3.闇夜の凶報-1

 時は、少し遡る――。



 空を覆う雲に、月も星も閉ざされ、天から深淵の闇が襲いかかってくる。

 まるで漆黒の奈落に呑み込まれたような、幽寂な夜であった。

 その日も、ルイフォンは、草薙家に厄介になって以降の夜の日課である、主要機関の情勢調査クラッキングを行っていた。遠隔から張りぼてのほうの〈ケルベロス〉を操作し、王宮や神殿、その他の企業や団体、組織の情報網ネットワークを巡回するのである。

 そして――。

「メイシア!」

 その情報を目にした瞬間、彼は思わず、両手を机に叩きつけるようにして立ち上がった。座っていた回転椅子が、後方へと押し出され、勢いよく滑っていく。

 ルイフォンのただならぬ叫びに、ユイランに習った刺繍の練習をしていたメイシアは、危うく指先に針を刺しそうになった。けれども、聡明な彼女は、即座に非常事態を理解し、「どうしたの!?」と、ソファーから駆け寄る。

「シュアンが逮捕された。罪状は、厳月家の先代当主の暗殺だ」

 黒曜石の瞳を見開き、メイシアが息を呑む。

 それは、冤罪などではなく、真実だった。

 メイシアの異母弟ハオリュウが、父親の仇として、緋扇シュアンに暗殺を依頼したのだ。

「ル……、ルイフォン……。平民バイスアが、貴族シャトーアを殺したら……極刑は免れない……」

 薄紅の唇が色を失い、わななく。

「ああ」

「ハオリュウに連絡しないと……!」

「頼んだ。俺は、もっと詳しい情報を集める」

 携帯端末へと急ぐメイシアの背中に声を掛け、ルイフォンはキーボードに指を走らせた。

 シュアンの逮捕は、あまりにも唐突だ。必ず事情ウラがある。

 ルイフォンは、王宮と警察隊の深部、それからシュアンが捕らわれているであろう監獄への侵入クラッキングを開始する。それと並行して、鷹刀一族総帥たる父イーレオに、現状を伝えるメッセージを暗号化して送った。電脳世界の情報屋〈フェレース〉には手を出せない、電子化されていない情報を得るため、王国一の凶賊ダリジィンの情報網に助力を願おうと思ったのだ。

 イーレオは総帥という立場上、懇意にしているからといって、おいそれとシュアンのために私情で動くわけにはいかない。だが、鷹刀一族とシュアンは、以前、情報交換の約束を交わしている。だから、スジが通る。シュアンのために協力を仰ぐことは、なんら問題はないはずだ。

 しかし同時に、鷹刀一族は現在、水面下で摂政と牽制し合っている。摂政としては、隙あらば、鷹刀一族の勢力を削ぎにかかりたいところだろう。暗殺犯シュアンとの親交を理由に、殺害に加担したと言いがかりをつけ、総帥イーレオ逮捕などという可能性もあり得る。

「……」

 今の鷹刀一族に、犯罪ダークサイドへの関与は命取りだ。メッセージは送ってしまったが、手を借りるべきではないかもしれない……。

 ルイフォンは渋面を作り、そこで、はっと気づいた。

「だから――なのか……?」

 押し殺したような声で呟く。

「このタイミングでの逮捕……、黒幕は摂政なのか……?」

 摂政は、鷹刀一族の屋敷を家宅捜索し、エルファンに事情聴取を行った。しかし、なんの成果も得られなかった。

『だから』

 シュアンを逮捕させた?

 彼の命を、駆け引きの材料にするために……?

 摂政なら、鷹刀一族とシュアンがよしみを結んでいることくらい、とっくに調べがついているだろう。シュアンを利用することを考えたとしても、おかしくない。

 猫の目が細まり、無機質な〈フェレース〉の顔に変わっていく。

 ルイフォンは思索の海へと、身を沈めかけた。しかし、途中で「ハオリュウ!」という、絹を裂くような叫びに遮られた。

「ハオリュウ? 大丈夫!? しっかりして!」

 声に引き寄せられるようにして振り向けば、メイシアが蒼白な顔で携帯端末を握りしめていた。

 無理もない。シュアンの逮捕にどんな事情ウラがあったとしても、直接の原因はハオリュウの暗殺依頼だ。ハオリュウが衝撃を受けるのは当然で、凶報を告げたメイシアもまた、平静でいられるわけがないだろう。

 ルイフォンは彼女のそばへ寄り、華奢な肩を抱き寄せた。黒絹の髪をくしゃりと撫でて、そっと携帯端末を取り上げる。小さく「あっ」と声を上げた彼女が、彼の手元を目で追ってきたが、彼は構わず、送話口に向かって呼びかけた。

「ハオリュウ」

『……ルイフォン?』

「ああ。今、メイシアと電話を替わった」

 心持ち、ゆっくりとした口調で、落ち着けという思いを込めて語りかける。すると、わずかに乱れた息遣いのあとに、明瞭な声が続いた。

『驚かせて、すみません。その……、携帯端末を取り落しただけです』

 明らかに取り繕ったような様子だった。だが、きちんとした受け答えが返ってきたことに、ルイフォンは、ひとまず安堵した。正直なところ、手に負えないような恐慌状態に陥っていたら、離れた場所からでは途方に暮れるしかなかった。さすがはハオリュウ、といったところか。

「大丈夫か?」

『……大丈夫、とは言い難いですが、ここで僕が取り乱しても仕方ありません。……僕ができることを……これから考えます』

 思いつめたような雰囲気に、ルイフォンは唇を噛む。けれど、努めて無感情に、あちこちに情報収集の手を回していることや、鷹刀一族の協力は得られないかもしれないことなどを伝えた。

 それでも、ルイフォンとメイシアはハオリュウの味方であり、必ずシュアンを助けると宣言したときだった。

『……すみません。大変、申し訳ないのですが、頭が回っていないので、今は、これで通話を切らせてください。……ひとりで考えたいのです』

 柔らかな響きでありながら、きっぱりとした――拒絶。

「ハオリュウ……」

 ――しまった。焦りすぎたか……。

 ルイフォンは、癖の強い前髪をがりがりと掻き上げる。

 迅速に行動すべきだと思って、気がはやっていた。ハオリュウにしてみれば、寝耳に水の事態だ。まだ混乱の只中ただなかなのだろう。少し、そっとしておくべきだ。

「分かった。俺は、これからまた情報を集めるから、その結果を明日、報告する」

 ルイフォンは、さっと話を切り上げた。それから、傍らで耳をそばだてていたメイシアに携帯端末を返し、『終話にする前に、ひとことくらい話したいだろう?』と、目で伝える。

 彼女は励ましの言葉を幾つか口にして、名残惜しそうに通話を切った。バックライトが消えて真っ黒になった画面には、涙をこらえているかのような彼女の顔が映る。

「メイシア」

 ルイフォンは彼女を抱きしめた。それに応えるように、彼女も彼の背に腕を回す。空調を効かせすぎていたのだろうか。夏場なのに、互いの体温が愛おしい。

「まだ、状況は読みきれてねぇし、どうすりゃいいのかなんて、まるで分かっちゃいねぇ。……けど、シュアンは絶対に助ける」

 メイシアの耳元に、静かなテノールを落とす。同意するように、腕の力を強めてきた彼女に、彼は言葉を重ねた。

「ハオリュウのため、ってだけじゃない。俺が、シュアンを失いたくないからだ」

「うん。緋扇さんがいなくなるなんて、駄目……」

 涙混じりの細い声で、メイシアが頷く。

 ハオリュウが衝撃から立ち直るまでの間に、できる限りのことをしておこう。――そう考え、機械類のところへ戻ろうとしたときだった。ルイフォンを引き止めるように、メイシアが彼の服の端を握りしめた。

「メイシア?」

「ルイフォン……。ハオリュウは何か隠している」

 凛と澄んだ、迷いのない声だった。彼女は、すっと顔を上げ、まっすぐにルイフォンを見つめる。

「さっきのハオリュウの態度、おかしいと思うの」

「え……」

 にわかには彼女の弁を信じられず、ルイフォンは声を詰まらせた。

 電話越しのハオリュウは、驚きながらも冷静さを失わない、いつもの彼に思えた。しかし、ずっと共に暮らしてきた異母姉あねにとっては違ったのだろうか?

 彼女の意味するところを知りたくて、彼は戸惑うように問う。

「動揺しているところを見せるのは矜持プライドが許さないとかで、早々に電話を切ったんじゃないのか……?」

「違う!」

 思わず、といった感じの強い調子で答えてから、メイシアは慌てて「ごめんなさい」と付け加えた。

「ハオリュウの性格からすると、緋扇さんの逮捕は『何ものにも代えがたい、大切な人を奪われた』になるの。だから、ハオリュウはまず、怒るはず。それも、かなり激しく。――でも、さっきのハオリュウは……」

 綺麗な顔を悲壮に歪め、メイシアは声を引きつらせる。

「怒りじゃなかった。どこか、脅えているような感じがした……」

「ハオリュウが……脅えている……?」

 反射的に出た声は、無意識のうちに、かすれていた。

 狼狽するルイフォンに、彼の服の端を握りしめていたメイシアの震えが伝わる。彼女の唇は色を失い、……しかし、黒曜石の瞳が知的に煌めいた。

「ハオリュウには、何か心当たりがあるの。……たぶん、何者かに脅されている」

「なっ!?」

 ルイフォンは驚愕に眉を跳ね上げた。やはり、摂政が――そう言おうとしたとき、彼を上回る勢いで、メイシアが「でもっ」と、鋭く畳み掛ける。

「あの子は、素直に脅迫に従うような子じゃない! 必ず、牙をむく」

 唇を噛み締め、彼女は声を震わせる。

「嫌な予感がするの。あの子、とんでもないことをする気がする。誰にも何も言わず、黙ってひとりで……。誰かに言えば、止められるような、そんなことを……」

 耳朶を打つ細い声に、ルイフォンの心臓は早鐘のように鳴り始めた。

 かつてハオリュウは、〈影〉にされてしまった父をひとりで葬ろうとした。最愛の異母姉あねには何も知らせずに、たった十二歳の双肩に、すべてを背負って……。

「そんな……。いくらなんでも、考えすぎだろ……?」

「うん……。私の考えすぎなら、そのほうがずっといい……」

 メイシアは、まるで泣き笑いのような顔で答えると、不意にルイフォンの胸に飛び込んできた。抱きとめた華奢な体は、崩れ落ちそうなほどにたおやかで。シャツ越しに掛かる吐息は、苦しげに熱い。

「あの子、無茶ばかりなの……! 見栄っ張りで、意地っ張りで、ちっとも頼ってくれない。何もかも、全部ひとりで抱え込んで……!」

「メイシア……」

 背中を抱き寄せれば、半袖の腕の上を、黒絹の髪がさらさらと流れてきた。滑らかな感触は心地良いが、今はそれが彼女の涙のようで、ルイフォンは流れを止めるべく指先を絡める。それから、逆流させるかのようにき上げ、くしゃりと撫でた。

「……要は、俺が『シュアンを助けるための名案』を思いつけばいいだけだろ?」

 ゆったりとしたテノールに好戦的な響きを載せて、ルイフォンは、にやりと嗤った。

「もし、ハオリュウが本当に『とんでもないこと』を始めようとしていたとしても、俺の案のほうが良ければ乗り換えるはずだ。――誰にも言わず、黙ってやらなきゃならねぇようなことなんて、ろくなもんじゃねぇ。そんな愚策、俺の義弟おとうとには選ばせねぇよ」

「ルイ……フォン……?」

 当惑の息遣いが、ルイフォンの胸元を揺らした。彼は、すっと目を細め、得意げに告げる。

「まだ情報が足りないから、誰に対して、どんな駆け引きが成立するのかは未知数だ。けど、最悪でも『脱獄』という手段がある。監獄の見取り図なら、もう手に入れたしな」

「――!」

 メイシアが息を呑み、ぱっと顔を上げた。

 地図を手に入れることなど、ルイフォン――〈フェレース〉にとっては片手間の作業であろう。

 しかし、シュアンの逮捕を知ってから、まだほんの十数分。なのに、救助に向けての第一の手を、既に打ち終えていることに驚嘆したのだ。

 ――まさに『魔術師ウィザード』だと。

「『脱獄』だと、シュアンがお尋ね者になっちまうから、結局、その場しのぎの解決策だ。できれば使いたくない。――けど、他の方法だって、俺なら、これから幾らでも思いつくさ」

 自分に任せろと、ルイフォンは傲然と言い切る。彼の口の端が、ぐっと上がっていくのと、メイシアの顔が、ふわりとほころんでいくのは、ちょうど同じ速度だった。

「ルイフォン、ありがとう!」

 最愛のメイシアの、絶対の信頼に、ルイフォンはがらにもなく、ほんの少し照れた。

「ともかく、情報収集だ。明日の朝一番に、ハオリュウに報告するぞ」

 彼が、そう言ったときだった。

「ちょ、ちょっと、ルイフォン、メイシア!」

 夜にも関わらず、金切り声に近い高音が響き渡り、部屋の扉が連打でノックされる。

「待ちなさいよ! なんで、『明日になったら』なのよ! 今すぐ、ハオリュウのもとに駆けつけるべきでしょう!?」

 がたがたと揺れる扉の向こうの声は、草薙家この家の一人娘、クーティエのものだった。

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