3.菖蒲の館で叶う抱擁-1

 自分の言いたいことだけを告げて、〈ムスカ〉は一方的に通話を切った。あとには、無機質な終話の電子音だけが、虚しくスピーカーに残される。

「……いったい、なんだよ……?」

 かすれた声で、ルイフォンは呟いた。

ムスカ〉は、これから庭園の門を封鎖するという。

 それはすなわち、中にいる仲間たちが脱出できなくなったことを意味する。

 けれど代わりに、ルイフォンたちが菖蒲の館に招待された。

「……」

ムスカ〉はリュイセンに下り、主導権はこちらにあるはずだった。

 なのに、気づけば〈ムスカ〉の掌の上で踊らされている。

「『最高の終幕フィナーレ』だと……?」

 まったく想像もしていなかった方向へと転がり始めた事態に、しばし呆然としていたルイフォンだったが、突如、かっと猫の目を見開いた。

「ふざけんな!」

 怒号を放ち、握りしめていた受話器を叩きつけるようにしてテーブルの上の電話器に戻した。そして、メイシアと回線を繋げている自分の携帯端末を掴み取る。

「メイシア、聞こえていたか?」

『うんっ……』

 返ってきたのは、緊張に震えた、けれど、喜びを隠しきれない声。

ムスカ〉の腹に一物いちもつあるのは分かりきっている。けれど、ルイフォンは〈ムスカ〉の誘いに応じる。

 だから、ルイフォンに逢える――そのことが嬉しくてたまらないという想いを、彼に伝えてくれている。

「お前を迎えに行く!」

 ルイフォンだって、想いは同じだ。

 やっと、この手で、メイシアを抱きしめることができる――!

「罠だろうがなんだろうが、〈ムスカ〉のほうからお前のところに行くように言ったんだ。乗らない手はない。待っていろ!」

 そのまま出発の準備を始めるべく、扉に向かって歩き出そうとしたときだった。

「おい、〈フェレース〉」

 つやのある、魅惑の低音。決して大声でもなく、荒々しくもないのだが、威厳に満ちた声がルイフォンの足を止めさせた。

「親父? ……あ、『鷹刀の総帥』」

 父イーレオが、ルイフォンを『〈フェレース〉』の名で呼ぶときには、それなりの意味があるのだ。彼は襟を正し、向き直る。

「鷹刀は、〈フェレース〉に指揮権を預けた。ならば、きちんと指示を出してもらわないと困る。お前とミンウェイがくだんの館に行くことは自明としても、他はどうするつもりだ?」

 秀でた額に皺を寄せ、イーレオは渋面を作る。だが、片肘を付いた頬杖の姿勢は相変わらずで、眼鏡の奥の瞳には浮かれた色が見え隠れしていた。この事態を楽しんでいるのだ。

 そこへすかさず、妙にかんに障る声が割り込んだ。

「俺も行かせてもらうぜ」

 にやりと口角を上げた悪人面。言わずもがなのシュアンである。

「〈ムスカ〉の野郎が、殊勝にも敗北を宣言したと聞いたとき、俺は耳を疑った。――騙されるものか、と思った」

 そこで彼は、ほんの少し言葉を切り、真顔になる。

「……だが、メイシア嬢の話が出てきてからは、〈ムスカ〉の言動が確信犯的なものに変わった。――凶賊ダリジィンの持つ、一種独特なイカれた使命感のような臭いのする、な」

「……」

 あのとき、〈ムスカ〉のまとう雰囲気が変わったのは、ルイフォンも感じた。だが、ルイフォンとしては、メイシアに固執する〈ムスカ〉は不快でしかない。

 ルイフォンの目がとがったことはシュアンも気づいたであろう。しかし、彼の調子は変わらなかった。

「実のところ、俺は、あの野郎が本当はどんな奴なのかを知らない。俺が知っているのは、先輩や、ハオリュウとメイシア嬢の父親を〈影〉にして、ただの駒として扱った奴だ、ってことだけだ」

 シュアンは奥歯を噛み締め、血色の悪い不健康な顔を歪める。

「俺は、奴に恨みがある。断じて、許しはしない」

 凶相が凄みを増した。それを隠すかのように、特徴的な三白眼が静かに伏せられる。

 そして、「だが……」と続けた。『狂犬』と呼ばれる者とは思えぬような、理知的な声で。

「奴は決して、愉快犯というわけではない。奴は必要だと思ったから、先輩たちを駒にした。――俺と同じ……、引き金を引ける奴だ、ってだけだ」

 シュアンは、下げた目線で自分の掌を見る。グリップだこで変形した、硬い手を。

「間違えるなよ? 俺は、奴のしたことを認めたわけじゃねぇ。絶対に殺してやる」

「シュアン……」

「ただ、如何いかにも胡散臭い呼び出しをしてきた奴が、いったい何をしようとしているのか。――この目で見届けたい。だから、行かせてもらう」

 ぐっと顔を上げ、威圧的な視線でルイフォンを睨みつけた。同行を申し出るというよりも、脅しを掛けているようにしか見えない。

「ああ、お前も来い」

 ルイフォンは深く頷いた。シュアンには、その資格がある。

 ほんの一瞬、本業である警察隊の仕事はどうするのだと思ったが、また例によって適当になんとかするのだろう。

 そんなやり取りを見ていたイーレオが、静かに口を開いた。

「指揮権を持つ〈フェレース〉に頼みがある」

「ん? なんだよ?」

 一族の総帥は、いつもと変わらぬ、足を組んだ尊大な姿勢のまま。しかし、改まった物言いに、ルイフォンは戸惑う。

「シュアンに、〈ムスカ〉への発砲を許可してほしい」

「え?」

「〈フェレース〉の提案では、リュイセンは〈ムスカ〉の首級くびを手柄に、一族への復帰を果たすことになっていた」

「ああ、そうだけど……?」

「だが、〈ムスカ〉の首級くびなどなくとも、リュイセンは鷹刀の後継者にふさわしい人物であることを、自らの行動をもって示した。――一族の長たる俺が、認める。あいつは、俺の期待を遥かに超えた」

 イーレオは頬杖で支えた顎をわずかに上げ、慈愛に満ちた瞳を遥かな庭園へと向けた。

 それから、おもむろに表情を改め、朗々たる王者の声を放つ。

「鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、現時点をもって、鷹刀リュイセンの追放を解く」

「!?」

 望んでいた言葉であるが、あまりにも唐突だった。当惑を隠せぬルイフォンは、しばし瞳を瞬かせ、そして思い至る。

「なるほど。〈ムスカ〉へのとどめは、リュイセンではなく、シュアンに――ってことか」

 総帥を狙われはしたものの、まるで被害のなかった鷹刀一族が粛清を求めるのと、恩義ある先輩を永遠に失ったシュアンが仇討あだうちを望むのとでは、どちらがより強い思いであるかは明白だ。

「分かった。〈フェレース〉は、シュアンの発砲を許可する。……というよりも、〈ムスカ〉への断罪は、シュアンのほうがふさわしいだろう」

 そういうことだろ? と、ルイフォンがイーレオを見やると、イーレオは凪いだ海のような静かな眼差しを返してきた。

「親父……?」

 ルイフォンは、違和感に首をかしげる。

 しかし、イーレオは何も言わずにシュアンへと視線を移し、彼に向かって口を開いた。

「聞いての通りだ、シュアン。〈フェレース〉から発砲許可が降りた」

「イーレオさん?」

 シュアンは、あからさまな不審の声を上げた。けれど、構わず、イーレオは言葉を重ねる。

「だから、お前は引き金を引くべきと思ったら、迷わず、〈ムスカ〉を撃て」

「!」

 シュアンの三白眼が見開かれ、血走った眼球が、ぎょろりと誇張された。彼は、ごくりと唾を呑み、尋ねる。

「――それは、どういう意味ですか?」

 わずかに警戒を含んだ困惑顔。低く、うなるような声はそこで止まらず、更に一歩、踏み込む。

「その口ぶりですと、イーレオさんは『俺は引き金を引かない』と信じているようにしか聞こえないんですが?」

「……え?」

 ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれた。シュアンの弁が理解できなかったのだ。

 どうしてそうなる? と、声を張り上げて問いただしたいところであるが、今はシュアンとイーレオの会話の途中だ。邪魔をしてはならぬと、ぐっと自分を抑え、そろりとイーレオを窺う。

 そのイーレオは、驚きに目を見張り、それから照れたように破顔した。

「まさか、お前に見抜かれるとはな」

「俺は職業柄、悪巧みには鼻が効くんですよ」

 国一番の凶賊ダリジィンの総帥の称賛は、シュアンとしても悪い気はしないらしい。彼は、得意げに口の端を上げる。

「すまんな、シュアン」

「いえ」

 かしこまったように応じながらも、当然のことながら、シュアンの三白眼はイーレオの真意を問うていた。それを受け、イーレオはゆっくりと瞳を巡らせ、シュアンのみならず、その場の者たちへと語りかける。

「ルイフォンの言う通り、〈ムスカ〉にとどめを刺すのなら、リュイセンよりも、シュアンに正当な権利があると思っているのは本当だ。――だが」

 そこで、イーレオは組んでいた長い足を戻し、ぐっと前へと身を乗り出した。その動きに惹き込まれるように、皆の体が自然と前のめりになる。

「リュイセンが〈ムスカ〉を『ヘイシャオ』だと認めた。――あいつの言動が、自分が何者であるかに迷っていた『作り物の駒』の『〈ムスカ〉』を『ヘイシャオ』にした」

 イーレオは目尻に皺を寄せ、低く喉を震わせる。

「奇跡だ」

 ――と。

 そして、不敵に笑う。清々しいくらいに、禍々しく。

「俺の知る『ヘイシャオ』なら、シュアンに撃たれたりはしない」

「イーレオさん……?」

 戸惑いに、シュアンが語尾を揺らした。

 そんな彼を、イーレオは正面から見つめる。

「もし、お前が引き金を引くべきだと思ったなら、それは〈ムスカ〉が『〈ムスカ〉』のままであったときだ。遠慮なく撃て」

 静かな低音が、執務室に響き渡る。

「〈ムスカ〉に血族の情を感じたリュイセンよりも、お前のほうが素早く動けるだろう。だから、皆を守るためには、お前に委ねるのがよいと思った。……いわば、お前は保険だ。悪いな」

「構いませんよ。むしろ、天下の鷹刀の総帥に、えらく買われているようで、身に余る光栄です。……ですが、『俺に撃たれたりしない』――ということは……」

 そこまで言いかけて、シュアンは首を振り、別のことを口にする。

「随分と、『ヘイシャオ』とやらを信頼しているんですね?」

 揶揄のような口調でありながら、シュアンの三白眼はじっと何かを期待しているかのようであった。

 イーレオは、にやりと目を細め、胸を張る。

「俺の自慢の娘婿むすこだからな」

 その答えに、シュアンが満足したのか否かは、ルイフォンには分からない。だが、シュアンは「承知いたしました」と、ぼさぼさ頭を揺らして会釈した。

 そこで、会話が途切れた。

 傍聴者として、じっと沈黙していたルイフォンは、今だとばかりに、「親父に質問がある」と切り込む。

「親父は、〈ムスカ〉の言う『最高の終幕フィナーレ』が、どういう意味だか分かっているんだな?」

 その問いを、イーレオは予期していたのだろう。絶世の美貌を閃かせる。

「さて、な」

「親父!」

「お前が〈ムスカ〉の指名を受けたんだ。自分の目で確かめてくればいいだけだろう」

「けど、あらかじめ予測できていることなら知っておくべきだ。できるだけ多くの情報が、俺たちの安全に繋が……」

「ルイフォン」

 喰らいつこうとするルイフォンの言葉を、低い声が遮った。

 イーレオ……ではない。同じ声質を持つ、次期総帥エルファンである。

「私も行こう」

「エルファン?」

 意外な発言だった。

 イーレオにしろ、エルファンにしろ、その身に万一のことがあれば、一族に多大な影響を及ぼす立場にある者は、それが敵を誘う作戦ならばともかく、安易には危険な前線に出ないものだ。

「あの日、私はヘイシャオに乞われて、あいつを裁いた。何も訊かず、求められるままに」

 玲瓏な響きが、唐突に過去を語る。

「それが間違いであったとは思わない。救いを求めていたヘイシャオは、確かに解放された。……けれど、別の道もあったのだと思う」

 氷の無表情は冷たく閉ざされ、その心の内を窺い知ることはできない。けれど、ルイフォンには、エルファンが後悔しているように感じられてならなかった。

「私を呼ぶのではなく、リュイセンに何かを思い、ミンウェイと向き合い、ルイフォンとメイシアを待つというヘイシャオの〈影〉は、『あのとき』を超えた先にいる『もうひとりのヘイシャオ』だ。――干渉するつもりはない。ただ、見守りたいと思う」

 音もなく氷が溶けていくように、エルファンの言葉が低く消えていく。

「分かった。エルファンも一緒だ」

 ルイフォンは鋭く答えた。

 どうやら年寄り連中には、それぞれに深い思いがあるらしい。それを言葉で語られたところで、おそらくルイフォンには実感できまい。

 だから、すべては、自分自身で確かめる――!

「解散だ! 『最高の終幕フィナーレ』に向けて、少しでも仮眠をとっておこう」

 ルイフォンは、くるりと身を翻し、背中で金の鈴を煌めかせた。



 そして、夜が明ける。

 ルイフォンたち一行は、シュアンの運転する車に乗り込み、屋敷を発った。

 帰りの人数を考えての広々とした大型車は、ハオリュウの車の隠し空間に押し込められて、あの庭園に潜入したときとは、雲泥の差の快適さであった。

 あれから、まだほんの数週間しか経っていないのに、随分と昔のことのような気がする。

 前回は、館で待っているのが身分を振りかざす王族フェイラの摂政であったがために、自家用車での訪問にハオリュウが苦心した。だが、今回は〈ムスカ〉からの招待だ。如何いかにも胡散臭い黒塗りの車であるにも関わらず、近衛隊はあっさりと通してくれた。

 勿論、〈ムスカ〉への警戒は怠っていない。それぞれに得意の武器を手にしており、また念のために爆発物を積んである。

 万が一、〈ムスカ〉が約束を違え、近衛隊に命じて門を封鎖――ルイフォンたちの車を外に出られないようにした場合でも、『国宝級の科学者が、実験に失敗して、爆発事故を起こした』『科学者は大怪我をしており、急いで病院に搬送する必要がある』と言って、脱出する算段である。

 そんなものは必要ないと、エルファンの氷の瞳が無言で告げていたが、用心深くあっても損はしないだろう。

 車は緩やかな緑の丘陵を行き、少しずつ枯れ始めてきた、けれど、いまだ鮮やかさを残す紫の菖蒲園の脇を抜けた。

 やがて、草原の海に凛とたたずむ、石造りの塔が見えてくる。

 展望塔を目にした瞬間、ルイフォンは、ミンウェイの「危ないでしょ!」という制止の声も聞かずに、車の窓を全開にして身を乗り出した。

 強い南風を頬に受ける。

 流された髪の先で、金の鈴が煌めく。

 朝陽を浴びる壮麗な塔を見上げると、硝子で覆われた最上階の展望室が、天上の宝石のようにきらきらと輝いていた。

 ルイフォンは遥かな天空に向かって、大きく手を振る。

 地表をく自分は、ちっぽけかもしれない。けれど、地上から伸ばすこの手が、メイシアの瞳に映るようにと。

 展望塔にたどり着き、車が停まると同時にルイフォンは飛び降りる。

 その刹那、塔の扉が重い音を響かせた。

 長い黒絹の髪をなびかせ。

 白磁の肌を薔薇色に染め。

 天から舞い降りてきた彼女が、疾風かぜを渡る。

 彼もまた地を蹴り、疾風かぜに乗る。


 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、仕組まれた運命。


 けれど、絡め合わせたこの手は、決して離さない――。

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