9.猛き狼の啼哭-2

「リュイセン!」

 ファンルゥは、リュイセンが身を躍らせた窓へと駆け寄った。

 しかし、彼女の背丈では、爪先立ちになっても外は見えない。慌てて取って返し、椅子を引きずってくる。

 ぴょんと飛び乗り、眼下を見やれば、そこは一面の草の海だ。ただし、見慣れた緑の野原ではない。昼とは違う、黒い波がざわざわと揺れている。

「……」

 たとえ夜でも、月明かりに照らされて、リュイセンが駆けていく姿が見えるものと思っていた。しかし、月はファンルゥが考えているほどには明るくなく、部屋の電灯に慣れた目には世界は真っ黒に映った。

 まるで黒い波濤はとうに呑まれてしまったかのように、リュイセンは消えてしまった……。

 想像していなかった風景に、ファンルゥは焦る。

「リュイセン……」

 大声を出すのは駄目だ。ファンルゥの部屋の前には見張りがいる。

「どうしよう……」

 そのとき、絡繰からくり時計が、ぎぃと音を立てた。

 文字盤の数字が裏返り、後ろに控えていたピエロが現れる。

 赤いピエロではない。メイシアのところに行く約束の時間を教えてくれる彼なら、とっくに帰ってしまった。だから、別のピエロ。青いピエロだ。

「青いピエロさん……?」

 軽快な音楽に乗って登場するはずのピエロが、演奏なしで静かに踊っていた。

 ファンルゥの就寝時間を過ぎているので、音が鳴らないように設定されている。それだけのことなのだが、ファンルゥには特別なことに思えた。

『ファンルゥ、見張りに気づかれないように、こっそり聞いて』

 無言で踊るピエロが、ファンルゥに呼びかける。

『これから皆で、ここを出るんでしょ?』

 ファンルゥは、こくりと頷く。

『じゃあ、どうするの? ファンルゥはどうすればいいの?』

 無論、青いピエロは、ただ踊っているだけだ。ファンルゥに話しかけたりなどしない。

 けれど、ファンルゥが自分の中に持っている答えを引き出すのに、充分なきっかけを与えてくれた。


『俺には、やるべきことがあるんだ』


 ファンルゥの耳の中に、リュイセンの声が蘇る。

「リュイセンには、リュイセンのやることがある……」

『やること』のために、彼は出ていったのだ。ならば、ファンルゥはリュイセンを追いかけてはならない。彼の邪魔をしたら駄目だ。

 それに、リュイセンなら自分から戻ってきてくれる。――そう思う。リュイセンなら、絶対……。

「じゃあ、ファンルゥは?」

 ファンルゥにも、ファンルゥのやるべきことがある……?

「ああ!」

 小さな肩が跳ね、くりっとした目がまん丸になった。

「メイシアのところに行かなきゃ!」

 きっと、メイシアは心配している。

 ファンルゥは、急いで出発の準備を始めた。

 この部屋には素敵なものがたくさんあるけれど、本当に大切な宝物は、ひとつだけ。父親のタオロンがこの前、買ってきてくれた『ご褒美』だけだ。ファンルゥは、それをポケットにしまった。間違っても落としたりしないように、ぐいぐいっと奥深くに。

 それから、ほんの少し顔をしかめてから〈ムスカ〉に渡された模造石の腕輪を手首にはめる。

 かゆくなるから嫌なのだが、これから外に出るので、〈ムスカ〉の言いつけを守っているふりをしなければいけないと考えたのだ。

「ピエロさん、ありがとう! ファンルゥ、行くね!」

 声に出して告げたら、急に寂しくなって、ちょっぴり涙がこぼれそうになった。

 さっきは『ご褒美』以外は、置いていって構わないと思ったけれど、いざお別れとなると胸が苦しい。窮屈で退屈な日々だったけれど、この部屋も、ここにある玩具たちも、ファンルゥにとても優しくしてくれた。

「……でも! ファンルゥには、やるべきことがあるの!」

 自分を奮い立たせるように言い放ち、スイッチに背伸びして電灯を消す。

 そして、ファンルゥは夜の海原へと旅立った。



 夜の暗さもなんのその、ファンルゥは軽やかに雨どいを伝い、草原に降りた。

 窓からの印象通り、地上は黒い海が広がっているようだった。ざわめく草の音は、まるで潮騒だ。

 見渡す限り、外灯はひとつもない。

 この庭園は、王の療養のために作られた施設であり、安らぎの静かな夜をあるじに捧げるべく、無粋な光を抑えているのだ。

 とはいえ、目が慣れてきたのか、先ほどよりも月が明るい。移動に支障はない。

 ファンルゥは、目指す展望塔を視界に捕らえた。

「綺麗……」

 深い闇の向こうでは、壮麗な石造りの塔が白く浮き立っていた。外壁に取り付けられた淡い明かりによるもので、外灯の代わりにと、庭園の設計者が趣向を凝らしたものらしい。

 そして、最上階の展望室は、温かな光であふれている。まるで、黒い海を渡るファンルゥのための灯台のように。

 メイシアだ。

 メイシアが『こっちよ』と、ファンルゥを呼んでいる。

 ファンルゥは、草の原を一目散に駆け出した。

 時々、足を滑らせ、転びそうになりながらも、ぐっと踏ん張って前へと進む。

 息が弾む。頬に受ける生ぬるい風を振り払い、先へと切り拓く。

 走って、走って、展望塔はすぐそこだ。

 近くまで来ると、外壁の明かりによって、入り口にいる見張りの男たちの顔がはっきり分かるようになった。だから、見つからないように。いつもの通り、こっそり裏側に回って……。

 そのときだった。

 ファンルゥの手首が、きらりと光った。

 明かりが腕輪に当たり、模造石に反射して煌めいたのだ。

「ん?」

 見張りのひとりが、不審の声を上げる。

「どうした?」

「今、何か光らなかったか?」

「ああ、俺も見た」

 見張りの男たちが騒ぎ始める。

 ファンルゥの心臓が、どきりと飛び跳ねた。

 動いてはいけない。見つからないように、じっとしているのだ。

 彼女は、強く自分に言い聞かせる。

「もしかして、塔の姫君に骨抜きにされたリュイセンが、反省房から脱走して姫のところに戻ってきたのか……?」

 ひとりの男がそう言った。刹那、見張りたちの間に緊張が走る。

 たいした技倆うではないとはいえ、ここにいる者たちは皆、武に頼る生き方をしている。夜闇に光るものといえば、刃物の煌めきに決まっているのだ。

 男たちは、見張りの特権で許された刀を次々に抜き放つ。

「待て」

 血気はやる仲間たちに、ひとりが制止をかけた。

「迂闊に近づいたら危険だ。まずは俺がやる」

 そう言いながら、男は懐から菱形の刃を取り出す。ルイフォンが使うのと同じ、投擲用の武器だ。

「リュイセンが飛び出してきたら、一斉に襲いかかるんだ。いくら奴でも、多勢に無勢じゃ敵わんだろう」

 狙いをつけるため、男は素早く場所を移る。塔から少し離れた暗がりで、刃を構える。

 月を背にしたシルエットが、ファンルゥの瞳に大きく映り込んだ。恐怖が焼きつけられる。足がすくんで逃げられない。


 月が襲ってくる――!


 男の腕が振り下ろされた。

 指先から放たれた刃が、くうを斬り裂く。

 魂を凍りつかせるような、鋭利な輝き。それも一刀ではない。二刀、三刀と、続けざまに銀光が煌めく。

 月光を宿した凶刃が、真正面から飛来する。

 それを目にした瞬間、ファンルゥは短く息を吸い込み――……。


「ファンルゥ!」


 つやめく低音が響き渡った。

 大地を駆ける狼が如く、長身の影が神速で現れ、しなやかに跳躍する。そして、あたかも月光を奪い返すかのように、刃の軌道を遮った。

「――!?」

 自分をきつく抱きしめる、たくましい両腕の強さ。ぴたりと密着した硬い筋肉と、そこから振動として伝わってくる、彼の背中に突き刺さる刃の衝撃。

 胸板で視界をふさがれ、何も見ることはできないが、ファンルゥは全身で感じ取る。

「……リュイセン?」

「つっ……」

 ファンルゥの髪に、苦痛の吐息が掛かった。

「リュイセン!」

 血の臭いが鼻を突く。

 時々、父親のタオロンから感じる臭い。

 父が隠そうとしていることを知っているから、ファンルゥも知らんぷりしている臭い。

「どうして! どうして!」

 どうして、リュイセンがここにいるのだ?

 どうして、リュイセンから血臭がするのだ?

「嫌! 嫌ぁ――!」

 叫びだしたファンルゥに、リュイセンが慌てて「静かにしろ」と短く命じる。

「安心しろ。かすり傷だ」

「え……?」

「後ろに下がっていろ。見張りを倒す」

 彼はそう言って、ファンルゥを解放すると、腰にいた双刀を抜き放った。



 リュイセンは双刀を高く掲げ、鋭い銀の煌めきを見張りたちに誇示した。

 逃げも隠れもしない。相手をしてやる。

 無言で宣告し、威圧の眼光を放つ。

「……っ、リュイセン……」

「やるしかねぇ……」

 見張りたちにしてみれば、何が起きたのか、半分も理解できていなかっただろう。しかし、闘気を放つリュイセンを前に、戦う以外の選択肢はない。格の違いに、すっかり腰が引けていたが、それぞれに構えをとった。

 実のところ、リュイセンの怪我は、かすり傷などではなかった。

 筋肉の鎧をまとった彼の体は、多少のことではびくともしないが、先ほどの刃のうちの一本だけは運悪く深手となっていた。迂闊に引き抜けば、ひどい出血となるため、筋肉を締めて背中に刺さったままにしてある。

 幸い毒は塗ってなかったようだが、できるだけ早く処置をしたほうがよいだろう。耐えることはできるが、ずきずきと強い痛みを感じる。自分としたことが情けないと、リュイセンは唇を噛む。

 ファンルゥが狙われたとき、もっと彼女との距離が近ければ、愛刀で刃を弾き返すことができた。しかし、彼女に気づかれぬよう、遠くからそっと見守っていたために、駆け寄るだけで精いっぱいだったのだ。

 ……ファンルゥの部屋の窓から飛び出した瞬間、彼を呼び止める声が聞こえた。あの別れ方なら当然だろう。

 大声はまずいと、ひやりとしたのだが、すぐにんだ。うるさくしたらいけないのだと、ファンルゥはちゃんと知っているのだ。そして、感情を律することができる。恵まれない環境を生き抜くために、無邪気なその心を、切ないほどに押し込めるすべを知っている……。


『ファンルゥは、『二度と会えない、さよなら』をたくさん知っている』


 舌足らずな声が耳に残っている。

 リュイセンはそれを振り払うように頭を振ると、館の影に身を潜めつつ、〈ムスカ〉の部屋へと急いだ。寝床に戻ってきた奴を仕留めるのだ。チャンスは一度きり。逃してはならない。

 そう思っていたのに、生ぬるい風の中に混じる、人の呼吸に気づいてしまった。

 弾んだ息遣いは早く、間違いなく子供のもの。振り返れば、案の定、草原を走るファンルゥの姿が見えた。夜目の効くリュイセンには、月明かりで充分だった。

 彼を探して駆け回っているのだと思い、舌打ちをした。脱走に慣れているのは知っているが、無鉄砲すぎる。特に、今は夜だ。どんな危険があるかも分からない。

 困ったことになったと眉を寄せていると、彼女の走りに迷いがないことに気づいた。彼を求めて、さまよっているのではない。目的に向かって、まっすぐに突き進んでいる。

 彼女の行く手を見やれば、幻想的に浮かび上がる展望塔があった。

 リュイセンは得心した。ファンルゥはメイシアのところに行こうとしているのだ。皆でこの庭園を出ると言っていたから、合流する手はずになっていたのだろう。

 彼は安堵の息を漏らすと同時に、ほんの少しだけ寂寥を覚える。迷惑だと思いつつ、彼女は自分を追いかけているものと信じて疑わなかったのだ。

 ――ともかく、彼女が無事に展望塔にたどり着くまで見守っていよう。

ムスカ〉の部屋へと急いでいたはずだが、放っておくことは考えられなかった。

 そして、現在――。

 リュイセンは、見張りの男たちと対峙する。

 相手は五人。いつものリュイセンなら、しかも愛刀を取り戻した彼ならば、容易に瞬殺できる。けれど今は、背中に受けた傷のために無理が効かない。動きが制限される。向かってくる敵を斬り捨てるのはよいが、こちらから仕掛けにいくのは避けるべきだった。

「どうした? 多勢に無勢で、俺に襲いかかるのではなかったか? ――来いよ」

 くいと顎を上げ、リュイセンは挑発する。黄金比の美貌が冷酷に歪み、月光を浴びて魔性をはらむ。

 ごくりと唾を呑む音が聞こえた。男たちの緊張の息遣いからは、額から流れ落ちる冷や汗が見えた。リュイセンの目論見とは逆に、怖気づいた彼らは、向かってくるどころか身じろぎひとつできなかったのだ。

 仕方ない……。

 長引けば、最悪、痛みで気を失う可能性があった。

「そうか。ならば俺のほうから行こう」

 口の端を上げた。

 背中の負傷を微塵にも感じさせない、余裕の嗤笑……。

 双子の刀が左右に広げられ、月光を弾いた軌跡がまるで白銀の翼に見えた。

 あまける狼が、神速で男たちに迫る。男たちは、まるで喰らいつかれるのを待っているかのように、ただ呆然と立ち尽くし、あっけなく餌食となった。

 ――否。

 ひとりだけ。先ほど刃を投げた男だけが、腰を抜かしかけながらも逃げ出した。

「応援……っ、呼んでくらぁ……」

 長刀ちょうとうよりも投擲武器をしゅとする、前線よりも少し下がったところからの攻撃が得意な輩なのだろう。彼だけが、リュイセンとの正面衝突を避けたのだ。

「待てっ!」

 リュイセンが叫ぶ。

 あとを追うべく、足元に転がる男たちを飛び越える。

 背中の傷をおして全力で走るのは望ましくない。しかし、逃げる男が、懐から携帯端末を取り出すのが見えたのだ。

 そのとき。

 男の前に、黒い巨体が立ちふさがった。

「ぐほっ!」

 蛙が潰れるような声を上げ、男の体が沈み込む。

「……!?」

 状況が掴めず、リュイセンは目をまたたかせる。そこに、ファンルゥの歓喜の声が響いた。

「パパ!」

 彼女の言う通り、夜闇の中に斑目タオロンの巨躯があった。彼は、腹への一撃で倒した男を担ぎ上げ、急ぎ足でリュイセンのもとへとやってくる。そして、男を米俵のように放り投げ、空いた両手をばっと地に付け……土下座した。

「鷹刀リュイセン!」

 タオロンは、勢いよく額を地面にこすりつける。

「ファンルゥのために……すまん! ありがとう、本当にありがとうよぅ……。お前は、ファンルゥの命の恩人だ」

 最後のほうは涙声だ。

 ファンルゥが「パパ」と駆け寄ると、彼は一度、愛娘を強く抱きしめてから、彼女を隣に座らせ、ぐいと頭を下げさせる。

「ファンルゥ。お前も、ちゃんとお礼を言うんだ!」

 普段、さほど声を荒らげたりしない父の叱責に彼女はびくりと体を震わせ、けれど、リュイセンへの感謝の気持ちは彼女も同じだったので、彼女も父に倣う。ふわふわの頭が、ぴょこんと地面にくっついた。

「リュイセン! えっと……、大好き!」

 タオロンの顔が凍りついた。

 リュイセンは、どう反応したらよいのか分からず、目の前の父娘に交互に目をやり、視線をさまよわせる。

 ともかく、タオロンが来ればファンルゥのことは心配ないだろう。

 こちらから話を持ちかけなくとも、彼らはメイシアの主導で庭園を脱出する予定だ。引き止められる前に、この場を去るのが賢明だ。

 そして、〈ムスカ〉を殺す――!

「リュイセン!」

 気配を察したのだろう。タオロンの肉厚の手が、素早くリュイセンの肩を掴んだ。衝撃に背中の傷が、ずきりと痛み、思わず顔をしかめる。

「だいたいのことはルイフォンから聞いている。……皆が、お前を待っているぞ」

「!?」

 リュイセンは耳を疑った。何故、タオロンがルイフォンと……?

「お前が今、〈ムスカ〉を狙っていることも知っている。俺はルイフォンから、お前を止めるように頼まれていて、お前を探していた」

「どういう……ことだよ……?」

 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。

「ファンルゥの部屋を出入りするお前をメイシアが見つけて、知らせを受けて飛んできた。――あとは、鷹刀の連中に聞いてほしい。俺じゃあ、詳しいことは分からねぇし、うまく説明できる自信もねぇ」

 タオロンはそう言って、上空に向かって手を降る。

 つられて見やれば、展望塔の最上階、展望室の窓に張りつくようにたたずむ、メイシアの影が見えた。彼女も手を振り返し、部屋の奥へと姿を消す。ほどなくして、塔の中からエレベーターの動く低い音が聞こえてきた。上階で彼女が呼んだのだろう。降りてくるつもりなのだ。

 ――駄目だ。

 ミンウェイを苦しめる悪魔を放置することはできない。

 リュイセンがタオロンの手を振り払おうとし、タオロンがそれに抗おうとしたとき、ファンルゥが「パパ!」と叫んだ。

「リュイセンには『やること』があるの。だから、邪魔しちゃ駄目なの」

 ファンルゥはタオロンの足にしがみつき、駄々をこねるように体を揺らす。

「ファンルゥ、だが、ルイフォンが……」

「大丈夫だよ、パパ! リュイセンは 『やること』が終わったら、絶対、帰ってくる。ファンルゥは知っているもん!」

 彼女はリュイセンに向かって、にこりと笑う。『二度と会えない、さよなら』じゃないよね? だから、行ってきて。――まっすぐな瞳が、彼を送り出す。

「ファンルゥ……」

 寄せられた全幅の信頼が、タオロンの豪腕よりも強い力でリュイセンの足を縫い止めた。彼女自身は進めと言ってくれているのに。彼の心は行かなければと思っているのに……。

 愛娘の妨害に、タオロンは太い眉をしかめていたが、はっと何かを思いつき、顔を輝かせた。

「ファンルゥ、リュイセンは大怪我をしている! 怪我には治療が必要だ!」

「あー……!」

 これには、ファンルゥも押し黙るしかない。

 無骨なタオロンにしては、珍しく気の利いた正論を言えた。そのことにタオロン本人が、ほっとする。そして、彼はリュイセンに向かって続けた。

「リュイセン、その背に刺さった刃は、自分で手当てするのは難しいだろう。俺にやらせてくれ」

「……」

 タオロンの弁はまごうことなく正しく、ひとつも間違っていない。

 背中の刃を引き抜けば、大量出血は免れない。止血の準備を万全にした上で、治療にかかる必要がある。ひとりでは不可能とは言わないが、困難を極めるだろう。

 ――しかし、〈ムスカ〉は今宵、仕留めなければならない。

 リュイセンが拳を握りしめたとき、展望塔の中からエレベーターの到着するチャイムが聞こえた。メイシアが地上に降りてきたのだ。重たい音が響き、塔の入り口の扉が開く。

「リュイセン! ミンウェイさんが!」

 携帯端末を片手に、メイシアが転がるように飛び出してきた。

 そのとき、タオロンが息を呑んだ。

「そうだ、その名前だ! ルイフォンからの伝言があったんだ。すまん、忘れていた!」

 タオロンは焦り、同時に、思い出せてよかったと胸を撫で下ろす。何故なら、それは先ほどの正論などよりも、よほどリュイセンを思う言葉だから……。

「『鷹刀ミンウェイという人物が、リュイセンと話をしたいと電話を待っている。だから、メイシアの部屋に行ってほしい。メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』――だそうだ」

「――!?」

 リュイセンは目を見開いた。

 いったい、何がどうなっている――?

 理解できない事態の連続に、頭の中が飽和する。耳鳴りがして、気が狂いそうだ。

 黄金比の美貌が表情を失う。彫像のように立ち尽くすリュイセンに、メイシアが携帯端末を差し出す。

『リュイセン!』

 無機質な端末から、生気に満ちた声が流れた。

 忘れもしない、愛しいひとの……。

 緩やかに波打つ黒髪と、優しい草の香り。まっすぐに彼を見つめる切れ長の瞳が脳裏に浮かび、魂を揺さぶられる。

『お願い、話を聞いて! あなたの力が必要なの!』

 別れすら告げずに彼女のそばを離れてから、いったいどのくらいの時が過ぎたのだろう。

 かつえていた響きを耳にしたリュイセンは、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

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