を着せようとしたことは、やりすぎだった。
「やなやつ……」真菜香はすすり泣いた。「わたしって、やなやつだ……」
きらいな自分から逃げようとして、自分をいっそういやな人間にしてしまった。それが悲しかった。
夕食を食べていないので、おなかがペコペコだ。家では両親が心配しているだろう。親に心配をかけるのは悪い子だ。自分はどんどん悪い子になってゆく。それがわかっているのに、家に帰りたいという気が起きない。
「いっそ、とことん落ちてやろうかな……」
そんなことも考えてしまう。どんなに努力しても平均より上になれないなら、平均より下の人間になってやろうかと。
ああ、そうか――真菜香は気づいた。人が非行に走るって、きっとこういう心理なんだろう。だめな自分を、もっともっとだめにしてやりたいという、ゆがんだ心理。ふつうの人間として平凡な一生を送るのがいやだから、いっそ人生を何もかもめちゃくちゃにしたいという、破れかぶれの感情……。
でも、そんなことをしても、何も変わりはしない。日本じゅうにたぶん何千人もいる非行少女のひとりにくわわるというだけ。ありきたりの、平均的な非行少女になるだけ。特別な人間になれるわけではない。
「何か特別なことが起きないかなあ……」
真菜香は切実にそう願った。アニメやマンガやドラマの主人公の身には、いつも特別なことが起きる。異世界からやって来た妖精と出会って魔法をさずけられたり、旅行に出かけるたびに謎めいた殺人事件に遭遇したり、どこかの王国のプリンセスだったことがわかったり、ふしぎな超能力を持った転校生がやって来たり。
でも、自分の身にはそんなことは起きない。
それはきっと、わたしが主人公じゃないからだ。主人公というのは、夕姫や知絵のような子のことなんだろう。わたしは名前も覚えてもらえないただの脇役、「その他おおぜい」のひとりなんだ……。
くやしくなって、また涙がぼろぼろこぼれた。
「ん?」
涙でにじんだ目に、奇妙なものが見えた。松林の向こう、暗い海岸で、何か黒くて大きなものがうごめいている。真菜香はごしごしと目をこすった。人も何人かいるようだ。
何をしているのだろう。もう海水浴の季節じゃないし、だいたい、こんな真夜中の海岸で泳ぐ人がいるはずがない。真菜香はふしぎに思い、そっと近づいていった。
「うわ……」
思わず小さな声がもれた。海岸には戦車のような大きな機械が上陸していた。ドラ焼きのような形をした車体の下にはキャタピラがついていて、前にはふたつのヘッドライト、両側からは大きなハサミのついた金属の腕が突き出ている。まるでカニのオバケだ。
その口がぱっくりと開いていて、何人もの人が出入りしていた。近くに止まっているトラックから箱を下ろし、カニの中に運びこんでいるようだ。みんな忍者のような黒づくめの服を着ていて、顔にはハエの顔みたいなマスクをつけていた。暗がりでも明るく見える暗視ゴーグルにちがいない。
ひとりが真菜香に気がつき、声を上げた。日本語ではないが、どこの言葉かはわからない。たちまち数人が駆けよってくる。真菜香はこわくなって逃げ出そうとした。
しかし、真菜香の走る速さは、小学五年生女子としては速いものの、おとなたちより速いわけではない。すぐに男たちに追いつかれ、捕まってしまった。悲鳴をあげようとしたが、口を押さえられた。これが夕姫だったら、悪者をたちまちやっつけていただろうが、真菜香にそんな力はない。力づくでカニのオバケの方にひきずられていった。
「ホウ、コンナ夜中ニ外出トハ、イケナイオジョウサンデェスネ」
隊長らしい男が、へたくそな日本語で言った。やはりマスクをつけているので、顔はわからない。
「コンナトコローデ、何シテイターノデェスカ?」
「わ、わたし、知りません! 何も知りません! ただ通りかかっただけです!」
真菜香はぶるぶるふるえながらさけんだが、隊長はチッチッと楽しそうに舌を鳴らした。
「ソレーハ運ガ悪カッタデェスネ。ワタシターチノ秘密兵器、海底戦車、見テシマッタ者、帰セマセン。秘密守ルタメ、アレ、シナクテハナリマセンネ」
「あれ?」
「口ヤクソク、ジャナク……口ウツシ、デモナク……ソウ、口フウジ」
「口ふうじ……!」
真菜香はぞっとなった。悪事を見てしまった者が口ふうじに殺されるというのは、ドラマやマンガでよくある話だ。
隊長は笑った。「安心シナサイ。殺シハシマセンネ。タダ、ワタシターチノ国ニ来テモライマースネ」
「国?」
「グンジャラ共和国デース! モウ二度ト日本ニモドレマセーンネ!」
真菜香はぼうぜんとなった。
隊長は部下たちに何かを命令した。「こいつを戦車に乗せろ」と言ったのだろう。部下たちはいやがる真菜香の腕をつかんで、カニ型戦車の口の中にひきずりこんだ。
箱の積みこみが終わると、カニ型戦車は口を閉じ、左右のキャタピラを反対方向に動かして、ぐるりと半回転した。そして波をかき分けながら、ゆっくりと夜の海の中に入っていった。
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