幕間

不可逆の原理

『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』

 ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。


 結局のところ、俺は、ローヤン先輩の仇を討てたのだろうか?

 先輩を死に追いやった〈ムスカ〉は、確かに死んだ。けれど、その死は、とても安らかだったと思う。

 先輩のように、救いのない死ではなかった。

ムスカ〉が死んで、皆で菖蒲の庭園から脱出したあと、俺はハオリュウのもとへ結末を報告に行った。その際、ミンウェイは『私がクローンだったことも含め、すべてを包み隠さずに話してきてほしい』と俺に頼んだ。

 そして、ハオリュウの他に、もうひとり。

 ミンウェイが、すべてを伝えてほしいと言った相手がいた。

 ローヤン先輩の恋人であり、妻となるはずだった女性ひとだ。



 彼女の家を訪れたのは、〈ムスカ〉が死んでから数日後のことだった。

 俺を出迎えてくれた彼女は、ゆったりとしたワンピースを着ていた。そのせいだろうか。まだ、それほど腹が目立つということはないのだが、どことなく妊婦特有の雰囲気を漂わせていた。

「気になる? この子、私のお腹を蹴るようになったのよ」

 俺の視線に気づいたのか、彼女は愛しげに自分の腹を撫でた。――ああ、これは『母親』の顔だな、と思う。慈愛の眼差しだ。

 思わず、彼女の手元に注目してしまい、はっと我に返って気まずくなった。いくら妙な下心はないと分かり切っていたとしても、女性の腹を凝視するのは失礼だろう。

「……っ、こほん。……不躾にすみませんでした。……その、妹が腹にいたころのお袋と、似ていたもので……」

「えっ? そうなの……? あ……」

 何気ない相槌で答えてから、急速に彼女の顔が曇っていく。おそらく、ローヤン先輩から、俺が家族を亡くしていることを聞いていたのだろう。

 しまった。妊婦は、涙腺が弱い傾向にある。

 俺は顔には出さず、けれど、大慌てで言を継ぐ。

「目つきがですね、ちょいと険しいんですよ。赤ん坊を守ろうとする母親の顔、ってやつですかね」

 おどけた調子で肩をすくめると、彼女は、ぱっと目を見開き、「ええっ!? 本当?」と赤くなった頬を押さえる。

 前回、会ったとき――先輩を亡くして間もなくのころよりも、ずっと表情が豊かになったような気がする。俺は内心で胸を撫で下ろしつつ、にやりと続けた。

「そのくせ、ふとしたときに、とんでもなく優しい顔になるんですよ。――あのときのお袋も、今のあなたも、です」

 自分で言いながら、餓鬼だったころを思い出す。

 俺にも、かつては家族がいた。親父が、よく犯罪者と間違われるような悪人面だったことを除けば、特にこれといった特徴のない、ごくごく平凡な家庭だった。

 亡くしたときには、何故、自分だけが取り残されたのかと絶望した。……とはいえ、さすがに、この歳にもなれば、それなりに自分の中で折り合いがついている。

 だから。

 家族のことは、ただ優しい思い出として、俺の心に残っている――。

「餓鬼だった俺は、お袋の機嫌があまりにもころころ変わるのが心配で、どこか具合いが悪いに違いないと、深刻な顔で親父に相談しましてね。――そしたら、親父に大笑いされました」

「それは……、緋扇さんが可哀想だわ……」

 同情もあらわに、彼女が眉をひそめる。

「親父に言わせれば、『家族の原理』なんだそうですよ」

「『家族の原理』?」

「他人のことだったら気にしないような些細なことでも、家族のこととなると放っておけなくなる。ほんのちっぽけなことにも、一喜一憂する。お袋が腹の中の弱っちい赤ん坊をやたらと心配するのも、そんなお袋を俺が心配するのも、どちらも同じことなんだ――だそうで」

 ――そうだ。

 親父は、今の俺とそっくりな顔で、もっともらしい説教を垂れたのだ。

 ああ、なんだか妙にむかつく。どう考えても俺は、人並みの面構つらがまえだったお袋に似るべきだった……じゃねぇよ。ここは、そんなことを考えている場じゃねぇ。

 そんな、どうでもいい、馬鹿げた思考と共に、懐かしさがこみ上げる。

「餓鬼の俺には、親父の言いたかったことは、まったくピンとこなかったですし、今だって『親父の野郎、適当に格好つけたことを言いやがって』と思うんですけどね。……でも、あなたを見ていると、なんとなく分かったような気分になります」

 俺は、そこで言葉を切った。

 俺が彼女に会いにきたのは、世間話をするためじゃない。〈ムスカ〉の最期を報告するためだ。

 奴が死んだことは、既に電話で伝えてある。けれど、彼女には、すべてを知る権利があるだろう。だから、わざわざ時間を作ってもらったのだ。

 ここまで来ておきながら、正直なところ、俺は話の進め方に悩んでいた。

 世界は不可逆で、〈ムスカ〉が死んでも、先輩が戻ってくることはあり得ない。ならば、この報告は、彼女の前に広がる無限の可能性の中から、幸福を選び取るためのものでなくてはならないのだ。――間違っても、彼女の未来に禍根を残すようなものであってはならない。

 俺は、腹に力を入れた。親父譲りの三白眼で、まっすぐに彼女と向き合う。

「先輩を死に追いやった〈ムスカ〉は死にました」

 彼女の喉が、こくりと動いた。

 この話は不可逆だ。

 聞いてしまえば、聞かなかった時には戻れない。

 だから俺は祈りを込めて、彼女に告げる。

「今日は、その詳細をご説明に参りました。――〈ムスカ〉の家族の話です」



 彼女が出してくれた麦茶の中で、溶けかけの氷がくるりと踊った。

 グラスの側面を覆っていた水滴が繋がり合い、まるで涙のように流れていく……。



「すみません。こんな話をして」

「なんで謝るの? とても……大切な話だったわ」

「ですが、この話をするということは、〈ムスカ〉を弁護するようなものです」

 俺がそう言うと、彼女はゆっくりとかぶりを振った。そのはずみで、彼女の瞳から、きらりと透明な雫がこぼれ落ちる。

「あなたは、私のために話してくれたんでしょう? 私の心から、少しでも憎しみの感情が薄れるように、って」

「……っ」

「ありがとう。……やぁね。ほんと、妊婦って涙もろいわ」

 戸惑う俺を気遣うように、彼女はハンカチで目頭を押さえながら微笑む。

「自分でも、なんで泣いているのか分からないのよ。――だけど、今、とても穏やかな気分なの。だから、緋扇さんが謝ることなんてないわ」

「すみません……」

 再び謝ると、彼女は俺に向かって、できの悪い後輩を見る目で苦笑した。それから、自分の腹に目線を落とし、「あなたも、そう思うでしょう?」と、語りかける。

 ……ああ、家族――だ。

 物言わぬ胎児かもしれないが、彼女のそばには家族がいて、彼女と共に一喜一憂している。この温かさが『家族の原理』なのだろう。……きっと。

 そんなことを考えていると、出し抜けに、「それより――」と、彼女が切り出してきた。

「緋扇さん。あなた、ミンウェイさんという女性ひとのこと、好きでしょう?」

「はぁっ!?」

「たぶん、ミンウェイさんも、あなたが好きよ。相思相愛だわ」

「なっ……!」

 あまりの発言に、俺は面食らった。

 まったく、この女性ひとは藪から棒に、なんてことを言うのであろう?

可笑おかしなことを言わないでくださいよ」

 俺は軽く笑い飛ばす。……しかし、俺の声は上ずり、空回りしていた。

「私やローヤンに遠慮することはないわ。むしろ、ローヤンは大喜びのはずよ。他人を信じられなくなって、他人を拒むようになった孤独なあなたを、彼はずっと心配していたから」

「ちょっと勘弁してくださいよ。俺にとってミンウェイは、そんなんじゃないですよ」

「じゃあ、なんだというの?」

「――っ」

 詰め寄るような語勢に、俺の腰が引ける。

 問われて、脳裏に浮かぶのは、硝子の温室に置かれた、蔦模様のガーデンチェアー。その背もたれに、草の香りに包まれた、緩やかに波打つ黒髪が広がる。

 本当は弱いくせに、誰かのために懸命に強くなろうと前を向く姿が、とても綺麗だ。

「……そうですね。たぶん、『恩人』です。ミンウェイが、愚かしいまでのお人好しだったから、俺は先輩と肩を組んで、世直しをうたっていた日々を思い出すことができたんですよ」

「本当に、それだけかしら?」

 俺の答えは、彼女を満足させることはできなかったようで、彼女は上目遣いに俺を見上げる。

「残念ながら、それだけですよ」

 俺はわずかに口の端を上げ、彼女の家をあとにした。



 リュイセンは、自分のすべてと引き換えにしてでも、ミンウェイを守ろうとした。

 それは非常に不器用な愛で、決して褒められたものではなかったと思う。けれど、あいつの持つ、愚かしいほどの優しさは、愚かしいまでのお人好しのミンウェイにとって、必要なものだ。

『父親』の束縛も、四つ葉のクローバーの餓鬼を殺した自責の念からミンウェイが自らに掛けていた呪縛も、もはや消え失せた。

 だから、ミンウェイは、幸せを受け入れられる。

 リュイセンなら、彼女を幸せにできるだろう。


『ミンウェイに、穏やかな日常を……頼む』



 ……そう思っていた。――なのに、だ。



『私は、自分の幸せを、自分で掴むために来たの!』

『穏やかな日常を過ごしたければ、自分で努力すればいいだけでしょう?』


 すべてを捨てて俺のもとに来たミンウェイはそう言った。――そう言ってくれた。

 だったら、俺も認めるしかないだろう。


『なぁ、ミンウェイ。知っているか?』

『俺は、ずっと、あんたのことが好きだったのさ』



ムスカ〉の技術で、俺の怪我はあっという間に治り、ハオリュウとレイウェンさんの決闘を経て、摂政に一泡吹かせてやった。

 そうして、俺の逮捕から始まった一連の事件は幕を閉じ、俺とミンウェイは、ハオリュウに勧められるままに、住み込みの使用人として藤咲家に住み着いた。

 それから少し経った、ある日のこと――。



 俺のもとに、数箱の段ボール箱が届いた。警察隊の宿舎から回収した、俺の私物である。

 俺は、在職中に犯罪者として逮捕、死亡したことになっている。そんな悪辣な元隊員の部屋がいつまでも残されるわけはなく、速やかに片付け業者が呼ばれた。そして、私物は処分されるはずだった――のだが、ルイフォンがうまいこと業者に手を回してくれたのだ。

「緋扇さんの荷物って、これだけなの?」

 荷ほどきを手伝いに来てくれたのか、ただの興味本位だったのか。何かを期待していたらしいミンウェイが、落胆したような声を上げた。

「俺が物持ちに見えるか?」

「……そうね。殺風景な部屋のほうが、緋扇さんらしいわ」

 俺としては、むやみに物を買い集めるタイプに見えるか、という意味で言ったのだが、俺の部屋は殺風景だったのだと決めつけられてしまった。

 ……まぁ、否定はすまい。

 ほとんどが実用書の類で、あとは衣類が少々では、遊び心の欠片かけらもないだろう。

 本の入ったダンボール箱をミンウェイに任せ、俺は他の箱から目的の物を探す。

 ルイフォンから、俺の私物を手に入れられると聞いたとき、初めはそこまでしなくても、と断ろうかと思った。亡くした家族の写真なら電脳空間クラウド上にあったし、本はまた買い直せばすむ。俺の服なんざ、本気でどうでもいい。

 だが、『あるもの』だけは、替えがきかないことに気づいた。だから、ルイフォンの厚意に甘えたのだ。

 如何いかにも大切そうに抽斗ひきだしの奥にしまっておいたものだから、ルイフォンの指示を受けた業者が見落とすことはないだろうが……と、俺は期待と不安に胸を高鳴らせる。

 その背後で、本棚の前のミンウェイが「えっ」とか、「あらっ」とか、軽い驚きの声を上げているのが気恥ずかしい。『貴族シャトーアの礼儀作法』だの、『養蚕技術について』などという、ハオリュウの補佐をする気満々の本が、『警察隊時代の』部屋から送られてきたのだから仕方ないのであるが。

「あった……!」

 俺の口から、かすれた濁声だみごえが漏れた。自分で思っていたよりも、ずっと緊張していたらしい。

「え、何? 何があったの!?」

 草の香りと共に、飛びつくようにミンウェイが駆け寄ってきて、波打つ黒髪が、俺の頬をかすめる。

〈ベラドンナ〉の扮装をしたときには、生来の直毛に戻したミンウェイだが、『『なりたい自分』の象徴だから』と、今は再び、俺の見慣れた姿になっていた。

 どちらのミンウェイも甲乙をつけ難く美女であるから、俺としては、どちらでも良いと思う。……そもそも、外見見てくれに関しては、俺に意見を言う資格はないだろう。

「……?」

 俺の手元を覗き込んだミンウェイが、困惑顔で俺を見上げた。

「ローヤン先輩の結婚式の招待状だ」

「え……」

 半袖の腕に触れた髪が、ざわりと揺れ動く。それは、彼女の髪が波打っているからではなく、彼女の心が波立っているからだろう。

「……あんたには、何も話していなかったな」

 ぽつりと呟くと、ミンウェイは唐突に「そうよ!」と、柳眉を吊り上げた。

「緋扇さんは、自分のことを何も話してくれてないわ。……私、あなたのことを何も知らない。私が自分のことを話すばかりで、あなたは……!」

 つややかな黒髪が小刻みに震え、麗しの美声が儚く消えていく。

 そういえば、ミンウェイは、死んだ『父親』――オリジナルのヘイシャオについて、『一緒に暮らしていながらも、一緒に生きてはいなかった』と悔やんでいた。

 だから、なのだろう――この過剰なまでの反応は。

「悪かった」

 俺は、ミンウェイを抱き寄せる。

 他者ひととの接触ふれあいに脅えていた彼女だが、今は俺の手を怖がらないでいてくれる。

 他者ひととの交流ふれあいを拒んできた俺だが、今は彼女には自分のことを話したいと思う。



 彼女と一緒に、生きていきたいと思うから――……。



 先輩の婚約者だった女性ひとから招待状を受け取った経緯を話し、その女性ひとに〈ムスカ〉の最期を伝えた顛末を、ミンウェイに語った。

 お人好しで優しいミンウェイは、俺の予想通りに、途中から泣きながら聞いていた。それでも、最後には穏やかに笑ってくれた。

 そして――。

 真っ赤に目を腫らした彼女に、俺は告げる。

「ミンウェイ。俺の『家族』になってくれないか?」

「えっ!?」

 黒髪が波打ち、草の香が散り乱れた。

「海の見える丘、だったか? ちゃんと、〈ムスカ〉たちの墓に挨拶に行くからさ。『お嬢さんをください』ってな」

「緋扇……さん……! や、やだ、私がクーティエを羨ましく思っていたことに気づいていたの!?」

 ハオリュウが、レイウェンさんに決闘を申し込んだことを言っているのだろう。

 勿論、それもある。だが、そもそもミンウェイは夢想家ロマンチストなのだ。四つ葉のクローバーで封じた絵本の、一番大切にしていたページは、王子が姫に求婚するシーンなのだから。

「そういう挨拶も、家族になるための通過儀礼ぽくていいじゃねぇか」

「……!」 

自由民スーイラになった俺は、書類上の結婚はできない。――けど、俺は、あんたと家族になりたい。つまんねぇことや、どうでもいいことに、一緒に一喜一憂したい」

 親父の言っていた『家族の原理』とは、少し違うかもしれない。

 けれど、家族の数だけ原理があってよいはずだし、新しく作る家族には新しい原理が似合うだろう。ならば、俺はこの原理がいい。

「俺は、餓鬼のころに家族を亡くして、このまま一生、ひとりで生きていくと思っていた。それでいいと思っていた。でも今は、未来このさきをミンウェイと生きたい。――家族として」

 俺の腕の中で、ミンウェイが何度も何度も頷く。

 そのたびに、つややかな黒髪が波打ち、干した草の香りが広がる。

「私も……、緋扇さんの家族になりたい……」

 嗚咽の中から、無理矢理に声を絞り出し、ミンウェイは、すっと顔を上げた。

 切れ長の目には、まだ涙がたたえられていたけれど、大輪の華がほころぶようなあでやかさと、包み込むような穏やかさの同居した、綺麗な笑顔だった。

「ありがとう」

 俺は、彼女を抱きしめる。

 今まで空白だった胸を埋めるように。

「緋扇さん。私も、あなたのご両親と妹さんのお墓に、ご挨拶に行きたい……。――ああ、そうよ。私、あなたの家族のことも、何も知らないんだわ」

 急に思い出したように、ミンウェイが声を跳ねかせる。

「教えてほしいの。――亡くなったあなたの家族のこと。それから、家族を亡くしたあと、私と出逢うまでのあなたのこと。私、呆れるくらいに本当に、あなたのことを何も知らないんだから!」

 少し怒ったような、ねた美声が弾けた。

「なんでも話すさ。――ただ」

 唐突に言葉を切った俺に、ミンウェイが不安げに「ただ……?」と繰り返す。

「いい加減、『緋扇さん』は、やめてくれ」

 そうなのだ。ミンウェイは、あの監獄で、死刑囚に逢いにきた恋人として、一度だけ俺のことを『シュアン』と名前を呼んでくれた。だが、それきりなのだ。

「家族になるってのに、さすがにいつまでも『緋扇さん』は、俺だって傷つくぞ……」

「……あ。……そうね。そうよね。……ずっと、そう呼んできたから、……いきなり、なんか……恥ずかしいけど……」

 ミンウェイは、ごにょごにょと口ごもり、やがて、真っ赤な顔で、俺の耳元に囁いた。

「シュアン。――私もずっと、あなたのことが好きだったんだと思うわ」



 ――先輩。

 世界は不可逆で、失ったものは、二度と元には戻らない。

 悲しいけれど、それは不可逆の原理です。

 けど。

 また新しいものを作ることはできるのだと。

 それもまた、不可逆の原理なのだと。

 俺は信じます。


 ……先輩。

 俺は、ミンウェイと新しい家族を作ります。

 先輩の、家族との未来を奪っておきながら、すみません。


 俺は、ミンウェイと幸せになります。

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