6.硝子の華の情愛-2

 厨房を飛び出したミンウェイの足は、知らず、硝子の温室へと向かっていた。脇目も振らずに走り続け、気づいたときには、いつものガーデンチェアーに腰掛けている。

 チェアー二脚とテーブルとで鋳物三点セット。蔦の装飾模様が、この温室の雰囲気にぴったりだと思って購入を決めた、お気に入りの品である。

 肩で息をしていた彼女は、崩れ落ちるようにして、そろいのテーブルに突っ伏した。鋳鉄の天板がひやりと頬を冷やし、気持ちがよい……。

 無心で倒れ込んだが、実のところ、テーブルセットが木陰に配置されていたのは幸運だった。もし、硝子越しの陽光を蓄えた金属に触れていたら、彼女の肌に蔦模様の刻印がされていたことだろう。

 少しだけ落ち着くと、彼女は、のろのろと体を起こした。

 視界が広がる。

 そして。

 彼女の向かいに置かれた、もう一脚の椅子は……空席だった。



 昨晩、遅くに入ってきた、ルイフォンからの続報によれば、シュアンは無事であるそうだ。

 彼は、ハオリュウの枷にならないようにと、自ら牢獄の看守を挑発し、嬲り殺しの憂き目に遭おうとしていたという。けれど、摂政が止めに入ったことで、一命を取りとめた。これ以上、危害が加えられることはないらしい。

「馬鹿、でしょう……!」

 ミンウェイが吐き捨てた声には、嗚咽が混じっていた。

 全治数ヶ月の重傷を負って、どこが無事なものかと、彼女は思う。


『俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺がすべきことをすための、まっとうな道筋をな』


 菖蒲の庭園で、シュアンはそう語った。

 かつて、彼は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた。けれど、今は、不可逆の流れと正面から向き合っている。斜に構えているようでいて、どこまでも、まっすぐに。

 シュアンは、ハオリュウに人生を懸けると決めたのだ。

「……だからって、ハオリュウのためになら、命も惜しくない――って言うの!?」

 悲鳴のような叫びが、温室の硝子を震わせた。

 つやを欠いた黒髪を波打たせ、子供が駄々をこねるようにミンウェイは首を振る。

 ハオリュウも、ハオリュウだ。

 貴族シャトーアの当主である彼は、摂政に逆らうべきではない。摂政の要求は、鷹刀一族と『ライシェン』だと分かりきっているのだから、シュアンのために、さっさと鷹刀を売ればよいのだ。……なのに、〈天使〉になるだなんて言い出して、ルイフォンを困らせているという。

「緋扇さんも、ハオリュウも……、何よ……。……なんでよ」

 テーブルに肘を付き、頭を抱える。

 先ほどの厨房でのやり取り――料理長とチャオラウの不自然な会話の意図くらい、ミンウェイにだって分かっている。彼女をけしかけているのだ。

『緋扇が心配なのでしょう? だったら、鷹刀ここで気をもんでいないで、ルイフォン様のところに行けばよいんですよ。緋扇の現状をいち早く知ることができるはずですからね』

『ミンウェイ様も、緋扇も、互いに想い合っているのですから、遠慮することはありませんよ』――と。

「違うわ! なんでそうなるのよ!?」

 シュアンは友人――否。ミンウェイが一方的に助けてもらってばかりであるから、恩人だ。恩義ある相手を心配するのは、人として当然のことといえよう。多少、寝不足気味だからといって、おかしな妄想はやめてほしい。

「だいたい緋扇さんは、私のことなんか、からかい甲斐のある顔見知り程度にしか思っていないわよ」

 わずかに頬を膨らませ、彼女はうそぶく。

 彼との間にあるのは、恋愛感情ではない。彼は、そんなちっぽけな次元にいる人ではないのだ。

 そう思い、ミンウェイが唇を噛みしめたときのことだった。

 がさり、と。背後で、枝葉の揺れる音がした。

 この場所への通路は、大きく張り出した枝が、途中で邪魔をしている。だから、掻き分けなければ通れない。

 ――誰かが来たのだ。

 心臓が跳ね上がった。ミンウェイは無意識のうちに、無人の椅子に視線を走らせ、それから振り返る。

「……あ。――リュイセン……」

 すらりとした長身が、ミンウェイを見下ろしていた。短く、涼しげに整えた髪が顎のラインを鋭角に見せ、研ぎ澄まされたような印象を与える。……少し、苛立っているようにも感じられた。

「こんなところで待っていても、あいつは来ないぞ」

 ミンウェイの真横に立ち、リュイセンは黄金比の美貌を憮然と歪めた。

「いつもは、あいつが、ミンウェイを迎えに来た。けど、今度ばかりは、あいつは来ない。あいつが、囚われているからだ。――ミンウェイが、あいつを迎えにいく番だからだ」

 リュイセンは、困惑に揺れるミンウェイの瞳をまっすぐに捕らえる。

「緋扇シュアンを――な」

 魅惑の低音が、鋭く響いた。

「……なっ!? どうしてそうなるのよ!」

 一瞬、呆気にとられたのちに、ミンウェイの美声が裏返る。

 リュイセンまで、何を言っているのだろう?

 最終的には撤回したとはいえ、リュイセンは彼女に求婚までしており、何かと彼女にちょっかいを出してくるシュアンのことは、蛇蝎の如く嫌っていたはずだ。

 柳眉を吊り上げるミンウェイに、しかし、リュイセンは、変わらぬ調子で言を継ぐ。

「クーティエが言っていた」

「はぁっ!? なんで、いきなりクーティエの話になるのよ?」

 クーティエは、リュイセンの姪だ。以前は、『にぃのお嫁さんになる!』と公言していたくらいに仲が良いのだが、この場においては、あまりにも唐突な名前といえよう。

「いいから、黙って聞けよ!」

 突然、リュイセンが吠えた。

 彼がミンウェイに対して声を荒げるのは、非常に珍しいことで……だから、彼女は狼狽した。

「俺の話の切り出し方が下手なのは、いつものことだろう?」

 若き狼のように猛々しく、なおかつ、ふてぶてしいまでに王者の威厳に満ちた口調だった。台詞の内容は、今ひとつ情けないのだが、堂々たる風格は、補って余りある。

 いつもとは明らかに様子の違う彼に、ミンウェイは押し黙った。――気圧けおされたのだ。

「クーティエによると、〈ムスカ〉がファンルゥに用意した絵本は、か弱いお姫様が王子様に助けられる話ばかりだったそうだ。お転婆なファンルゥには、それが少し物足りなかったらしい」

「……」

「だって、そうだよな。ファンルゥの部屋は、かつてのミンウェイの部屋を再現したものだったんだから。――王子様の助けを待っている、お姫様の部屋だ」

 ミンウェイの頬が、かっと朱に染まった。

「小さな女の子が、お姫様に憧れるなんて、よくあることでしょ!」

「ああ、別におかしなことじゃない。夢見がちな、子供らしい憧れだ。可愛らしいと思うよ。――けど、ミンウェイは、今も変わってないだろう?」

「な、何が、変わっていないと言うの!?」

 語尾が震えた。理由は分かっている。その叫びが虚勢だからだ。

「緋扇のことを待っているんだろう?」

「変なことを言わないで! 私は、ここで考えごとをしていただけよ。私が、ひとりになりたいときに温室に行くのは、昔からの習慣だわ!」

「じゃあ、ひとりで何を考えていたんだ?」

 リュイセンの双眸が、彼の愛刀が如く、ひらりと斬り込んだ。

「……っ」

「誰のことを考えていたんだ?」

「そ、それは……、緋扇さんのことだけど……。でも、囚われた彼を心配するのは、当然でしょう? 緋扇さんは今、鷹刀のせいで辛い状況にあるのよ!」

「ならば何故、ミンウェイは引き籠もるんだ? 何故、行動を起こさない? 何故、あいつを助け出そうと考えない?」

 諭すような声が落とされ、ミンウェイは顔色を変えた。

「あいつは、何度も、何度も、しつこいくらいに繰り返し、ミンウェイを助けにきたはずだ」

 風ひとつない、無音の温室に、リュイセンの声だけが静かに響く。

「俺が、鷹刀とルイフォンを裏切って、メイシアをさらっていったときなんか、誰よりも早くミンウェイのもとへ駆けつけて、俺のことを『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』だと言ったそうじゃないか」

 その通りだ。

 ルイフォンさえもがリュイセンを見捨てようとしていたときに、ただひとり、シュアンだけがリュイセンを取り戻そうと説いた。

「初めて聞かされたとき、俺は信じられなかった。それまで俺があいつに取ってきた態度を考えれば、あいつは俺の肩なんか持ちたくなかったはずだからな」

 シュアンも、口では『リュイセンがいなくなって清々している』と言っていた。けれど、本気の言葉でなかったことは、明らかだった。

 ミンウェイの視線の先にある、その椅子に腰掛け、彼はおどけた調子で笑っていた。

 ――そうだ。

 ルイフォンから、ミンウェイが『母』のクローンだろうと告げられた夜も、彼は向かいの椅子に座っていた。いつの間にか、彼の特等席になっていたその場所で、取りとめもないミンウェイのひとり語りを、一晩中、黙って聞いてくれた……。

 切れ長の瞳を揺らすミンウェイに、リュイセンの声が誘うように尋ねる。

「〈ムスカ〉との決着のときも、ミンウェイと〈ムスカ〉が顔を合わせないままに終わりにしていいのかと、皆に問いかけたんだってな? あいつにとって、〈ムスカ〉は大恩ある先輩の仇だ。すぐにも、とどめを刺したかっただろうにさ」

 ミンウェイはうつむき、自分の胸元をぎゅっと握りしめる。

ムスカ〉に会うことで、自殺したヘイシャオの本心を知った。空回りしかできなかった、父への恋心に気づいた。

 ひとつの結末を迎え、未来これからを考えるようになった――。

「緋扇は、自分の感情を二の次にして、ミンウェイに手を差し伸べ続けてきた」

「……」

「あいつはさ、ミンウェイの『王子様』なんだよ。口は悪いし、性格はじ曲がっていて、ちっとも、王子なんてガラじゃねぇけどよ」

「――っ」

 草の香をまとった風が、鋭く吹き上げた。

 ミンウェイが、勢いよく顔を上げたのだ。

「そうよ……! 緋扇さんは、何度も助けてくれたの」

 ひび割れた声が、細く響く。

「私が散々、失礼なことを言っても、懲りずに、呆れたように笑いながら、何度でも……。……でも、違うの! 皆が思っているような関係じゃない。――私は、お姫様なんかじゃないし、緋扇さんも、お姫様に求愛する王子様じゃないのよ」

 声を震わせ、切なげに柳眉を下げたミンウェイが訴えかける。

 揺蕩たゆたい、漂う草の香を、リュイセンは静かに吸い込んだ。それまで、正面からミンウェイを捕らえていた双眸を、そっと伏せる。その表情かおは、まごうことなく柔らかな微笑だった。

「俺が、緋扇と最後に会ったのは、俺が次期総帥の任を引き受けると決まったときだ。あのとき、あいつはこう言った」

「え?」

 瞳をまたたかせるミンウェイに、リュイセンが告げる。


「『ミンウェイに、穏やかな日常を……頼む』」


 つやめくリュイセンの低音に、シュアンの濁声だみごえが重なって聞こえた。

「……どういう、意味……?」

「あのとき既に、緋扇はハオリュウにつくと決めていた。万一のときは、自分の身を捨てて、ハオリュウを守る覚悟をしていたんだ。だから、ミンウェイには、ミンウェイが望んでやまない『穏やかな日常を』と、祈ったんだ」

「!」

 ミンウェイの唇がわななき、それから、魂を裂くような叫びが放たれる。

「ほらね! 緋扇さんは、ちっとも私の王子様じゃないでしょう! ハオリュウを守る騎士になったんだわ!」

 ほんの一瞬、期待してしまった。

 リュイセンを牽制する言葉とか、皮肉げで喧嘩腰の台詞とか――そんなものを、シュアンは言ったのではないかと思ってしまった。

 落胆する自分に気づきそうになり、ミンウェイは慌てて思考を閉ざす。そのとき、「ミンウェイ!?」という、リュイセンの驚愕が耳朶を打った。

「本当に分かってねぇのかよ!? ミンウェイのことをなんとも思っていなかったら、こんな台詞、わざわざ『俺に』言わねぇんだよ! ……なんで、分かんねぇんだよ。俺の言い方がわりぃんかよ」

 短くなった髪をがしがしと掻き上げ、リュイセンがぼやく。

「あぁ、もう! ……別に、緋扇の気持ちなんかどうでもいい。問題は、ミンウェイの気持ちだ」

「な、何よ」

「ミンウェイは、お姫様じゃないんだろう? だったら、こんなところでおとなしく待っている必要はないはずだ。緋扇のことが気になるなら、何もかも捨てて、飛び出していけばいい」

「――なっ!? 何を言っているの!?」

 何もかも捨てて――とは、いったい……?

 ミンウェイは、にわかに混乱する。なのに、リュイセンは、彼女を更に追い詰めるかのように言葉を重ねる。

「ミンウェイは、メイシアに憧れていただろう? 貴族シャトーアのくせに、すべてを捨てて、ルイフォンのもとにやってきたメイシアのことをさ。――そんな生き方を、羨ましいと思っていただろう?」

「!」

「ミンウェイだって、身ひとつで進めばいいんだよ。諦めたり、我慢したりする必要はない」

「ふざけたことを言わないで! だいたい、『鷹刀は動くな』って、ルイフォンが……!」

 そう言ってミンウェイが抗議しかけたとき、彼女の声を打ち消すように、リュイセンの深みのある低音が響いた。

「鷹刀ミンウェイ」

 威圧的でありながらも柔らかに、名を呼ばれた。知れず、ミンウェイの背筋は伸び、切れ長の瞳がリュイセンを凝視する。


「鷹刀一族次期総帥、鷹刀リュイセンの名において、鷹刀ミンウェイを一族から永久に追放する」


 黄金比の美貌を閃かせ、リュイセンは告げた。

 軽く腰に手を当てた立ち姿は、すらりと凛々しく、朗々たる宣告は覇王の如く。

 ミンウェイは、しばし呆然とし、やがて、はっと我に返った。

「わ、私を追放!?」

「ああ」

「か、勝手なことを言わないで! お祖父様に――総帥に断りもなく、そんなことができるわけないでしょう!」

「総帥の許可なら、昨日の夜のうちに得ている。俺の――次期総帥の権限でもって、ミンウェイを追放して構わない、って」

「なっ!?」

 頭が真っ白になった。

「……だって、お祖父様は……鷹刀が私の居場所だ、って……ずっと……」

 寒いわけでもないのに、ミンウェイの体は、がくがくと震えてきた。恐慌状態といったほうが正しいかもしれない。

「ミンウェイ。俺は、鷹刀の次期総帥になったんだ。それだけの権力と――責任がある。一族の誰もを、ひとりひとりを、それぞれが望む幸福に導くという責任だ」

「な、なんの話?」

 声が上ずった。子供のころからよく知っているはずのリュイセンは、別人のように大人びていて、精悍な顔立ちには畏怖すら覚える。

「ミンウェイの居場所は、鷹刀じゃない。ミンウェイの幸せは、鷹刀ここにはない」

「そんなことないわ!」

「確かに、今までは、鷹刀はミンウェイの居場所だった。祖父上が、そう主張することで、『父親』との生活で傷ついていたミンウェイの心を守っていた。けど、『父親』との決着を付けた今、ミンウェイを鷹刀に縛る理由はないんだ」

「違うわ! 鷹刀は、これから緩やかな解散へと向かうの。そして、私には、最後の総帥となる、あなたを助けるという、大事な役目があるのよ!」

 拳を震わせるミンウェイを、リュイセンは泰然と受け止める。

「そうだな。そうなればいいと思っていた。――だから、そう言って、ミンウェイに求婚プロポーズした」

「――ならっ!」

「でも、それはミンウェイの意思じゃないだろう?」

 長身をかがめ、優しく落とされた声は、彼女を跳ねのける言葉であるのに、包み込むかのように柔らかい。

「俺の希望や、周りの期待に応えたくて、ミンウェイは、そうすべきだと思いこんでいるだけだ」

「違う!」

「ミンウェイは、お人好しで、遠慮ばかり、気遣いばかりだからな。……けどな、度を越したら、ただの八方美人なんだ」

ひどっ……!」

 まなじりを吊り上げるミンウェイに、リュイセンは「『もうひと押し』だ」と謎の呟きを漏らすと、すっと温室の外を示した。促されるままに視線を移し、ミンウェイは目を疑う。

「クーティエ!? ユイラン伯母様!?」

 ルイフォンと共に、シュアン救出の策を練っているはずのふたりが、硝子越しに手を振っていた。

 草薙家の住人のうち、鷹刀一族と絶縁状態にあるのは、実のところ、クーティエの両親であるレイウェンとシャンリーだけだ。夫婦の間に生まれたクーティエは、一族ではないものの、父方、母方、両方の祖父のいる屋敷への出入りを禁じられているわけではないし、ユイランに至っては、単に屋敷の外に引っ越しただけ、という扱いになっている。

 だから、ふたりが敷地内にいることは、決しておかしなことではない。

 しかし……。

「どういうこと!?」

 ミンウェイは、リュイセンに食らいつくように尋ねる。

「ルイフォンから連絡があった。『緋扇を助けるために、ミンウェイの力が必要だ』――と」

「!?」

 心臓が、大きく跳ね上がった。

 ルイフォンが何故、ミンウェイの力を必要としているのかと、疑問に思うと同時に、そんなことを訊いている場合ではないと、心が急き立てる。

 椅子の脚と地面とが奏でる摩擦音を聞きながら、リュイセンはゆっくりと告げる。

「クーティエは、ミンウェイを迎えに来たんだ。でも、母上は違う」

 強調を示すように、語尾のところで微妙に声色が変化した。

「鷹刀の屋敷に戻ってきてくださるよう、俺が、母上にお願い申し上げた」

「え?」

「俺がミンウェイを追放するからには、ミンウェイの代わりの総帥の補佐役が必要になる。だから、ミンウェイの前任者である母上に、再び頼むことにした。デザイナーの仕事と兼任で構わないと言ったら、快く引き受けてくださった」

「!」

 リュイセンは本気なのだ。

 本気で、ミンウェイを一族から追放しようとしている。

 単なる思いつきではない。未来このさきのことを、きちんと考えて行動している。

「ミンウェイ、選ぶんだ」

 決して荒々しくはないのに、地底から轟くような低い声が迫った。

「ミンウェイは、どうしたい? ――ミンウェイの気持ちは、どこにある?」

 硝子の反射を受けた陽光が、リュイセンの黒髪をつやめかせ、彫りの深い顔を際立たせた。

 柔らかな眼差しの中に、強さと高潔さを兼ね備え、限りないほどの優しさを持つ、一族を幸福へと導く――覇王。


『今すぐじゃないけど、俺は総帥になる。だから、そのとき――俺を補佐してほしい』


 十年ほど前、兄のレイウェンが屋敷を出た夜。この温室のそばで、リュイセンは言った。

 まだ子供の低い背で彼女を見上げながら、まだ子供の高い声で願ってきた。

 とても、月が綺麗な夜だった。

 握手を求めてきた手は小さかったけれど、あれは総帥の補佐という重役を任され、不安に脅えていた彼女を励まそうとしていたのだと、今なら分かる。――リュイセンは、昔から変わっていないのだから。

 ……彼女に求婚するよりもずっと前から、彼は、彼女と共に一族を率いていきたいと望んでいた――。

「リュイセン……! 私……!」

 喉がひりついて、声がかすれた。

 けれど、きちんと口に出して言わなければいけない。

 曖昧にしてきたままの答えを、目を背けていた思いを、今こそ、声という形にしなければならない。

 それが、長い長い星霜時間、待っていてくれたリュイセンへのけじめだ。


「緋扇さんを選びたい……!」


 リュイセンと共に、鷹刀で穏やかに日々を重ねていくのだと思っていた。

 そうすれば、誰もが幸せになれるのだと。

 なのに――。

 涙が頬の曲線を描き、顎先から散り落ちていく。まるで、硝子の華が花開くかのように、煌めきを放ちながら。

「ミンウェイ」

 椅子から立ち上がっても、リュイセンの顔は、ミンウェイよりも遥かに上にあった。血族そのものの容貌を持ちながら、彼だけの優しさを持つ面差しを、彼女は瞳に焼きつける。

「追放しても、ミンウェイは俺の大切な家族だよ。兄上や義姉上あねうえと同じだ」

「リュイ……セン……!」

 草の香を震わせるミンウェイに微笑みかけ、そして、リュイセンは――鷹刀一族次期総帥は告げる。

「鷹刀一族次期総帥、鷹刀リュイセンの名において、鷹刀ミンウェイを一族から永久に追放する」

「了承――いたしました」

 ミンウェイは、深々とこうべを垂れた。

 この瞬間、彼女は一族の庇護を失った。言い知れぬ不安が胸に押し寄せ、彼女は自分の体を掻きいだく。

 脅えている自分に戸惑い、懸命に奮い立たせていると、頭上から「ミンウェイ」と、魅惑の低音が降りてきた。

「俺は、一族の者たちを幸福へと導く。けど、ミンウェイはたった今、一族ではなくなったから、俺はもう、この手でミンウェイを幸せにすることはできない」

「……」

「だから、ミンウェイは、自分の手で幸せを掴むんだ。――大丈夫だ。だって、ミンウェイは、待っているだけのお姫様じゃないんだからさ」

 ミンウェイは、はっと顔を上げた。

 視界に映ったリュイセンの美貌は、とても満ち足りたような、穏やかなもので――。

「ミンウェイ、幸せになれ」

「!」

 刹那。

 ミンウェイの脳裏に、寄せては返す波のような、優しい低音が響き渡った。


『ミンウェイ、幸せにおなり……』


 菖蒲の庭園で、〈ムスカ〉が最期に口にした言葉。

 同じ血を持つリュイセンの顔が〈ムスカ〉の微笑みと重なり、〈ムスカ〉の声と交わる。記憶の底に沈みかけていた『父親ヘイシャオ』の今際いまわの姿が浮かび上がり、すべてが混ざり合っていく。

ムスカ〉との永久とこしえの別れのあと、ミンウェイは八つ当たりのように叫んだ。

『『幸せにおなり』って、『自分では、私のことを幸せにするつもりはない』ってことよ!? 私に『ひとりで勝手に幸せになれ』って』

 自分は何故、あんなに怒ったのだろう?

 幸せは、与えられるのを待っているものではない。

 自分で、掴み取るものだ。――リュイセンが今、そう教えてくれた。

 ミンウェイの内部で、『父』の遺言が意味を変えていく。

 あの言葉は、ミンウェイの未来への祝福なのだ、と。


『ミンウェイ、自分の手で、幸せを掴み取るんだ』


「リュイセン、ありがとう」

 指先で涙を弾き、ミンウェイはあでやかな華のように笑う。

 そして、彼女は、硝子の城から未来に向かって走り出した。

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