第4話 06:断頭台



*  *  * 


 昨晩からあらかじめ用意されていた処刑台の前にはすでに大勢の国民が見物に訪れている。

 公開処刑などこの国では滅多にない見世物だ。

 広場の中央、ギロチンが鈍く光っている。

 女王は処刑台の後ろの特等席で罪人の到着を待っていた。


 時間を置かず、罪人は現れる。


 こうなってまで、彼女の表情からは余裕が消えない。

 それに気づいて、女王はこの者と接してから今までの全ての行動を嘲笑われている気分になる。

 そんな不快感を感じ取ってか、黒衣の従者がアニーの肩に遠慮がちに手を乗せ、しかしその一瞬で逃げるようにひっこめかける。

 アニーは彼女の手の上から手のひらを重ね、その行動を制す。


「アニーさま。何も、悪いことは起きません。たとえ起きたとしても、」


「ええ、わかっています。ダイナ」


「わたしの命に変えても――」


「ダイナ。やめてちょうだいそんなこと……」


「女王陛下……」


 罪人がギロチン台に上る。民衆は低くどよめく。

 魔女め。

 声と一緒にどこかから石が飛んできた。


「魔女め」「魔女め!」

「恥さらしっ!」「犯罪者!」

「魔女!」「魔女め!」


 張り詰めていた空気が破裂したように断罪の声があふれる。


 次々に石や腐った卵などが投げつけられ、罪人の囚人服に濃い色の染みを作る。

 アリスの美しい髪に卵が命中して、黄と白濁色の粘液に汚れる。


 それでも、まだ。


 罪人の顔に苦悶や恐怖、羞恥や諦念――絶望の感情は表れない。

 固い石がアリスの頬を傷つけた。白い肌に血がにじむ。


「皆の衆、おやめなさい」


 見かねたアニーが言い放つと、気まずそうなどよめきが広がり、やがて鎮まった。


 罪人はギロチンの後ろへ立たされる。

 彼女の背後に覆面の官吏が一人着く。

 処刑台の中央で低音を響かせ、罪人の罪状を高らかに述べるのは兵士隊長のドードーだ。

 外見と声があいまって泣く子も黙る迫力だった。


「これによって! 罪人アリスは! 本日この場にて斬首刑に処す!」


 興奮の混じった後ろ暗い歓声が上がる。

 ドードーは民の反応に満足そうにうなずいて、アリスの背後の官吏へ指示した。


「ギロチンへ首を。罪人を跪かせろ」


 官吏からの返事がない。


「おい、どうした? やれ!」


「お断りします」


 落ち着き払った声が答えた。


 同時に官吏は罪人の拘束を解き、自らの覆面も剥ぎ捨てる。


「貴様ッ、何をする!?」


「常識的に考えて、答える必要性を感じません」


 言うが早いか男の拳がドードーの横っ面を殴り倒す。

 広場は一瞬で騒然となった。

 止めに入った兵士たちも、黒髪と猫耳を持つ男の前にあっけなく倒れて行く。


「チェシャ!」


 反逆した官吏を呼ぶ声があった。ハイトとヒナだ。


 チェシャは彼らを一瞥し、自由を得たアリスの背を押しやる。


 処刑台へ上ってきたハイトが罪人の少女を受け止めた。


「アリスを連れて逃げてください!」


「まかせて。チェシャ、ここは頼むよ!」


「言われなくても。常識ですよ」


 主の背中が遠ざかるのを見届け、アリスの忠猫チェシャは迫り来る兵士たちに立ち向かう。


「やれやれ、次から次へと雑魚ばかり。非常識な」


 そろそろ使い物になる兵士はいないだろう、そう判断してため息を吐いたチェシャの背後に迫る影がひとつ。


「っ――」


 息を吐いて横へ飛ぶ。逃げ遅れた髪が数本宙に舞った。

 先刻まで頭のあった位置を貫くのは、黒いスーツを着込んだ女兵士の腕、その先に装着された鋭い鍵爪。


「ダイナ――聞いたことがあります。女王の飼い猫と」


「そう言うお前はどうなのだ。なぁ? アリスの飼い猫」


「ふむ、少しは常識的な相手、ということですね」


 黒衣の従者が二人、向かい合う。

 アニーに拾われた黒猫と、アリスに拾われた黒猫。

 奇しくも同じ境遇の、対照的な二人。


 場の空気を震わせる緊張感――

 ダイナが地を蹴りそれを破った。


 チェシャの懐に飛び込んで爪を繰り出し、しかし手ごたえはない。

 一足早くダイナの背後へ回り、チェシャの自前の爪が振り下ろされる。


 ダイナは受け止めた。


 勢いを殺し切れず、衝撃が走る――。


*  *  *


「どこへ逃げるの?」


 混乱する広場を抜け切ると、民のほとんどが集まっていたせいか、街には極端に人通りが少なかった。


「森へ。兎の里を越えれば国の外だから」


 ハイトの手は強くアリスの手を握り締めている。

 アリスも大人しく、手を引かれるまま従っていた。


 目隠しから解放された彼女の顔を、私は出会いの時以降初めて見た。

 目隠しの跡がうっすらと赤く残っている。手首にも痛ましい拘束の名残が見受けられた。


 髪には投げつけられたのか、卵の白身も黄味もこびりついていた。

 頬に出来た傷から血が滲んでいる。


 酷い扱いを受けたのだと一目瞭然、しかし尚アリスの誇りは失われない。


 ふと見たハイトの、アリスと繋いだ手が震えているのに気付く。

 怒りが彼を震わせているのだろう。

 ハイトがこんなに怒ってくれるから、彼女は平静としていられるのかもしれない。


「ハイト、聞いてくれる」


 森までようやくたどり着いた頃、今までずっと唇を結んでいたアリスがようやく声を発した。


「なに」


「怒らないで」


「怒るよ。どうしてあんなこと言うの。思うことがあるなら教えてくれなきゃイヤだ」


「きみ。ハイト。泣かないで」


「泣いてないよっ」


 嘘だった。

 ハイトの頬は既に涙でダビダビに濡れていた。

 アリスの表情が柔らかく笑みを作る。


 彼女は傷ついてもたおやかなその手でハイトの頬を覆う。


 指先が頬を撫でた。

 ハイトは子供のようにしゃくりあげながら、少女のなすがままに身を任せている。


「っ、アリスのばか! 君をどれだけ心配したか。

 わからないの? ぼくは、君が居なくちゃダメなんだ。

 アリスっ、アリス、アリスぅ……」


 ぐずるハイトの涙を白い指が拭った。


「ハイト。ごめんなさい――」

 

 向かい合う二人はそのまま距離を縮めていく。

 アリスがそっとハイトの額にくちづけた。


 これ以上見ていられなくて、私はこっそり顔を背ける。

 思う存分気が済むまでやってなさいよ、って気分だ。やれやれだぜ。


 うんざりと溜め息を吐いた私の耳に飛び込んだのは、しかし恋人たちの仕草を知らせるものではなく、「ゴツンッ」あるいは「ガツン」という鈍器が放つような明らかな打撃音だった。


 咄嗟に顔を向ける。


 アリスがハイトの頭を支えていた手を引くと、重力に耐えられなかったハイトはそのまま身体を地面へと投げ出す。

 ばっちり気を失っていた。


「あ、のびた……あっ、逃げた!」


 アリスがハイトに頭突きを食らわせたのだ。

 気付けばもう彼女の後姿は広場へ向かっている。

 なんて頑固なのだろう。しかも男に頭突きを食らわせて……私もやったけど。


「待って! アリス!」


 そのまま追いそうになり、慌てて引き返す。


 ぐったりと力の抜けたハイトの身体を担いで再び広場を目指す。

 一応叩いたり呼びかけたりしてみたものの目覚める気配はない。


「ちくしょう、なんで重量だけいっちょまえに成人男性なんだよ……」


 大人一人ひきずりながらの進行は、遅々として進まない。


*  *  *


 ダイナは圧されていた。


 一見細身で素早いだけかと思われたアリスの猫は、意外に重い拳を放つ。


 受けるだけで精一杯――

 ダイナは一瞬背後を窺い見る。


 設えられた物見の座に不安げな表情の主がこちらを見つめている。

 気を散らしたダイナの横面に爪が迫り、危ういところでどうにか逃れた。


 ダイナの視界の端で女王が息を飲む。


「チェシャ!」


 膠着する広場に予想外の声が飛び込む。

 たった今逃げたはずの罪人の姿がそこにあった。


「アリス、何故です!?」


「ばか者、それは私の言葉だよ」


「何故って、アリス、俺は――あなたが……あなたとっ」


 チェシャは言いよどむ。悲痛な声を飲み込んで、アリスへ駆け寄る。

 罪人の顔に初めて表情らしい表情が、微笑以外に浮かんでいた。

 ダイナはそれに好機を見る。


 この罪人は自分の痛みに不感症で、他人の痛みに敏感なのだ。


 アリスの姿に動揺したチェシャの身へダイナは素早く手を伸ばした。

 狙うのは彼の腰元、そこから伸びる一本の尻尾。


「フミャッ!」


 尻尾を力の限り掴み引くと案の定、彼の姿は猫へと変じた。


「チェシャ!」


 罪人の焦る声がダイナの心に甘い痺れをもたらす。

 まぎれもない快感があった。

 ようやく溜飲が下りた心地でダイナはチェシャを掲げて見せる。

 チェシャは首の後ろあたりを掴まれて、無力化した体がぶらんと揺れた。


「この畜生の命が惜しいだろう?」


 問うと、アリスの反応がダイナに再び歓喜をもたらした。

 明らかに憎悪を浮かべた瞳がダイナを見上げる。


「彼を、見逃してもらえるか」


「言葉が悪くて聞こえないな。何だって?」


「私の飼い猫を見逃していただけないでしょうか。お願いします」


 ダイナが嘲りの気持ちを露わにすると、アリスはもう落ち着き払った物腰を取り戻していた。

 冷静な娘だ。

 城に仕える身になれば、さぞ将来有望だったろうに。

 しかし、だからこそダイナは彼女を許せない。


「罪人アリス。断頭台へ」


「彼を助けていただけますね? 他の二名も」


「……女王陛下、ご決断を」


 罪人の図々しい願いを、慈悲深いことに女王は静かな首肯でもって認めた。


「良いでしょう。この国に誓って約束します」


「よかった……」


 安堵する少女の声が、ダイナに初めて彼女の年齢を意識させる。

 広場にはもう騒ぎ立てるような民衆はいなかった。


 アリスは自らの意志で、断頭台へ上って行く。


*  *  *


 ハイトの重みを肩に感じながら広場への道程を進む。


 アリス、本当に、なんて流され難い女だ。


 これだけやっても、まだ駄目だとは。

 本当に生への執着がない。


 最愛の人に最後にされた行為が頭突きだなんて、ハイトにとってもそれはビミョウすぎる別れに違いない。

 というか、素直に不憫である。


「よっこらせいっ」


 ずり落ちてくる成人男性を担ぎなおす。

 私の頭の中では昨夜の話がリフレインしていた。


 ハイトに恋し、周囲の人々を案ずる優しいアリス。

 頑なで、まっすぐな心。


 どうにも、目を逸らしたくなるような人物だった。


 本当にアリスは、そんなにお綺麗な女の子なのだろうか。

 他人のためにそこまで、何かを貫き通せるのだろうか。


 彼女がどれだけ他人を思いやろうが、言い訳にしか聴こえないのだ。


 私にはアリスがどんなに強がって見せようが、彼女が逃げ道を探しているように見える。


 アリスは出口を探している。


 この夢/現実から逃れられる術を、探しているんじゃないだろうか――。


 楽器が乱暴に鳴らされている。広場がようやく見えてきた。

 ハイトめ重いぞ、夢の中とは言え筋肉痛になりそうだ。

 私は妙に落ち着いた気分で処刑台を見上げる。

 思わしい結果には、ならない。


 でも良いんだ。

 これはどうせ夢なのだから。


 目が覚めたら携帯電話にセットしてある目覚し時計を止めて、戸棚から玄米フレークを器に出して牛乳を注ぐ。

 ハイビジョンでエグく映りすぎる色黒初老司会者のニュース番組を眺めながらもそもそ食べて、歯を磨いて顔を洗って制服に着替えて。手におえない寝癖をアイロンで服従させて、年配先生が気付かないくらいの薄いメイクをして。


 友達に会ったらこの変な夢の話をしようかな。

 でも、気味悪がられるかな。


 ああ早く目が醒めれば良い。

 早く明日になればいい。


 ギロチンが日を反射させて私の目を光で射った。

 鳥の兵士が興奮気味にシンバルを打ち鳴らす。太鼓のリズムが加速する。

 見覚えのあるドードーがトランペットを高らかに吹いた。


「これより罪人アリスの刑を執行する!」


 どっと疲労感に襲われる。


 わたしは気力の限り処刑台に近づいた。


 民衆に阻まれてそう近くへは寄れない。

 台の端で猫姿のチェシャが兵士に捕えられている。

 それでも諦められないようにじたばたと動いていたが、その行動ももう無意味だ。


 アリスは。


 アリスは心から安堵しているようだった。


 官吏に促されるまま従順に死へ誘う溝に細い首を宛がう。

 この光景を、ずっと前から予感していた気がした。


 静まり返った広場は、何かを期待して息を潜めているようでもある。

 視界の中央で、場違いなきらびやかさを振りまく女王が優雅な仕草で立ち上がった。


 それはよく通る、清廉とした声だった。

 しかしそれだけに、言葉の内容が際立つ。


「首を――」


 終わる。

 一瞬、アリスがこちらを見た。


「アリス!」


 無意識のうちに叫んでいた。

 アリスの恐ろしく澄んだ瞳、そのアイスブルーと視線が交わる。

 彼女は私に微笑みかけた唇で、言葉をかたどった。

 それは遠くから見ただけでは不明瞭のはずなのに、私の耳元にはっきり届いた。

 と同時に女王の声が告げる。


「――刎ねッ!」


 刃が空気を裂く音。

 そして。


*  *  *


『――夢を見ている、あなたもアリスだ』

 その言葉を、私は理解することになる。


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