また明日
2626
第1話 ADAMASTOR
『ADAMASTOR』
――剥げかけた金メッキの文字は、かろうじてそう読むことが出来た。
ADAMASTOR、確かそれは、喜望峰に現れるという精霊の名前だったはず――しばらく扉の前で考えていた
――やっとのことで見つけたのは、怪奇な洋館だった。
裏路地の果てで、悪魔が住んでいそうな、古く暗鬱とした雰囲気を漂わせている。窓はあるものの、鎧戸で完全に閉じられていて、おまけにツタがその上を這っている。
禍々しい空気が、館全体からじくじくとにじんでいるようだった。
初めて目にした際、心の底からの悪寒に、彼は身震いした。
しかし、この店を紹介した友達の話では、「パーフェクトにオカルトな占い屋」なのだから、これも異常ではないのかもしれない――が。
入ろうか、帰ろうか、延々と彼が迷っていると、いきなり、
「どうしてここにいるの?」と言う声が背後から上がった。
彼は、わッ、とすくみあがったが、叱責するようなその声には、聞き覚えがあった。
「そ――
きつい目つきの少女が、彼を睨みつけていた。園原まゆみは、
「どうして、あなたなんかがここにいるの?」
まるで、自白しろと脅迫するような勢いだった。
「えーと――進路のことで、占ってもらおうかと思って――」
あっそう、と少女はどこか安堵したかのように、頷いた。
「園原先輩は、どうして?」
何気ない質問のつもりだったが、少女の顔は、ねじられたように歪んだ。
「どうして答えなきゃならないのよ」
彼を突き飛ばして扉を開けると、ぽっかりと生まれたくらがりに彼女は飛び込んで行った。
「あう」
彼は唖然とした表情のまま、汚い裏路地にしりもちをついた。その目の前で扉が閉じる。
かなり古びていて、蝶つがいもさび付いているのに、何の音もさせないで開閉するようだった。
「――何だったんだ、一体」
もしかして、恋愛関係のことで来たんだろうか、それとも――と色々と考えつつ、ホコリをはらって立ち上がる。いずれにせよ、気まずいので、帰ろうかな、と彼が思った時だった。
また、扉が開いた。
彼は驚いて顔を上げた途端、誰かとぶつかって、再びしりもちをついた。
「うわッ!」
先ほど入ったはずの、園原まゆみだった。彼女は彼をほぼ無視して、
「――どうしてよ!」
開かれた扉の中の暗がり――人影らしきものがたたずんでいた――に向かって、怒鳴った。
「どうして入れてくれないの!?」
どうやら、店から、つまみ出されたらしい。
人影は、黙って手を突き出した――指先にカードが挟まれていた。
くるりと裏返すと、『愚者』のアルカナだった。
「!」まゆみははっと息を呑んだ。「も、もう一度――!」
扉に駆け寄ろうとしたとき、扉が音も無く閉じられる。
二度目は無いらしい。
「……潰れればいいのよ、こんな店は」
園原まゆみはそう言って舌打ちすると、扉を蹴った。
「そ、園原――先輩」
彼はかろうじて名前を呼ぶ。
「一体、どうしたんです――」
園原まゆみは、すさまじい目つきで彼を睨んだ。
「あなたなんかには、関係ないわよ」
まだ何か言われるかと彼は怯えたが、しかし彼女は、もう一度扉を蹴ると、すごい速さで走り去った。あっという間に、その姿は見えなくなる。
「何だったんだ――?」
彼は首をかしげた。
とは言え、である。
筋金入りのオカルト少女の彼女が、たたき出されたのだ。
これは、何があったのかは知らないが、面白そうだった。
おそるおそる、扉に手を当ててみる。
ほんの少し押しただけで、分厚い扉がやすやすと開いた。
「――」
すき間からのぞいてみたが、何も見えない。暗闇が広がっているだけだった。何か、もっと見えないだろうか、と顔を扉に押し付けたとき、いきなり扉が開いた。
押しすぎたのだ、と悟るより先に、彼の体はバランスを崩して、前のめりに倒れこんでいた。
「――うわあッ!」
無様に床に両手をついて、彼はふう、とため息をついた。誰にも見られていなくて良かった。
落ち着くと、外観はあれだけ廃屋じみているのに、床はきれいに磨かれていて、すべすべとしていることに気が付いた。
「――『パーフェクトにオカルトな占い屋』、ね――」
彼は呟くと、よいしょ、と立ち上がる。
「上等じゃん」
その背後で音も無く扉が閉まった。
辺りが暗闇に覆われたとき、ぼうっと灯りが点いた。
入口から少し向こうに、小さなカウンターがあって、そこにはランプが一つと、いかにもオカルトな品々が並べられていた。本物か、作り物かは分からなかったが、そのいくつかは、彼のオカルト心をくすぐった。カドゥケウス、水晶のドクロ、ミイラ化した何かの手。メッキの剥がれた額縁。その中央にあるべき絵画は、すっぽりと抜けていた。
それらの品々の一つのように、ランプに照らされて、片目を大きな眼帯で隠した少年がカウンターの中に座っていた。
伏木勝巳を確認すると、カウンターにカードを伏せる。
「えーと、アルカナを当てろ、ってこと?」
勝巳が聞くと、こくん、と頷く。
厄介だな、と彼は思った。
彼には透視能力など全く無いので、適当に当ててみるしかなかった。確率と運次第なのだった。けれど、幸運の女神がアテにならないことは、彼は身をもって分かっていた。
きっと、正解しなければ、園原まゆみのように、つまみ出されるのだろう。
「――えーと」
でたらめにアルカナを思い浮かべる。星、月、太陽、戦車、皇帝、女帝、魔術師――。順番を無視して、適当に並べ立て、
「月」と言ってみた。
少年はカードを裏返す――『月』。
ランプのゆらぐ灯りのせいか、妙におどろおどろしい絵のように見えた。
「あ、やった」
しかし、少年は、もう一枚、カウンターに伏せて、それを指差した。
「え、また?」
また、うなずいた。何度も当てろ、ということらしい。
これはもうダメだ、と彼はあきらめた。
1度ならともかく、そう何度も偶然が続くはずがない。
「悪魔――だといいな」
彼がそう言うと、くるり、とカードがめくられる。
「!」思わず勝巳は息を呑んだ。
悪魔だった。
偶然が続いたのだ。
少年は、もう一枚カードをカウンターに伏せた。
「――3度目、か」
勝巳は、正直、当たるといいと思った。当たらないかもしれないと思ったが、それはあまり考えたいことではなかった。
当たれば、今度は「当然だ」と思うかもしれない。
こうやって、ギャンブルやら占いやらに、ハマっていくんだろうな――彼はそう思った。
「運命」
彼が答えたのに、少年は――今度は、カードを反さなかった。
その代わりに、黙って勝巳の背後を指差した。
その方を振り返ると、入ったときには気が付かなかったが、扉が二つ、通路に並んで左右にあった。
彼は、カウンターに向かって左側を指していた。
「入れ、ってこと――?」
勝巳の問いに少年は頷くなり、ランプを消した。
「待っ――」
遅かった。暗くなったと同時に、少年の気配も消えてしまった。
接客マナーは落第点だ、と勝巳はぼやいた。
やむをえず、手探りで指された扉にたどりつく。
入り口のように、扉は押しただけであっさりと開いた。
その中に入ると、ぼっと灯りがともる。
眩しい、蛍光灯の見慣れた光だった。
期待して入った先には、質素な机に卓上ライト、椅子が二つと――まるでドラマに出てくる、取調室のようだった。
コンクリートを打ちはなしただけの荒っぽい壁と床。
占い屋、というにはあっさりしすぎていて、これは騙されたと彼は思った。
何がパーフェクトにオカルトな占い屋だ――。
――出てきた人物が彼女でなかったら、彼は本当に騙されたと思ったままだったろう。
「占ってほしいことは?」
気が付いたときには、その少女は彼の目の前に座っていた。
いつの間に、と彼は思ったが、驚かなかった。園原まゆみもこうだからだった。
そういえば、似ているな、と彼は不思議にも思った。
雰囲気が、何となく、常人離れしているというか――。
「えーと……将来のこととか――」
占いなど信じていないので、ありきたりな質問しか、浮かばなかった。
少女は少し彼の目を見つめると、
「あなたに将来はありません」
断定口調で、あっさりとそう言った。
――勝巳は、特に『死』にまつわるオカルトに詳しかった。
それは、彼が『死』を何よりも――上手く生きていく方法よりも、知りたがったからだった。
知ることは近づくことだった。
それに近づくことは、とんでもない無謀さが必要だった。
しかし、彼は若く、好奇心だけで、人が踏み入れてはならない領域に、とっくに両足を踏み入れることに成功していた。
「知りすぎたから、ダメだったのかな――」
すんなりと、彼は言われたことを理解して、つまらなさそうに呟いた。
世界が多重構造だとか――生命の基となるものは『細胞』ではなく、物質と魂の融合物だとか――天使と悪魔の密かな抗争など――常識のある人間には笑われるような、しかしどうしようもない真理のいくつかを、彼はすでに知っていた。
「いいえ」
少女はまぶたを伏せた。長いまつげが、青白い顔に淡い陰影を生んだ。
本当にきれいな子だ、と勝巳はしみじみと見つめた。
薄っぺらい皮の中に血と肉と骨を詰め込み、脳みそを肥大させ、死ねば腐り果てるような、『人間』らしくはなくて――まるで
「あなたは知っているだけで、何一つ行ってはいない。そして信じてもいない。だから、あちら側にもあなたの存在は知られてはいるが、それ以上の干渉は原則的にしようと思わない」
すごいな、と彼は驚いた。少女はどうやら読心術も使えるようだ。読心術は、心理学と統計学などに詳しければ、習得するのは難しくない。
この際だ、と彼は違うことも尋ねてみた。
「僕が知りたいのは――魂の形が肉体の形なのか、ってことなんだけど」
口に出した後、彼はしまったと思った。
おい、これは――よく考えてみたら、口説き文句じゃないか?
「――さあ」少女は彼の背後を見つめた。相変わらずの無表情だった。「答えてもいいのですが――今は、あなたは帰った方がいいでしょう」
彼は嫌な予感がして、ゆっくりと首を後ろへひねった。
「――!!」
声にならない悲鳴をあげて、彼は椅子から転がり落ちた。
扉のすき間から、ぎらぎらと血走った目が、彼を睨みつけていたのだ。
カウンターにいた少年だ――勝巳は直感した。
「ここで、僕は殺されるってか――」
ここに彼が来たのは、死ぬためだったとしたら、ぞっとしない話だった。
冗談じゃない、と彼は思った。
「的中だね、僕には本当に未来がないんだから」
皮肉を言ったつもりだったが、
「まさか。あれは怯えているだけです」
「何に?」
少女は、勝巳のその問いに、はっきりと言った。
「あなたに、ですよ」
「どうしてなんだ――?」
彼にはずば抜けた身体能力は無かった。存在感が薄く、ぼんやりとした人間だった。怯えられるどころか、相手にされない方が多かった。毒殺に関する知識はあったが、誰かに毒を飲ませたこともなかった。
そもそも、彼には少年への害意など、まったく無かったのだ。
答えを求めるように勝巳は少女を見つめたが――。
「復讐と言うものは、概して怖いものですからね」
「――何を、言っているんだ?」
勝巳は戸惑った。
仰々しい言葉を並べ立てて、さもご大層なものに見せかけたいのだろうか。
自分が死ぬ、もしくは死なないかもしれない、たったそれだけのことを。
しかし、彼には、この少女がそういうことを言ったことが、どこか不自然に感じられた。
彼女はきれいだった。仰々しさが、一切必要ないほどに。
少女は、ぱちんと指を鳴らした。
ふっと光が消えた直後の、闇のあまりの黒さに、勝巳は目をしばたたかせた。
「――料金は結構です、帰途に気をつけて」
帰途に気をつけて――その言葉で、勝巳はあることを思い出した。
最近、この都市で、行方不明者が増加しているという話を。
その大半は、いつ失踪してもおかしくないような人生を送っている人間ばかりだったが――幼い子供まで姿を消しているらしい。
もしかしたら、それに巻き込まれて死ぬのかな、と勝巳はぞっとしたが、だとしたら、かえってすっきりしていていいかも知れないと思いなおした。その方が現実的だった。
闇に慣れると、手探りで部屋から出る。
「――もし無事に帰れたらさ」
何気ない会話の一つのように、彼は尋ねていた。
闇は目の奥まで入り込み、視界はゼロに等しかったが、少女がいる場所が、何となく彼にはわかった。
――カウンターに腰掛けている。
「また、この店に来てもいいかな?」
「――」
拒絶はされなかったようなので、彼は安心した。
もう一度、この店にやってくる時のことを思うと、まるで楽しい遊びを見つけた子供のように、わくわくした。
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