3.菖蒲の館で叶う抱擁-1
自分の言いたいことだけを告げて、〈
「……いったい、なんだよ……?」
かすれた声で、ルイフォンは呟いた。
〈
それはすなわち、中にいる仲間たちが脱出できなくなったことを意味する。
けれど代わりに、ルイフォンたちが菖蒲の館に招待された。
「……」
〈
なのに、気づけば〈
「『最高の
まったく想像もしていなかった方向へと転がり始めた事態に、しばし呆然としていたルイフォンだったが、突如、かっと猫の目を見開いた。
「ふざけんな!」
怒号を放ち、握りしめていた受話器を叩きつけるようにしてテーブルの上の電話器に戻した。そして、メイシアと回線を繋げている自分の携帯端末を掴み取る。
「メイシア、聞こえていたか?」
『うんっ……』
返ってきたのは、緊張に震えた、けれど、喜びを隠しきれない声。
〈
だから、ルイフォンに逢える――そのことが嬉しくてたまらないという想いを、彼に伝えてくれている。
「お前を迎えに行く!」
ルイフォンだって、想いは同じだ。
やっと、この手で、メイシアを抱きしめることができる――!
「罠だろうがなんだろうが、〈
そのまま出発の準備を始めるべく、扉に向かって歩き出そうとしたときだった。
「おい、〈
「親父? ……あ、『鷹刀の総帥』」
父イーレオが、ルイフォンを『〈
「鷹刀は、〈
秀でた額に皺を寄せ、イーレオは渋面を作る。だが、片肘を付いた頬杖の姿勢は相変わらずで、眼鏡の奥の瞳には浮かれた色が見え隠れしていた。この事態を楽しんでいるのだ。
そこへすかさず、妙に
「俺も行かせてもらうぜ」
にやりと口角を上げた悪人面。言わずもがなのシュアンである。
「〈
そこで彼は、ほんの少し言葉を切り、真顔になる。
「……だが、メイシア嬢の話が出てきてからは、〈
「……」
あのとき、〈
ルイフォンの目が
「実のところ、俺は、あの野郎が本当はどんな奴なのかを知らない。俺が知っているのは、先輩や、ハオリュウとメイシア嬢の父親を〈影〉にして、ただの駒として扱った奴だ、ってことだけだ」
シュアンは奥歯を噛み締め、血色の悪い不健康な顔を歪める。
「俺は、奴に恨みがある。断じて、許しはしない」
凶相が凄みを増した。それを隠すかのように、特徴的な三白眼が静かに伏せられる。
そして、「だが……」と続けた。『狂犬』と呼ばれる者とは思えぬような、理知的な声で。
「奴は決して、愉快犯というわけではない。奴は必要だと思ったから、先輩たちを駒にした。――俺と同じ……、引き金を引ける奴だ、ってだけだ」
シュアンは、下げた目線で自分の掌を見る。グリップだこで変形した、硬い手を。
「間違えるなよ? 俺は、奴のしたことを認めたわけじゃねぇ。絶対に殺してやる」
「シュアン……」
「ただ、
ぐっと顔を上げ、威圧的な視線でルイフォンを睨みつけた。同行を申し出るというよりも、脅しを掛けているようにしか見えない。
「ああ、お前も来い」
ルイフォンは深く頷いた。シュアンには、その資格がある。
ほんの一瞬、本業である警察隊の仕事はどうするのだと思ったが、また例によって適当になんとかするのだろう。
そんなやり取りを見ていたイーレオが、静かに口を開いた。
「指揮権を持つ〈
「ん? なんだよ?」
一族の総帥は、いつもと変わらぬ、足を組んだ尊大な姿勢のまま。しかし、改まった物言いに、ルイフォンは戸惑う。
「シュアンに、〈
「え?」
「〈
「ああ、そうだけど……?」
「だが、〈
イーレオは頬杖で支えた顎をわずかに上げ、慈愛に満ちた瞳を遥かな庭園へと向けた。
それから、おもむろに表情を改め、朗々たる王者の声を放つ。
「鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、現時点をもって、鷹刀リュイセンの追放を解く」
「!?」
望んでいた言葉であるが、あまりにも唐突だった。当惑を隠せぬルイフォンは、しばし瞳を瞬かせ、そして思い至る。
「なるほど。〈
総帥を狙われはしたものの、まるで被害のなかった鷹刀一族が粛清を求めるのと、恩義ある先輩を永遠に失ったシュアンが
「分かった。〈
そういうことだろ? と、ルイフォンがイーレオを見やると、イーレオは凪いだ海のような静かな眼差しを返してきた。
「親父……?」
ルイフォンは、違和感に首をかしげる。
しかし、イーレオは何も言わずにシュアンへと視線を移し、彼に向かって口を開いた。
「聞いての通りだ、シュアン。〈
「イーレオさん?」
シュアンは、あからさまな不審の声を上げた。けれど、構わず、イーレオは言葉を重ねる。
「だから、お前は引き金を引くべきと思ったら、迷わず、〈
「!」
シュアンの三白眼が見開かれ、血走った眼球が、ぎょろりと誇張された。彼は、ごくりと唾を呑み、尋ねる。
「――それは、どういう意味ですか?」
わずかに警戒を含んだ困惑顔。低く、うなるような声はそこで止まらず、更に一歩、踏み込む。
「その口ぶりですと、イーレオさんは『俺は引き金を引かない』と信じているようにしか聞こえないんですが?」
「……え?」
ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれた。シュアンの弁が理解できなかったのだ。
どうしてそうなる? と、声を張り上げて問いただしたいところであるが、今はシュアンとイーレオの会話の途中だ。邪魔をしてはならぬと、ぐっと自分を抑え、そろりとイーレオを窺う。
そのイーレオは、驚きに目を見張り、それから照れたように破顔した。
「まさか、お前に見抜かれるとはな」
「俺は職業柄、悪巧みには鼻が効くんですよ」
国一番の
「すまんな、シュアン」
「いえ」
かしこまったように応じながらも、当然のことながら、シュアンの三白眼はイーレオの真意を問うていた。それを受け、イーレオはゆっくりと瞳を巡らせ、シュアンのみならず、その場の者たちへと語りかける。
「ルイフォンの言う通り、〈
そこで、イーレオは組んでいた長い足を戻し、ぐっと前へと身を乗り出した。その動きに惹き込まれるように、皆の体が自然と前のめりになる。
「リュイセンが〈
イーレオは目尻に皺を寄せ、低く喉を震わせる。
「奇跡だ」
――と。
そして、不敵に笑う。清々しいくらいに、禍々しく。
「俺の知る『ヘイシャオ』なら、シュアンに撃たれたりはしない」
「イーレオさん……?」
戸惑いに、シュアンが語尾を揺らした。
そんな彼を、イーレオは正面から見つめる。
「もし、お前が引き金を引くべきだと思ったなら、それは〈
静かな低音が、執務室に響き渡る。
「〈
「構いませんよ。むしろ、天下の鷹刀の総帥に、えらく買われているようで、身に余る光栄です。……ですが、『俺に撃たれたりしない』――ということは……」
そこまで言いかけて、シュアンは首を振り、別のことを口にする。
「随分と、『ヘイシャオ』とやらを信頼しているんですね?」
揶揄のような口調でありながら、シュアンの三白眼はじっと何かを期待しているかのようであった。
イーレオは、にやりと目を細め、胸を張る。
「俺の自慢の
その答えに、シュアンが満足したのか否かは、ルイフォンには分からない。だが、シュアンは「承知いたしました」と、ぼさぼさ頭を揺らして会釈した。
そこで、会話が途切れた。
傍聴者として、じっと沈黙していたルイフォンは、今だとばかりに、「親父に質問がある」と切り込む。
「親父は、〈
その問いを、イーレオは予期していたのだろう。絶世の美貌を閃かせる。
「さて、な」
「親父!」
「お前が〈
「けど、あらかじめ予測できていることなら知っておくべきだ。できるだけ多くの情報が、俺たちの安全に繋が……」
「ルイフォン」
喰らいつこうとするルイフォンの言葉を、低い声が遮った。
イーレオ……ではない。同じ声質を持つ、次期総帥エルファンである。
「私も行こう」
「エルファン?」
意外な発言だった。
イーレオにしろ、エルファンにしろ、その身に万一のことがあれば、一族に多大な影響を及ぼす立場にある者は、それが敵を誘う作戦ならばともかく、安易には危険な前線に出ないものだ。
「あの日、私はヘイシャオに乞われて、あいつを裁いた。何も訊かず、求められるままに」
玲瓏な響きが、唐突に過去を語る。
「それが間違いであったとは思わない。救いを求めていたヘイシャオは、確かに解放された。……けれど、別の道もあったのだと思う」
氷の無表情は冷たく閉ざされ、その心の内を窺い知ることはできない。けれど、ルイフォンには、エルファンが後悔しているように感じられてならなかった。
「私を呼ぶのではなく、リュイセンに何かを思い、ミンウェイと向き合い、ルイフォンとメイシアを待つというヘイシャオの〈影〉は、『あのとき』を超えた先にいる『もうひとりのヘイシャオ』だ。――干渉するつもりはない。ただ、見守りたいと思う」
音もなく氷が溶けていくように、エルファンの言葉が低く消えていく。
「分かった。エルファンも一緒だ」
ルイフォンは鋭く答えた。
どうやら年寄り連中には、それぞれに深い思いがあるらしい。それを言葉で語られたところで、おそらくルイフォンには実感できまい。
だから、すべては、自分自身で確かめる――!
「解散だ! 『最高の
ルイフォンは、くるりと身を翻し、背中で金の鈴を煌めかせた。
そして、夜が明ける。
ルイフォンたち一行は、シュアンの運転する車に乗り込み、屋敷を発った。
帰りの人数を考えての広々とした大型車は、ハオリュウの車の隠し空間に押し込められて、あの庭園に潜入したときとは、雲泥の差の快適さであった。
あれから、まだほんの数週間しか経っていないのに、随分と昔のことのような気がする。
前回は、館で待っているのが身分を振りかざす
勿論、〈
万が一、〈
そんなものは必要ないと、エルファンの氷の瞳が無言で告げていたが、用心深くあっても損はしないだろう。
車は緩やかな緑の丘陵を行き、少しずつ枯れ始めてきた、けれど、いまだ鮮やかさを残す紫の菖蒲園の脇を抜けた。
やがて、草原の海に凛とたたずむ、石造りの塔が見えてくる。
展望塔を目にした瞬間、ルイフォンは、ミンウェイの「危ないでしょ!」という制止の声も聞かずに、車の窓を全開にして身を乗り出した。
強い南風を頬に受ける。
流された髪の先で、金の鈴が煌めく。
朝陽を浴びる壮麗な塔を見上げると、硝子で覆われた最上階の展望室が、天上の宝石のようにきらきらと輝いていた。
ルイフォンは遥かな天空に向かって、大きく手を振る。
地表を
展望塔にたどり着き、車が停まると同時にルイフォンは飛び降りる。
その刹那、塔の扉が重い音を響かせた。
長い黒絹の髪をなびかせ。
白磁の肌を薔薇色に染め。
天から舞い降りてきた彼女が、
彼もまた地を蹴り、
天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、仕組まれた運命。
けれど、絡め合わせたこの手は、決して離さない――。
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