1.真白き夜更け-2
「セレイエさんは『ライシェン』に、愛し、愛される、幸せな世界を贈りたかったの」
メイシアの声を借り、セレイエの願いが唱えられた。
窓からの涼風が薄いカーテンを揺らし、差し込んできた白い月明かりが、セレイエの祈りを包み込む。我が子の幸せを望む愛情が、淡い光に溶けていく。
「セレイエさんは、本物の愛、真実の愛で『ライシェン』を迎えてあげたかった。だから、養父母にと選んだ私たちのことは、ただ出逢いを仕組んだだけで、心を操るようなことはしなかったの」
「そう……か」
ルイフォンは、忘れかけていた出来ごとを思い出す。
以前〈
「――なるほどな」
もはや気にも留めていなかったことだが、やはり、どこかすっきりした。
「異父弟のルイフォンと、ヤンイェン殿下の
「滅茶苦茶な理屈だな」
思わずそう口走り、だが結局はセレイエの思惑通りになったわけで……、ルイフォンは憮然として押し黙る。
「でもね、期待通りに私たちが恋仲にならなくても、私たちなら『ライシェン』に愛のある環境を与えてくれるって、セレイエさんは疑っていなかった。『ライシェン』が幸せなら、細かいことは気にしないって。……セレイエさん、ちょっとルイフォンに似ている」
メイシアが、くすりと笑いながら言う。けれど、その語尾は不自然に崩れ、涙声となって消えた。
「どうした?」
「ルイフォン……」
メイシアの声が、彼女のものとは思えぬほどに低く響いた。
ルイフォンは黒絹の髪に指を絡め、何を打ち明けても大丈夫だと示す。
「昼間、〈
「……ああ」
ずっと、そんな気がしていた。
あの異父姉が生きているのなら、自分の作った『デヴァイン・シンフォニア
「早く言わなきゃ、って思っていたけど、彼女が亡くなった原因が〈
「〈
意外な名前に、ルイフォンは顔色を変えた。
セレイエは、てっきり王宮の関係者に殺されたとばかり思っていたのだ。
「〈
「あ、ああ……?」
だが、それがセレイエとどう関係するのだ? と、ルイフォンは眉を寄せる。
「セレイエさんは、〈
ルイフォンは、はっと息を呑んだ。
「そうか……。『ライシェン』を生き返らせるためには、新しい『肉体』と、オリジナルの『記憶』が必要――赤ん坊にだって、ちゃんと記憶はあるはずだからな」
『肉体』だけだったら、それはクローンであって、『ライシェンを生き返らせた』ことにはならない。少なくとも、セレイエなら、そう考えるはずだ。
「セレイエさんは、広大な砂漠の中から一粒の砂を見つけ出すような無茶をした――〈
「そういうことか……」
ルイフォンの呟きに、メイシアの声が「うん」と沈む。
「熱暴走が止まらなくなることは、初めから計算できていたの。ライシェンの記憶を手に入れれば自分は死ぬって、セレイエさんは知っていた。それで構わない。むしろ、死者の蘇生なんて、そのくらいの代償がなければ、やってはいけない『罪』だって」
メイシアは、ルイフォンの服をぎゅっと握りしめた。「あのね……」という呼びかけの声が、弱々しく揺らぐ。だから彼は、黙って彼女を抱きしめる。
「〈
「……え?」
「だって、セレイエさんの『記憶』なら、ホンシュアが持っているんだもの、『肉体』と『記憶』が
「!」
その通りだ。
しかし、セレイエは……?
目を見開いたルイフォンに、メイシアが頷く。
「でも、セレイエさんは、自分が生き返ることを望まなかった。だって、それは『罪』だと、彼女はちゃんと分かっていたから。――それでもっ」
メイシアが、ぐっと顔を上げた。
潤んだ瞳で、けれど、毅然とした眼差しで、彼女は告げる。
「自分の命をひとつ捧げるから、『ライシェン』の命をひとつ与えてほしい。……ううん、手に入れてみせる――って、彼女は笑って〈
メイシアの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「セレイエの奴……!」
ルイフォンは奥歯を噛みしめる。
母親そっくりの、とんでもない異父姉だが、血を分けた
なのに……。
――否、だからこそ……。
「子供のために、笑って命を捧げた――だと……!」
押し殺した声で、うなるようにルイフォンは漏らす。それは徐々に大きくなり、やがて悲痛の叫びとなった。
「そっくり同じことを、俺たちの母さんもしたんだぞ……! お前のために! セレイエ!」
ルイフォンの咆哮が、白い月夜に
詳しい事情は分からない。
けれど、間違いない。
母のキリファは、セレイエのために、自分の脳を使って有機コンピュータ〈スー〉を完成させた。
「ふざけんなよ……!」
母の最期を、ルイフォンは覚えている。〈天使〉の母に消されるはずだった記憶を、彼は強い意志の力で手放さなかった。
――母は、誇らしげに笑っていた。
ルイフォンの瞳に焼きついているその顔と、〈
そっくり同じ
「ルイフォン……」
メイシアの手が彼を掻き
彼の背で一本に編まれた髪が揺れ、毛先を飾る金の鈴が月光を弾いた。
白い月が傾きを変え、夏の虫たちが歌い手を交代していく。
ルイフォンとメイシアは、どちらからともなく顔を上げ、互いを見つめ合った。
「ごめんなさい。話が、ぐちゃぐちゃになっちゃった」
明らかに無理やりであったが、メイシアが、ふわりと柔らかに笑う。
「ちゃんと、筋道を立てて話さなきゃね。『デヴァイン・シンフォニア
「ああ。頼む。教えてくれ」
メイシアの心遣いに感謝し、笑顔のぎこちなさには気づかないふりだ。
どんなことが語られても泰然と受け止めよう、そう思った矢先、彼女の顔がにわかに改まり、緊張と……困惑のようなものが入り混じった。
「メイシア?」
「セレイエさんは、〈
「……は?」
理解できない。
「ええと、ね。『ライシェン』が生まれるまでの間、セレイエさんが手に入れたオリジナルのライシェンの『記憶』は、どこかに保管しておく必要がある、というのは……分かるかしら?」
「それならば分かる。『
「うん。そんな感じ」
ルイフォンらしい解釈の仕方に、メイシアは苦笑しながらも同意する。
「『記憶』とは脳に刻まれるものだから、『記憶』を保管できる場所とは、すなわち『人間の脳』。――ほら、〈
「あ、ああ……、そう……だよな?」
ゆっくりと咀嚼するように、けれど、すぐには呑み込めずに、ルイフォンは曖昧に相槌を打つ。
「でも、『誰かの脳』に、ライシェンの記憶を書き込んだら、その人はライシェンの〈影〉になってしまう」
メイシアの声が硬さを帯びた。
「そもそも、セレイエさんが、どうやってライシェンの記憶を集めたかというと……」
彼女は説明に悩むように口ごもり、それから、細い声を響かせる。
「〈
「そんなことをすれば、セレイエが、ライシェンの〈影〉になるんじゃ……?」
訝しげに問うたルイフォンに、メイシアは、すかさず「ええとね」と受けた。
「セレイエさんはキリファさんの子供で、わずかながらだけど
メイシアは、上手く伝わっているかを確認するように、不安げな目でルイフォンを見上げた。彼は納得したと、深く頷く。
「お前がセレイエの記憶を持っていても、お前のままでいるのと同じ理屈だな?」
「うん、そう」
メイシアの顔が少しだけ、ほころぶ。
「――そして」
黒曜石の瞳が、まっすぐにルイフォンを捉えた。
反射的に、彼の猫背が伸びる。
「セレイエさんと同じく、キリファさんの子供であるルイフォンも、普通の人よりも脳の
「――!」
理解した……理屈は。
だからといって、感情がついていかない。
「嘘……だろ? 俺の脳に、ライシェンの記憶……?」
いくらメイシアの弁でも、にわかには信じがたい。しかし、メイシアが、遠慮がちに水を向ける。
「キリファさんが亡くなったあと、ひとりになってしまったルイフォンは、しばらくの間、シャオリエさんのところにご厄介になっていたでしょう? そこに、セレイエさんが訪ねてきたことがあった……」
「!」
猫の目が見開かれた。
そうだ。
ルイフォンの記憶にはないが、世話をしてくれていた少女娼婦スーリンが、セレイエの来訪を証言している。しかもスーリンは、セレイエの〈天使〉姿を目撃しているのだ。
「あのとき……、セレイエは、俺の脳にライシェンの記憶を書き込みに来たのか……」
解けていく謎に愕然としていると、メイシアの言葉が更に続いた。
「しかも、ルイフォンの中に書き込まれた記憶は、ただの
「俺から『善悪』を学ぶだって……? 俺の価値基準に何を期待……」
軽口を叩きかけ、はっと気づく。
「――オリジナルは、人を殺したんだったな」
「新しく作られる『ライシェン』の肉体の目が見えたとしても、〈神の御子〉の力が消える保証はない。だから、その場合でも同じ悲劇を繰り返さないように、セレイエさんはルイフォンを教育係にしたの」
「セレイエの奴……、やりたい放題だな」
ルイフォンは渋面になる。――わずかな懐かしさを含ませながら。
緻密で
「それからね」
感傷めいたものに浸っていると、メイシアが彼の顔を窺いながら、そっと口を開いた。
「私が『お守り』だと信じていたペンダント――セレイエさんが、スーリンさんに『目印』だと言ったあれは、『ルイフォンの中にいる、ライシェン』に、迎えにきたことを教えるための『目印』だったの。姿は変わっていても、『目印』を持った人の中にセレイエさんがいるから安心して、って」
その瞬間。
ルイフォンの脳裏に、さらさらとした鎖の感触が浮かび上がった。それから流れるような、金属の響き合う音。
「メイシアのペンダント……、俺は『見たことがある』と感じた」
ぽつりと呟き、「違うな」と首を振る。
「――『見て』はいないんだ。盲目のライシェンが触って、金属のこすれる音を聞いて『知っていた』。その『記憶』を、俺は持っていたんだ……」
ホンシュアに会ったとき、ルイフォンは彼女を『母さん』と呼んだ。あれは、彼の中にいるライシェンの言葉だったのだ。
「あのペンダントは、ヤンイェン殿下がセレイエさんに贈ったものなの。彼女はいつも身につけていて、ライシェンは抱っこのときに、よく触っていたの」
メイシアが自分の胸元に手をやる。ペンダントに触れるときの仕草だ。
彼女は『ペンダントを握りしめると、安心する』と言っていた。セレイエの〈影〉であったホンシュアに、そう思い込まされたのだ。
そんな癖があれば、
やたらと触っていれば、ルイフォンは嫌でもペンダントに注目する。すなわち、『ルイフォンの中にいる、ライシェン』が『目印』に気づく――という構図だったのだ。
持っていると狙われる、危険な『目印』だと思い、預かってしまったのだが、彼こそが――正確には『彼の中のライシェン』こそが、『目印』に気づくべき対象者であったとは、なんとも滑稽な話である。
「ルイフォン」
ペンダントに関する考察に意識を飛ばしていたルイフォンは、メイシアの声に我に返った。
彼女は、悲壮にも見える深刻な顔をしていた。
「今まで話したことが、セレイエさんがしてきたこと――
彼女は逡巡に言葉を詰まらせ、けれど、思い切ったように顔を上げると、澄んだ声を響かせた。
「セレイエさんの……本当の最期の
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