六 章

 出社するとハルヒが雑誌を読んでいた。

「フフン~」

やけに上機嫌だ。雑誌を眺めるハルヒは、野郎がえっち本を見るときにでもしないような気味の悪いニタニタ笑いをしていた。見たところ、OggiとかMOREとか、ふつーに本屋の店頭にありそうな女性ファッション誌だが。

「なんか面白い記事でも書いてあったのか?なんでゴム手袋なんかはめてんだ?」

恐る恐る尋ねてみる。

「まあね、ちょっと見てよこれ」

二つ目の質問には答えてないぞ。なんだ、俺には女性誌を見るような趣味はないんだが。俺はハルヒの脇から雑誌の写真を覗き込んだ。

「あ、触っちゃだめよ。指紋つけないで」

「なんだ、いつから潔癖症けっぺきしょうになったんだ」

「このモデルの後ろに写ってる車、トヨタの新型よね」

「あーん?こんな流線型の車見たことねえぞ。プロトタイプとかじゃねえの?」

「そりゃそうよ。まだ出てないもの」

ハルヒはそう言って雑誌の表紙を見せた。モデルの服装は前衛ぜんえい的といか超機能的というか、シンプルというかそっけないというかそんな服だった。最近の流行ってこんななのか。と、どうでもいいような感想を述べようとしたところ、ハルヒはそんなことはどうでもいいのよという感じで発行年月の数字を指差した。

「おい、なんだこりゃあ、十年後だぞ!」

「あーもう、指紋つけないでって言ってるのに」

「未来の雑誌なんてどこで手に入れたんだ」

「あたしに頼んで送ってもらったのよ」

なるほど、頭いいな。

「未来の情報はおいそれとはあげられないとか言ってたから、せめてファッション誌くらい見せなさいと手紙を書いたの」

「それでこのファッションデザインなのか。どうりで時代離れしてると思った」

まあそれくらいの情報なら問題ないだろう。

「それだけじゃないのよねえ」

ハルヒはまたさっきと同じニタニタ笑いを浮かべた。机の上には化粧品のパウダーっぽいやつ、虫眼鏡、なんだか分からない液体の入った小瓶こびんがあった。

「なんだそれ?」

「まあ見てなさい」

ハルヒは卓上ライトをつけて、雑誌の表紙を覗き込んでアイシャドウの粉をふりいていた。化粧用の小さなブラシっぽいやつで虫眼鏡を見ながら粉を塗っている。それから雑誌を持ち上げてふっと吹いた。

「ぶ……ぶえっくしょん!!は、鼻に、えーくしょい!!」

ひとりでなにやってんのお前。ずずっと鼻をかんだハルヒが見せたものは、表紙に浮かび上がった指紋だった。ハルヒは黒いシールみたいなやつを取り出し、透明の部分を指紋の上に貼ってゆっくりとはがした。ゼラチン紙とかいうらしい。

「どう?バッチリでしょ」

そういや長門もやってたな、あんときはエンピツの芯の粉だったか。

「ああ、エンピツの粉は白いモノについた指紋を取りたいときね」

「やけに詳しいなお前」

「当然でしょ、あたしが名探偵だったのを忘れたの?」

探偵バリに推理を聞かされたことはあったが、まさか鑑識かんしきをやるとは聞いてないぞ。

「キョン、あんたの指貸しなさい」

「お、俺がなにかの犯人みたいじゃないか」

「いいから見せなさい、はぁやくぅ」

ハルヒは俺の腕をむんずと掴んでガラスの板に押し付けた。

「古泉くん、有希、あんたたちも見せてくれるわよねぇ」

ハルヒがニコニコ顔で言うと、古泉は苦笑しつつ、付き合ってやるかとしぶしぶ承諾しょうだくした。ハルヒを名探偵に仕立て上げたのはそもそもこいつなんだからな。長門はなにも言わずに指紋を取らせた。

「うーん、キョンじゃないわねぇ。有希でもない。どう見てもあたしの指紋しか、ああーっ!!」

熱心にルーペを覗き込んでいたかと思うと奇声を上げた。

「どうした!?」

「古泉くんの指紋発見!!」

「え……」

「別に驚くようなことじゃないんじゃないか?古泉が読んでたのかもしれんだろ」

「問題はそこでしょ。古泉くんがなぜ女性誌なんか手にしたのか」

「し、知りません。僕にはまったく心当たりありません」

当たり前だろ。なにあせってんだ、返って怪しいぞ。

「古泉くんの指紋、右の親指ねこれは。切り傷があるわ、かなり深い。予言するわ、古泉くんは十年以内に親指に怪我をする」

それは予言じゃなくて指紋検出の結果を述べただけだが。古泉はまじまじと自分の親指を眺めた。そんな十年先の指の具合なんて今から心配してもはじまらんだろうに。

「そういうわけだから、親指には注意してね古泉くん」

「ご忠告ありがとうございます」

古泉はまた苦笑を浮かべた。こいつが親指をザックリ切っちまうのは、まだ先の話だ。


 ハルヒがなにごとか思い立ったように出て行った隙に、古泉が耳打ちした。

「もしも僕が怪我をしなかったら、どうなるでしょうね」

「それくらいの未来は変わっても問題なさそうだが」

「もしもこれが既定事項なら?どんな些細ささいなことでも変更すると大変なことになります」

ハルヒと入れ違いに朝比奈さんがやってきた。

「ごめんなさーい、遅れちゃって」

「朝比奈さん、ちょうどいいところへ。これを見てください」

俺はハルヒの机の上にある雑誌を指差した。

「これファッション誌ですよね。ふつうに本屋にある。わたしもときどき読んでますよ」

「ええ。十年後の発行ですけど」

「あらあら、まあ。どうしたんですかこれ」

「未来から送ってきたらしいんです」

「涼宮さんにも困ったものね。いくら雑誌でも未来の情報には変わりないのに……へー、こんなの流行ってるのね」

朝比奈さんがパラパラとめくりはじめた。そこで立ち読みしないでくださいよ。

「それにしても、なんで僕が女性誌なんか持ってたんでしょうかね」

古泉がいつまでも首をかしげていた。ドアが開いてハルヒが戻ってきた。

「あら、みくるちゃん来てたのね」

「おはようございます、遅れちゃってごめんなさい」

「それより見て見て、未来の雑誌よ。流行の最先端の百歩くらい先を行ってるわ」

先を行き過ぎて道を踏み外しそうだがな。

「見ました。こんな服、わたしも欲しいなぁ」

「タイムマシンが完成したらみんなで買い物に行きましょう」

「あ、いいですねぇそれ」

素直に賛同してみせている朝比奈さんが冷や汗を垂らしていることは、俺にはお見通しだ。

 ハルヒがジャラジャラと音がする布袋を置いた。小銭の音か?

「なんだそれ、小銭の貯金か」

「銀行に行って五万円を五百円玉に両替してもらったのよ」

「な、なんでそんな大量に」

「未来に買い物リストとお金を送って買ってきてもらうのよ」

「なんで五百円玉なんだ。お札でいいじゃないか」

「バカね、十年も先ならお札のデザイン変わってるかもしれないじゃないの。こういうときはデザインの寿命が長い補助貨幣ほじょかへいのほうがいいのよ」

なるほどな。って五万円分は重いだろう。

「まあまあいいから。あんたたちも買って欲しいものがあったら五百円玉よこしなさい」

俺は、と考えてはみたが別に欲しいものなんてなかった。ほんとに欲しけりゃ朝比奈さんに頼めばいい。

「なあ、思ったんだが、別に現金でなくてもいいんじゃないか?」

「どういうことよ」

「十年先くらいなら銀行に預金して通帳かカードを送ればいいだろ」

「あ……」

さすがにそこまでは頭が回らなかったか。突っ込みどころが的を得ていたらしく、ハルヒは顔を赤くして重たい袋をえっちらおっちら背負って出て行った。また銀行に行ったらしい。


「たっだいまぁ!」

「おう、おかえり。通帳にしたのか」

「普通預金はやめたわ。銀行の人が十年動かさないなら長期国債がいいっていうからそれにしたわ。これもひとつの投資よ」

猫型ロボットの漫画でそういうネタがなかったか。

「買い物頼むだけじゃなかったのか」

「あたしへの投資よ。利子の分はあたしのお小遣こづかいよ、キヒヒヒ」

俺はハルヒが持ち帰ったパンフレットを読んだ。年率にして〇・八五パーセントくらいか。ハルヒがタイムトラベルを使った財テクに走り始めたな。よくない傾向だ。俺はこっそり朝比奈さんに尋ねた。

「これまずいですよね」

「いいんじゃないかしら?銀行の定期預金に十年眠らせておくのとあまり変わらないでしょう」

「それはそうですが。金儲けのためにタイムトラベルを使うのは問題がある気が」

「まあ会社は金儲けのためにあるわけだし、それにまだ時間移動管理の組織が生まれるまではいいんじゃないかしら」

未来人の朝比奈さんがそうおっしゃるならいいんですが。

「わたしは知らなかったことにしますね」

朝比奈さんは人差し指を立ててウィンクしてみせた。そ、そんな。なんだか犯罪の共犯っぽいことをしてるようで俺は不安になった。今に未来警察とかがやってきてガサ入れされるんじゃないだろうか。

「うーん、株を買うのもいいかもねぇ」

ハルヒのブツブツいう声が聞こえて俺は朝比奈さんを見た。朝比奈さんは困ったような顔をして笑っていた。

 ハルヒはまだ虫眼鏡で雑誌を調べている。

「まだやってんのか。なにか分かったか」

「ふふっ。あたしはあたしの経営者としての能力を甘くみてたようね」

なんか微妙びみょうに矛盾してないかそれ。

「こういうファッション誌は四半期しはんきくらいで流行ネタが変わるから、このデザインをまねして売れば儲かるわよ。パリコレを先取りできるわ」

「なんという盗作」

「人聞き悪いわね。まねをすることは最高のお世辞せじなのよ」

まあ服飾ふくしょく業界の流行ってのは、誰かがはじめてみながそれをまねして広がっていく感じだろうけど。

「ちょっと生地を買いに洋裁店に行ってくるわ。有希も一緒に来て」

副社長にして我が社のコスプレイヤーはいそいそとハルヒについていった。次はどんな衣装になるのか楽しみである。


「おはようございます」

「朝比奈さん、どうしたんですその格好は」

「これがどうかしたかしら?」

「だって昨日までOLっぽい服装だったでしょう」

それまで新聞を広げて読んでいた俺は、古泉と朝比奈さんのやり取りに目を上げた。そこには流行を二十年くらい先取りしそうな、フィギュアスケートとゴスロリを合体させたようなきわどい格好の朝比奈さんがいた。

「朝比奈さんはもうコスプレしないんじゃなかったですか」

長門のコスプレがあんまり似合うんで考え直したのか。

「これはコスプレじゃありません、時間常駐員の制服ですよ。昨日もこの格好だったじゃないですか」

朝比奈さんが怒ったように言った。

「え、いつからそんな」

「いつからって、わたしが十五歳のとき常駐員になってからずっとですよ」

いつもと違う朝比奈さんに妙な違和感を覚えて、俺は禁則中の禁則を破る質問をしてみた。

「ちなみに今は何歳なんですか?」

「今年で二十五よ」

俺とその他二人は顔を見合わせた。朝比奈さんの年齢って確か禁則事項だったんじゃないですか。

「そんなことはないわ。二二九二年三月九日生まれの二十五歳。ほら、ね」

図らずも急に解禁になったあゆ漁を知った釣り人でもここまで驚いたりしないくらいに、正直、俺は驚いた。朝比奈さんの歳は俺にとっちゃ鉄の壁だったのに。

 ちょうどそのとき、ドアが開いてハルヒが出社した。

「おっはよ。有希、新しいドレスできたわよ」

打ち合わせで遅れるとか言ってなかったかこいつは。

「いいじゃないの、これが新しい事業展開になるかもしれないんだし」

ハルヒがトートバックから取り出した長門の新しい衣装は、漆黒しっこくのワンピースに白の派手なフリルを飾りつけたものだった。

「……」

「これ、あたしが苦労して縫ったのよ」

見るからに未来の雑誌からパクったもんだが、これは萌えるに違いない。アニメのキャラクタが着そうなド派手で誇張こちょうされたデザインだった。

「あれれ、みくるちゃん。その衣装どうしたの?似てるわね」

ハルヒが長門のために縫製ほうせいしたというドレスに非常によく似ている。スカートのたけが短くなっただけで、そこは進化したと表現するべきか。え……、進化?

 ハルヒは早速長門に着せて、朝比奈さんと並べてみた。

「二人とも似合うわ。アニメキャラの姉妹みたいね」

「確かに。長門さんはボリュームのある衣装が、朝比奈さんは露出度の高い衣装が似合いますね」

「露出度って……あんまりはっきり言わないで」

朝比奈さんがすそを押さえて顔を赤くしていた。もう古泉も遠慮なしだな。

 このとき、なにかがおかしいということに俺たちは気がついていなかった。


 次の日のことだ。

「あ、朝比奈さん、その髪いったいどうしちゃったんですか!?」

あの美しい、少しだけカールした長い髪がバッサリと短くなってしまっている。もしかして失恋でもしたんですか。

「やだキョンくんったら。わたしは元々この髪型でしょ」

朝比奈さんが苦笑した。俺は口を開いて、もっと長かったでしょうと言おうとして、「も」のところでやめた。これはまずい。平安京でうぐいすが鳴かない規模の歴史を書き換える事態が起こっている。古泉と長門の表情を見ると、同じ危険信号が浮かんでいた。頭に回転灯を乗せたら黄色いやつがピコピコ回りそうだ。これはいったい何が起こっているんだ。

「朝比奈さん、その髪型が短くなった経緯けいいを教えていただけませんか」

「ええっと、時間常駐員はみんな短めなんです。長い人はたばねるか、うかしないといけないの」

「その規則が出来たのはいつなんです?」

「わたしがこの仕事にいたときにはこうでした。生まれるずっと前のことだと思うわ」

えてお聞きしますが、この会社は未来ではどうなるんです?」

「時間移動技術を管理していますよ。一社独占で涼宮さんが初代社長です。わたしはそこの社員です」

この言葉が朝比奈さんの口から出てくるとは。俺たちが知る朝比奈さんと一致しない。

「もっと早く気がつくべきでした……」

古泉が思案げに言った。

「どういうことなんだ?俺にも分かるように説明してくれ」

「……因果律いんがりつひずんでいる」

「僕たちが知っている朝比奈さんから、様子が少しずつ変化しています。つまり歴史が書き換わっていると」

それってハルヒのタイムカプセルのせいなのか。

「……それはまだ不明」

「原因を突き止めないといけませんね。朝比奈さんはこの時間平面に泊まっていないんですか?」

「ええと、夜は未来に帰って日報を出して、次の日の朝また時間移動でここに来ています。時差ボケにならないように」

「ということは帰った後の朝比奈さんが時間のひずみの影響を受けているということになりますね」

「なにか変なことありました?」

「ええ。いろいろと、僕たちが知っている朝比奈さんとはだいぶ変化しているように見受けられます」

朝比奈さんの赤道上にはクエスチョンマークの衛星がいくつも回っているようだった。時間のひずみの渦の中にいる本人が知るはずもあるまい。

「みんなぁ、おっはよ!」

全員がそっちを見た。ドアを開けて満面の笑顔で入ってきたハルヒの髪は、バッサリと短く切られた上に、目も覚めるようなオレンジ色に染め上げられていた。

「ハルヒ、何があったんだ。その髪どうしちまったんだ!?」

「なによ、雑誌に載ってたヘアスタイルにしてみただけよ」

美的レベルAランク以上の女三人がそろってショートカットになるという、前代未聞のハプニングを見たわけだが、俺と古泉は三人を見比べながら、これはこれでおもむきがあっていいななどと呑気のんきに感想を述べ合っていた。


「おはようございます」

「あらキョンくん、おはよう」

翌朝、珍しく朝比奈さんが一番に出社していた。メガネをかけてパソコンの雑誌を読んでいる。ハイヒールを脱いでこともあろうに俺の椅子の上に足を乗せていた。もしかしてこれもコスプレの一種なのだろうか、細い銀縁のメガネをかけたちょっとインテリっぽい朝比奈さんは萌えた。

「キョンくん、お茶お願い」

「え、は、はいはい」

もしかして今日はすごく機嫌悪いのかもしれないと、俺は給湯室でお茶を入れて朝比奈さんに差し出した。

「お、お口にあいますかしら……」

なんで俺が朝比奈さんの口調をまねしてるんだ。

「ありがとう。うん、よくれてあるわ」

ホッ。よかった。突然、ぬるい!とか叫んで湯飲みを放り投げられたらどうしようかと。

 朝比奈さんは読んでいた今日発売の雑誌をぽいとくずかごに放り込み、パソコンのモニタに向かってタッチタイプでカタカタとなにかを入力していた。未来にはこんな古い技術のネットワーク機器は存在しなくて、いまいち使い方も分からないとか言ってませんでしたっけ。


「おは……」

「おは、」

「……」

長門に勝るともおとらぬ超タイピングスピードでキーボードを叩く朝比奈さんを目にして、ハルヒも古泉も、それから長門も、ドアを開けるなり言葉を失っていた。いったい何事が起こったのかと俺に尋ねる視線をくれるが、肩をすくめるか首をかしげてみせるしかなかった。

 全員が呆然ぼうぜんと朝比奈さんを見つめるなか、まあそういう日よりなのだろうと各々の机で自分の仕事に目を戻した頃、部屋にうっすらと煙がただよい始めてそっちを見た。俺は我が目を疑った。こともあろうに朝比奈さんがくわえタバコでキーボードを叩いている。

 あれ、ここ違うわ、これじゃ効率悪いわね、などとブツブツ呟いていた朝比奈さんが、灰皿がわりの空き缶にタバコを押し付けてから長門に言った。

「長門さん、バグ直しといたわ」

ええっ。今なんとおっしゃいました。

「……そんなはずはない」

「いえ、ここの入力のところね、引数ひきすうの型にひとつだけ例外があるのよ」

「……むぅ」

「あらごめんなさい、余計だったかしら?」

「……あなたは正しい。修正に感謝する」

「ほかのソースも見ておくわ。余裕あったらリファクタリングもしといてあげる」

 いったい何が起こったのであろうか。文系の俺のために自ら説明すると、リファクタリングというのはすでに動いているプログラムのソースコードを修正して、見た目の動作はそのままにパフォーマンスを上げたり最適化したりする手法を言う。つまり一度誰かが書いたプログラムを再設計して、もっと効率を上げようというとてつもなくめんどくさい作業なのだ。最初に書いた人も、自分が書いたソースコードを勝手にいじりまわされるのは感情的に嫌らしい。

 ともあれ、問題は朝比奈さんが今までやったことがないようなことを平気でこなしていることである。

「朝比奈さんってプログラマだったんですか?」

「あら失敬ね。わたしはこれが本業じゃない。ソフトウェア開発技術者の資格も持ってるわ」

しゃに構えた朝比奈さんは、いつもと違って新鮮だ。ってそういう問題じゃない。

「知らなかった。いつからそうなんです?」

「あれ?だって専攻で情報工学を勧めてくれたのキョンくんじゃない」

「そうでしたっけ?」

これはなんだかおかしいぞ。そんな歴史、どう考えてもありえん。

「朝比奈さ~ん、ケーキお持ちしました!」

開発部の連中が近所で買ってきたらしい箱入りケーキを朝比奈さんにうやうやしく献上けんじょうした。

「あらありがとう。気が利くのね」

「いえいえ、朝比奈さんのためならたとえ火の中水の中」

お前らいつから朝比奈さんの親衛隊しんえいたいになっちまったんだ、長門はどうした長門は。と、長門のほうを見ると、うさぎに畑を荒らされて頭を抱える農民のようなありさまで机に突っ伏していた。


 俺は緊急会議を開いた。

「朝比奈さん、たいへん申し上げにくいんですが、どうやら歴史がかなりの部分でひずんでいるようです」

「あら、それはどういう意味かしら?」

眉毛まゆげをピクリと持ち上げる朝比奈さんに、どういうと問い詰められて俺が言葉に詰まっていると古泉が助け舟を出した。

「まだTPDDは持っていますか?」

「TPDDってなにかしら」

あれれ、TPDDのない朝比奈さんってただの人じゃないですか。あ、今のは言い過ぎました。

「僕たちの知っている歴史では、朝比奈さんは未来から来た時間調査員のはずなんです」

「またそんな冗談を。古泉くんらしくないわ」

一笑いっしょうに付す朝比奈さんだった。

「僕は至極しごくまじめです。いいですか、このままですと朝比奈さんの存在そのものが危うくなってしまいます」

古泉の気迫きはくに押されたのか、朝比奈さんは笑うのをやめた。

「ええっと、TPDDって何の略かしら」

「確かタイムプレーンデストロイドデバイス、だったと聞いています」

「タイムトンネル、なら知ってるけど」

「それは時間移動するためのものですよね?」

「ええ。未来では電車みたいにあちこちにターミナルがあって、そこから乗るの。でもわたしは調査員なんかじゃなくて、プログラマの仕事に来ただけよ」

「妙な具合になってますね」

「どういうことかしら?」

「朝比奈さんの記憶が大部分において変わってしまっている、ということです」

「なぜそんなことに?」

「たぶん涼宮さんのタイムマシンのせいではないかと」

古泉は同意を求めるように長門を見た。

「……そう。未来からの情報が漏洩ろうえいしたため、この時間軸の延長線上にある新しい過去が交錯こうさくしている」

「長門さんまで。みんな、本気なのね」

「……涼宮ハルヒのワームホールが、未来におけるTPDDの開発を阻害そがいしている」

「ってことはワームホールが時間移動技術の代表格みたいになっちまうのか」

「……そう。STC理論のような技術理論はすたれてしまう未来になる」

困ったな。ハルヒが会議室の壁に穴を開けちまったときやばい予感はしていたんだが。

「しかし、今になってハルヒにやめろと言うとまた神人が暴れだすぞ」

長門は一言だけゆっくりと噛んで含めるようにつぶやいた。

「……わたしが、守る」

「守るって、どうやるんだ?」

「……ワームホールを閉じる」

「閉じてもたぶん、涼宮さんは何度もワームホールを作るでしょう」

「そうだな。あいつがあきらめることはまずない」

「……ワームホールを二重化する」

「つまり?」

「……一旦向こう側に届いた物質は、即時に別のワームホールを通って戻ってくる」

「郵便があて先不明で戻ってくるアレか」

「……そう。……?」

俺の例えが微妙びみょうにズレていたようで、長門は首をかしげていたが。

「朝比奈さんにTPDDがないとすれば、どうやって未来へ行けますか」

「あら、タイムトンネルのターミナルはこのビルの屋上にもあるわ。わたしがパスを持っているから入れるわよ」

「そ、そうだったんですか。いつの間にそんなものが」

「パスがないと入り口が開かないようになってるの。過去から侵入されると困るらしいから」

なるほど、そのへんは用心しているわけだ。

「じゃあこうしよう。長門と朝比奈さんが未来へ行ってワームホールを閉じる。俺と古泉がワームホールに手紙を入れて確かめる」

「……分かった」

「その場合、時間移動技術の歴史上でワームホールの利用が終わってしまいますが、お二人は無事戻ってこれるんですか?」

「……問題ない。この流れが修正されれば、TPDDが戻るはず」

 長門がOKを出したので俺たちはさっそく穴の封鎖ふうさに取り掛かることにした。長門と朝比奈さんを見送るために屋上まで行った。

 ビルの屋上はガランとしてなにもなく、乾いた冷たい風が流れているだけだった。朝比奈さんがブレスレットをはめた左腕を空中にかざすと、丸いシャッターのような円盤が現れて真っ暗な穴がぽっかりと開いた。覗き込むとはるか下のほうに青白い光が渦巻いている。俺と古泉は底なしの穴に足がすくんで、うわと声を上げた。

「タイムトンネルよ。行き先を入力したからそのまま飛び込めばいいわ」

「えらく簡単なんですね。この技術が消えてしまうのはちょっともったいない気がしますが」

俺はいまさらなにを言ってるんだという目で古泉を見て、二人をせかした。

「朝比奈さん、じゃあよろしくお願いします」

「分かったわ」

「長門、後を頼む」

「……分かった」

二人が穴の中へ飛び込むと、シャッターを切るように入り口は閉じた。その空間を手で触っても、もうなにもなかった。

「俺も行けばよかったかな」

「同感です。もったいないことをしましたね」

まあしょうがない。誰かが残って確かめないことには。


 俺と古泉は会議室に戻った。

「ハルヒ、個人的にタイムカプセルの実験をしてみたいんだが」

「もう、あたしは洋服のデザインで忙しいのに」

計画どおり大理石を埋め込み、パテで隙間を詰めた。なんとかごまかしてハルヒにかしわ手を打たせ、部屋の外に追い出した。今ごろ向こうでは長門と朝比奈さんが、この同じ空間でワームホールを閉じているに違いない。どうだろう、ちゃんとうまくいっただろうか。


 それから五分くらいして、白く光る人の形をした影が現れ、長門と朝比奈さんが戻ってきた。いつもの服装に戻っているところを見ると、どうやらTPDDは戻ったらしい。

「ただいまキョンくん、わたしなにかいろいろ変なこと言ってたそうね」

「いえいえ、たまにはああいうのもいいんじゃないでしょうか。新鮮でよかったですよ」

などと言いながら、もうあんな朝比奈さんは二度とごめんだという表情を隠し切れない俺だった。

「実は未来で長門さんに会ったの。わたしたちを待っていたみたい」

「なにか言ってましたか」

「……」

長門は俺の顔を見つめ、なにか言いたいことがありそうなのに言葉にならないような、複雑な表情をして口を開けてはやめ、口をパクパクしてなにかを言おうとしている。それ、禁則事項?

「長門、どうしたんだ?未来でなにかあったのか」

長門はいきなり走り寄り、飛び上がって俺に抱きついた。細い腕を背中に回してきつく抱きしめてきた。

「まあっ、長門さんったら」

朝比奈さんが信じられないという様子で口に手を当てている。

「これはこれは、お熱いですね」

古泉がカメラを取り出して写真に収めようとしたのだが、朝比奈さんににらまれてやめた。

「な、長門、み……みんなが見てるって」

かつてないほどの激しい長門の衝動に俺は戸惑とまどって、顔が真っ赤になるのを感じた。でも、こういうところを長門が見せるのは嬉しかった。長門は俺の肩に顔を埋めてピクリとも動かない。俺はそのまま長門の体を抱えて、会議室のドアを背中で押して外に出た。その間にも長門は離れようとはしなかった。

 ハルヒがぽかんとした表情で俺たちを見ていた。俺と目が合うと、顔を真っ赤にして、

「あ、あたしタバコ買ってくる。あたし吸わないんだったわ。じゃあハッカパイプとかシガレットチョコとかキセル乗車とか……」

意味不明なセリフをつぶやいて出て行った。


 俺は長門が落ち着くまでじっと抱いていた。ほんのりとリンスの香りがする薄紫色の髪をなでた。未来でなにを見たんだろう。もしかして、俺が死んでたとか。

「なにを見たのか、話してくれ」

「……自分の、未来」

七年前、長門は自分で選択して異時間同位体いじかんどういたいとの情報リンクを断った。それが久しぶりに未来を見たということなのだろう。

「なにを見たんだ?」

「……あなたと、わたし」

なるほどな。未来の俺が死にでもしたらたぶん、長門は今ごろ暴走している。この長門の反応は、俺が描いている二人の未来に近かったんだろう。俺は長門の耳元でささやいた。

「じゃあその未来は、俺には内緒にしといてくれ」

俺は俺で、自分の未来を作る。

「……分かった」

俺は唇で長門の頬に軽く触れた。どうやら感電はしなかった。


 会議室のドアを開けると朝比奈さんと目がかち合った。俺も朝比奈さんも顔が真っ赤になった。

「あ……朝比奈さん」

「あ、あの、ごめんなさい、別に立ち聞きしてたわけじゃなくて……」

「すいません。長門が未来の俺たちを見て感激したらしくて」

「わたしも見ました。ちょっとうらやましかったですよ」

なにを見たのか気になるところだが、知らないほうがいいだろう。

「それで、わたしたちは涼宮さんに遭遇そうぐうしてしまったんです」

「見られたんですか」

「ええ。ちょうどタイムカプセルを開けようとしたところを見つかっちゃいまして」

「ありゃ。それで、うまくごまかせましたか」

「いいえ。向こうの涼宮さんはわたしたちがやっていることを既に知っていたみたいです。因果律いんがりつが壊れ始めていることを伝えると、分かってくれました」

「ハルヒにしては物分りがいいですね」

「ええ。もうタイムカプセルを使って対話するのは中止することになりました」

「それはよかった。ハルヒも多少は成長したみたいですね」

「それから、これを言付ことづかりました」

朝比奈さんは例のメモリカードを差し出した。

「未来の涼宮さんからの、最後のメッセージです」

俺は一度内容を確認したほうがいいかとも思ったが、いちおう私信なのでハルヒの机の上に置いておいた。


「返事が来たわよ!」

ハッカパイプを吸い込みながら戻ってきたハルヒが頓狂とんきょうな声を上げた。

「みんな、再生するわよ。はやく見に来なさい」

これを待ちあぐねていた四人がハルヒのパソコンの前に集まった。映像に映るハルヒは、いつもより少し落ち着いて見えた。


『あんたと話すのはこれが最後よ。実は社屋しゃおくを引っ越すの。今度新しく研究施設を建てたの。SOS団時間移動技術研究所よ。ここのタイムカプセルは大家さんに見つかる前に埋め戻さないとね。ああ、別のタイムカプセルをまた作ろうなんて考えてもだめよ。未来の情報はタダじゃないの。あんたが自分で、苦労して手に入れるものよ』

未来の自分から説教めいたことを言われて、ハルヒは眉間みけんにしわを寄せた。余計なお世話だと言いたいのだろう。

『でも安心しなさい、あんたがほんとに欲しがってたものはちゃんと手に入れたから。ねっ』

画面の中のハルヒは、カメラのこちら側にいるらしき誰かに向かって親指を立て、ウインクした。映像を見ていたハルヒの顔がぱっと輝いた。

「よかった。やっと手に入れたのね」久しぶりに見るハルヒの笑顔だった。

『ほら、恥ずかしがってないであんたも映りなさいよ。過去のあたしに見せてやりたいの』

そこからの映像は途切れて砂の嵐になっていた。ハルヒが画面をガンガンと叩いた。

「もう!いいとこなのに。どうなってんの、このパソコン」

「おい、そんなに叩くと液晶が割れるぞ」

「キョン、なんとかしなさい。続きを見たいのに」

ハルヒは夕方五時アニメの続きが待ちきれない子供のように俺をせかした。ファイルを開こうとするが、読み込みエラーが表示されるだけだった。どうやらメモリカードそのものが壊れているようだ。俺はなんとかならないだろうかと長門を見たが、そっぽを向いて我関せずを決め込んだ。あの映像の続きには、なにか見てはいけないものがあったらしい。

 朝比奈さんにも聞いてみた。

「映像の続きは見ました?」

「いいえ。メモリカードを受け取っただけで」

「カメラのこっちにいたの、誰なんです?」

「分かりません。あらかじめ用意してあったみたいなの」

結局、ハルヒが欲しがってたものがなんだったのか、ハルヒ以外の誰にも分からずじまいだった。

「キョンくん、ひとつ忘れていました。メモリカードの中に時間移動基礎理論の論文が入っているはずなんです」

その後、メモリカードはどこへということもなく消えた。ロッカーにしまっておいたはずなのだが、なくしたのか誰かが持っていったのかは分からない。俺が覚えている限りでは、さらに過去へとタイムトラベルしたのだろう。あれがいつ誰を経由してハカセくんの元に戻ってくるかは分からないが、今現在はとりあえず必要ないんだと思う。

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