6.障壁に穿たれた穴-3

スコリピウス〉の研究所跡に密かに建てられていたその家は、間違いなくキリファが用意したものであった。

 門扉に仕掛けられていた認証システムをすんなり通過できたことが何よりの証拠であるが、中に入ったルイフォンは、一瞬、呆気にとられたのちに微苦笑を浮かべた。屋内の造りが、ルイフォンの生まれ育った、〈ケル〉のある家とそっくりだったのだ。

 閉鎖されていた空間はかび臭く、床は黒ずみ、壁は日に焼け、電灯からは蜘蛛の巣が垂れ下がっている。しかし、見慣れたこの間取りは、見間違えようもない。

「あの家の図面をそのまま使ったな」

 ルイフォンが思ったのと同じことを、エルファンが口にした。

「だよな? まったく、母さんのこだわりなんだか、手抜きなんだか……」

 そう軽口を叩き、ルイフォンは、はっと顔色を変える。

 ――母は、〈ケル〉のある家と同じ構造の家を建てた。

 なんのために?

「……地下だ」

 ルイフォンの口から、かすれたテノールがこぼれた。

 全身が緊張で満たされ、冷や汗が落ちる。

 激しく脈打つ心臓を押さえ、ルイフォンは地下に向かって……。

「待ちなさい!」

 ひらりと舞った緋色の影に、行く手を阻まれた。

「ルイフォン! 今、走ろうとしたでしょ! あなたはまだ怪我人なのよ! 自覚しなさい! さっきも、車からいきなり飛び出しちゃうし、傷が開いたら……!」

「それどころじゃないんだ!」

 眉を吊り上げるミンウェイに、ルイフォンは噛み付くように言い返す。

 そのとき、ふたりの脇を神速の風が走り抜けた。

 ルイフォンから一瞬遅れ、エルファンもまた気づいたのだ。

「ちょっ!? ちょっと、エルファン伯父様まで!?」

 すれ違いざまにちらりと見えた横顔は、氷の美貌をかなぐり捨て、動揺に掻き乱された必死の形相。床に足を付けるたびに勢いよく埃が跳ね、点々と残されていく痕跡は尋常でない歩幅を示す。

 広い背中は、あっという間に小さくなり、地下への階段へと吸い込まれていった。

「エルファン、待てよ!」

 ルイフォンも、すぐさま追いかけようとして……。

「――っ。すまん、ミンウェイ」

 ひとり、状況から取り残され、呆然としている彼女の姿に彼は思いとどまった。

 よく見れば、彼女の顔は、うっすらと青ざめていた。いよいよ自分の『秘密』が事実としてあばかれるかもしれないという場所に来て、冷静沈着なエルファンがあれだけ取り乱せば不安にもなるだろう。

 まずは、きちんと彼女に説明をしておくべきだ、とルイフォンは反省する。

 それに、先に行ったエルファンが落ち着くまで、少し待ってやったほうがいいかもしれない。――そんなことを考えていると、ミンウェイのほうからぽつりと尋ねてきた。

「ルイフォン、この家は、いったいなんなの……?」

「すまない。何も言わずに振り回して」

 ルイフォンは、彼女を安心させるように柔らかに答え、そして、どこかで絶対に聞いているはずの〈ケル〉と〈ベロ〉を意識して言う。

「〈スー〉だよ。……ここは〈スー〉の家なんだ」

「〈スー〉? 〈スー〉って、〈ケル〉や〈ベロ〉と合わせて、何か凄いことができるようになるっていう――あなたのお母様が作っていたコンピュータのこと?」

 ミンウェイの、実に分かりやすく簡略化された解釈に、ルイフォンは苦笑する。

 彼としては、〈七つの大罪〉の技術の粋を尽くした〈ケルベロス〉には、もう少し大仰な表現を使ってほしい気がするのだが、ともかく、彼女の理解が早いのは助かった。

「そうだ。母さんが〈ケル〉の家とそっくりな家を建てたなら、まだ開発中だと言っていた〈スー〉がこの家にある、と考えるのが自然だろう?」

「なるほど。そういうことね」

 ミンウェイは頷き、表情を和らげた。だが、すぐに違和感に気づく。

「でも、じゃあ、どうして『エルファン伯父様が』あんなに慌ててらっしゃったの?」

 母が遺した〈スー〉が見つかれば、ルイフォンが興奮するのは当然といえよう。だが、『エルファンも』血相を変えた。――ミンウェイが不思議に思うのは、もっともだ。

「……ああ。それは……な」

 ルイフォンは、ほんの少しだけためらった。

 しかし、体の芯に力を込め、はっきりとしたテノールを響かせる。


「〈スー〉は……、母さん――なんだ」


 ミンウェイは「え?」と声を漏らしたまま絶句し、切れ長の目を何度もまたたかせた。

 そんな彼女に伝わるように、そして〈ケル〉と〈ベロ〉に語りかけるように、ルイフォンは静かに続ける。

「メイシアがさらわれた日、俺はエルファンと共に〈ベロ〉に会いにいった。そのとき、『〈ケルベロス〉は、人間の記憶を使って作られている』――と、〈ベロ〉に教えてもらった」

 鋭く息を呑む音と同時に、ミンウェイの肩がびくりと上がった。閉塞感で満たされた室内に、彼女のまとう優しい草の香が広がる。

「母さんは、セレイエの〈天使〉の力を無効化するために〈ケルベロス〉を作り始めたそうだ。それがどんなに大変なことか、〈スー〉のプログラムをかじった程度の俺でもよく分かる。……母さんにとって、〈ケルベロス〉は絶対に完成させるべきものだった」

 ルイフォンは目線を下げ、唇を噛んだ。無意識に握られた拳が、血の気を失うまで固く閉ざされる。

 母の最期の瞬間。

 彼女は挑発するような目で嗤い、自分の勝利を宣言していたように思う。

 あの日の記憶は、多くは母によって改竄されてしまったけれど、形見となった金の鈴が『あの瞬間』の記憶を守ってくれた。――だから、間違いない。

「〈ケル〉の口ぶりからすると、母さんは自ら、先王に首を落とさせた。でも、〈ケルベロス〉が完成しないうちに、母さんが死ぬはずがないんだ。そもそも、あの自信過剰で、けど、口先だけじゃなくて実力も伴っていた母さんが、いつまでも〈スー〉を完成させなかったこと自体がおかしかった」

 そう考えたら、答えはひとつしかない。

「つまり〈スー〉は、母さんの命と引き替えに完成するもの。――母さん自身が〈スー〉になるように設計されていた、ってことだ」

 生粋の〈天使〉として生まれてしまった娘のために。

 母は命を懸けて、娘を〈天使〉の呪縛から解き放とうとしていた。

 そのことを〈ケル〉は知っていた。だから、『いずれその日が来ることは分かっていた。でも、それは『今』でなくてもいいはずだ』と、ルイフォンに語ったのだ。

 そして、おそらく――否、間違いなく。

 四年前、〈ケル〉が覚悟していたよりも早く、母が〈スー〉を完成させたのは、セレイエのためだ。ちょうどそのころ、セレイエの息子ライシェンが殺されたのだから。

 母は、なんらかの方法でセレイエの力になろうとしたのだ。


 ……なんとも、母親らしい最期ではないか。


「エルファンも、俺と同じように考えたと思う」

 今ごろ、彼は地下の小部屋で光のたまを見つけていることだろう。

 けれど、そのたまは何も応えない。

 何故なら、ルイフォンがまだ母の『手紙』の解析を終えておらず、〈スー〉のプログラムを入力していないからだ。

「……っ」

 ルイフォンは虚空を見上げ、猫の目を見開いた。

 それから、ふっと息を吐く。肩が丸まり、いつもの猫背が強調され、母親譲りの癖の強い前髪が瞳に掛かった。

「……地下に行くのはやめだ」

「えっ!?」

 話に聞き入っていたミンウェイの、つやのある美声が裏返る。彼女は当然、ルイフォンは地下に行くものと思っていた。

「俺は、〈七つの大罪〉のデータベースに侵入クラッキングするために、ここに来たんだ。目的を間違えたら駄目だろ?」

「え、でも……」

「それに、俺はまだ、母さんから渡された『手紙』の解析を終えていない。そんな状態で、母さんの――〈スー〉の前には出られねぇよ」

 彼はそう言って、猫の目を細める。

 本心を言えば、何も反応がないのが分かっても〈スー〉に会いたいと思う。だが、口に出して言った通り、面目ないというのがひとつ。

 そして、もうひとつ。

 ――エルファンと、ふたりきりの再会のほうがいいだろ?

「というわけで、俺たちは、上の部屋の端末から〈七つの大罪〉のデータベースに侵入クラッキングだ」

 好戦的に口角を上げ、ルイフォンは上階を示す。

「ミンウェイ。悪いけど、俺が作業を始めたら、待っている間に電話でもメッセージでもいいから、携帯端末でエルファンに連絡を入れてくれ。『地下はエルファンに任せた。俺は、上の部屋にいる』ってな」



 勝手知ったる間取りであるため、端末のある部屋の見当はついている。

 しかし、廊下を歩きながら、ルイフォンは一抹の不安を抱えていた。

 ここには〈悪魔〉であった〈スコリピウス〉のコンピュータが残されていると思っていた。だから、それを使って〈七つの大罪〉のセキュリティの壁を打ち破れると期待していた。

 だが、実際にあったのは〈スー〉。――この目で確認はしていないが、地下に行ったエルファンが戻ってこないので、そう言い切ってよいだろう。

 まだ目覚めていない、光のたまの真の〈スー〉と、ルイフォンが張りぼてと呼ぶ、巨大なコンピュータの〈スー〉が、ここにはある。

 今回、ルイフォンが必要としているのは、侵入クラッキングに利用できるコンピュータだ。

 だから、張りぼてのほうの〈スー〉ということになるのだが、〈スー〉は〈七つの大罪〉とは関係なく、母のキリファが作ったものだ。兄弟機の〈ベロ〉からは侵入クラッキングできなかったことを考えると、望みは薄くなるのではないか……。

〔あらぁ、ルイフォン。どうしたの? 浮かない顔ねぇ〕

 出し抜けに、ルイフォンの携帯端末が高飛車な声を響かせた。まるで彼を挑発するように、ブルブルという不快な振動まで加わる。

「〈ベロ〉!?」

〔せっかく、〈スー〉を見つけたっていうのに、やせ我慢するしぃ〕

「な……っ!?」

 思わず反応を返したのは失態だった。〈ベロ〉が、実に嬉しそうに哄笑を上げる。

 もしも相手に実体があったなら、ルイフォンは詰め寄り、襟首を掴んで『黙れ!』と睨みをきかせただろう。

 しかし、〈ベロ〉だ。

 無視するしかない。そもそも、シャオリエと同じ人格なのだから、関わってはいけないのだ。

 ルイフォンは黙って、携帯端末の電源を切った。

 ――が、無駄なことだった。

〔あああああ! いきなり切るなんて酷いわぁ! せっかく、いいことを教えてあげようと思ったのにぃ!〕

 耳をつんざくような金切り声に、ミンウェイの携帯端末のスピーカーが音割れを起こす。驚いたミンウェイが慌てて音量を調整しようとしたが、乗っ取られてしまった端末は制御が効かなかった。

「な、何これ!?」

 ミンウェイがおろおろしているうちに、今度は清らかな声が滑り込んだ。

〔〈ベロ〉様。今のは〈ベロ〉様が悪いです。あんなふうにからかえば、ルイフォンだって怒ります〕

〔あら、〈ケル〉。お前、ルイフォンの味方なの?〕

〔いえ。私は公平な意見として……〕

「――ミンウェイ。端末の電源を切れ」

 ルイフォンは、冷ややかな眼差しで言い捨てた。

「え、でも、何か教えてくれるって……」

〔ルイフォンも、短気を起こさないでください!〕

 ミンウェイの戸惑いに、〈ケル〉の叫びが重なり、それが更に続く。

〔あなたは基本的にはいい子なのに、どうして斜に構えた、無意味な格好つけばかりするんですか! 子供のころから、ちっとも成長していません!〕

「…………ミンウェイ、切れ」

〈ケル〉は、ルイフォンが生まれ育った家に『憑いている』ような『もの』だ。考えようによっては、〈ベロ〉以上に面倒臭い相手であった。

〔待ってください! ルイフォン、聞いてください。――大丈夫です、うまくいきます〕

 早口に告げられた〈ケル〉の言葉に、ルイフォンは「え?」と呟く。

 そして〈ベロ〉もまた、意地の悪い、思わせぶりなを台詞を吐いた。

〔〈スー〉は特別なのよぅ〕

 くすくすと笑う音声の裏側に『要求』が見えた。ルイフォンは舌打ちをしてから、自棄になって叫ぶ。

「……俺が悪かった! だから、教えてくれ」

〔初めから、そう言えばいいのに。素直じゃないんだからぁ〕

 いい加減にしろ! ――という言葉を呑み込み、ルイフォンはじっと耐える。その甲斐あってか、〈ベロ〉はすぐに話を進めてくれた。

〔キリファが〈ケルベロス〉を作った目的は覚えているわね〕

「『〈冥王プルート〉』の破壊――だろ?」

 ルイフォンはそう答え、探るように付け足す。

「『〈冥王プルート〉』なんて言われても、俺にはなんだかさっぱりだ。……けど、王とか〈七つの大罪〉にとっては重要な『何か』――だったな?」

〔ええ、そう。私が口にすれば『契約』に抵触する『それ』は、〈七つの大罪〉と密接な関係がある。――言い換えれば、〈ケルベロス〉が目的を達成するためには、〈七つの大罪〉にまったく接触アクセスできないような状態では、お話にならない、ってことよ〕

「――!」

 ルイフォンの目が大きく見開かれ、希望に輝く。そこに〈ケル〉がそっと補足してくれた。

〔キリファは〈スコリピウス〉の遺産をもとに〈スー〉を作ったんです〕

「――なるほど。ありがとな!」

 先ほどまでの不機嫌をすっかり忘れ、ルイフォンは抜けるような青空の笑顔を浮かべた。

 よく考えれば、〈ケル〉と〈ベロ〉が出てこなくても、実際に侵入クラッキングを試してみれば分かったことかもしれない。けれど、ふたりはわざわざ、ルイフォンの背中を押しに来てくれたのだ。

〔あとは、お前の技倆うで次第よ。せいぜい頑張りなさいね〕

「ああ、任せろ!」

〈ベロ〉の声に、ルイフォンは胸を張る。反らせた背中の上で、金の鈴が踊る。

〔ルイフォン。……エルファンをここに連れてきてくれて、ありがとう〕

〈ケル〉は、エルファンに対して罪悪感をいだいていた。仕方がなかったとはいえ、キリファの死の瞬間を見せたことで、ずっと苦しんでいた。

「こっちこそ、ありがとな」

 ――きっと、母さんも喜んでいるから……。



 そして――。

〈七つの大罪〉のデータベースに侵入クラッキングするにあたり、何も障害がなかったわけではない。

 だが、今までの苦労からすれば些細なもので、あれだけ強固に思えたセキュリティの壁は、ルイフォンの手によってあっけなく穴が穿たれた。

 興奮を帯びたテノールが、鋭く響き渡る。

「ミンウェイ! ヘイシャオの報告書を手に入れた。――一緒に見る……で、いいよな?」

 力強く放たれた叫びは、しかし途中で勢いを失い、語尾は消え入るようにかすれていた。

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