幕間
永遠の連理
『連理の枝』などというものは、ただの夢物語だ。
ミンウェイの体は、限界に近づいていた。
俺がどんなに気休めを言ったところで、ミンウェイ自身が一番よく分かっているだろう。
だから俺は、ついに禁断の領域に手を出した。
「……ミンウェイ。君の細胞から、新しい君の体を作った。先天的な病の因子をすべて取り除いた、健康な肉体だよ」
自分の声であるはずなのに、まるで他人が喋っているかのようだった。
俺は、〈悪魔〉だ。
『研究のために、魂を捧げた者』だ。
目には見えない真っ黒な翼を白衣に押し込め、血まみれの両手を洗い流して、そ知らぬふりをする。そうでもしていないと気が狂いそうだった。
「〈
「ヘイシャオ! ――それって……」
ベッドの上のミンウェイは、ただでさえ青白い顔を更に蒼白にした。血色の悪い唇が小さく開かれたまま、言葉を失っている。
「そうだね。驚くよね」
俺は、彼女には決して見せられない〈悪魔〉の顔を隠して、優しく微笑む。
毛布の上に出ていた彼女の手を取り、握りしめた。寝間着の袖がめくれると、透き通るような白い肌が露出する。かさついた皮膚には、無残な点滴のあとが無数に残されていた。
健康な肉体を得れば、彼女はこんなに苦しまなくて済むのだ……。
「君が脅えるのも無理はない。何しろ、俺が世界で初めて確立した手法だ。――けど、安心してほしい。実験は成功している。協力してもらった被験者は、新しい肉体で、新しい人生を送っている」
俺の言葉は、すべてが嘘ではないが、すべてが真実でもない。
成功例もあれば、失敗例もある。成功したところで、存在しないはずの人間だ。どんな新しい人生があるというのだろう。
俺は、『悪魔』だ。
ミンウェイのためになら、魂など要らない。
「怖いことはないよ。臓器移植と同じだ。具合の悪いところを取り替えるだけだ」
「違う! 違うわ、ヘイシャオ!」
この弱ってしまった体の、いったい、どこにそんな力が残っていたのか。彼女は、俺の手がきしむほどに握り返し、全身で声を震わせた。
「絶対に、嫌……!」
そう叫んだ途端、彼女は胸を押さえて苦しみだす。
まずい。興奮させすぎてしまった。
俺は慌てて彼女に鎮静剤を打ち、眠りにつかせる。
このぬくもりを失ってなるものかと、すがるように抱きしめながら――。
「ヘイシャオ」
数日後、容態の落ち着いたミンウェイが、例の話を切り出してきた。
「『それ』は、私じゃないわ。私のふりをした、私じゃないものが、私の代わりにあなたのそばに居るだけ」
床に
彼女の言葉は、少しの揺れも
「このぼろぼろの体を引きずりながら、必死にあなたと生きたいと願っているのが『私』なの」
ベッドから伸ばされた手が、俺を呼んだ。彼女の調子が良いときは、体を起こしてやるようにしている。それをねだるように、彼女の瞳が俺を見上げていた。
促されるままに、俺はゆっくりと電動ベッドを上げる。途中で彼女がよろけたりしないよう、すっかり細くなった体にそっと手を添えて。
やがて彼女の目線が、かがんだ俺の襟元に来たとき、彼女の両手が俺の白衣を掴んで引き寄せた。
「ヘイシャオ。私は、あなたのおかげで、ここまで生きてきたわ」
澄んだ眼差しが、俺を捕らえる。
「この体は、あなたが大切に守ってくれたもの。出来損ないかもしれないけど、凄く
「ミンウェイ……」
「記憶にも、肉体にも、私はあなたを刻み込んできた。――それが『私』。幼いころからずっと、この『私』が、あなたと時を過ごしてきたのよ」
ふわり、と。
重さを感じないような両腕が俺の首に回され、甘えるように頬をすり寄せてくる。病人特有の匂いの中に、子供のころ一緒に駆けた、懐かしい野原の草の香を感じた。
「……っ」
胸が苦しくてたまらない。
彼女の言っていることは理解できる。
俺だって、彼女の体を生き
けれど、残酷な現実は、許してくれない。
彼女の体は、二十歳までは生きられない。
分かっていたことだ。
俺も、彼女も――。
「――駄目だ……」
俺は、子供が駄々をこねるように身をよじった。
「駄目だ! 駄目だ、ミンウェイ。それじゃ、俺のしてきたことが全部、無駄になる! ――今まで俺は、なんのために生きてきた! ……俺は……なんのために……!」
〈悪魔〉の行為の告白を、俺はかろうじて飲み込む。
けれどミンウェイは、俺の言葉の先を、俺の代わりに続けた。
「『なんのために、殺してきた』」
俺と生きてきたミンウェイが、知らないわけがない――。
なんのために生きてきた。
なんのために殺してきた。
「私が、あなたと生きたいと願ったから、あなたは私を生かすために生きて、私を生かすために殺してきたの」
「ミンウェイ!」
「あなたがしてきたことは、無意味なんかじゃない。刹那の時かもしれないけれど、私の願いは叶ったわ。だから、私は幸せよ」
彼女が、泣きながら笑う。
幸せの裏に何があったのかを知りつつも、それでも幸せを感じていた人でなしだと、自分を責めながら……。
「まだだ! これからだ! これから、もっと……!」
「ヘイシャオ、落ち着いて。これから先のあなたのことを考えるの。ふたりで、一緒に……!」
「嫌だ! ミンウェイ、俺が君と生きたいんだ! 俺が、辛いんだ。俺が、耐えられないんだ。俺が、君を失いたくないんだ!」
愚かしいほどに取り乱し、彼女の細い肩を抱きしめる。
血も涙もないはずの俺の目から、涙があふれた。
「あなたは苦しみながら、〈悪魔〉の罪を重ねてきた。でも、それは私のための罪よ。だから、私の罪であるべきなの。あなたが背負うことはないわ」
言葉が空回りをしているのを感じた。
「あなたの〈悪魔〉としての罪は、私がすべて持って逝く。だから、あなたは〈悪魔〉をやめて鷹刀に戻るの。それが私の、今の願いよ」
彼女は、俺の技術を受け入れない。
「あなたは、私のあとを追うつもりなのでしょう? 駄目。許さない」
ずっと連絡を絶っていたお義父さんに、数年ぶりに電話を掛けた。
「ヘイシャオ。私は生きたい。本当は生きたい。あなたと生きたい。『死にたくない』じゃないの、『生きたい』なの」
……お義父さんには失望した。
「生きて」
「それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから」
「……あなたを独りにしない」
「だから、お願い……」
「――ヘイシャオ、生きて……」
「ヘイシャオ、大好き。愛している」
そして――。
ミンウェイは俺を置いて逝ってしまった。
あの子を遺して……。
――再び君に逢うために――。
記憶の君は少女のままで、私は君を置き去りにして歳を取った。
君と離れた長い年月の中で、私は罪を犯していった。
どんなに面影を残していても、あの子は君ではなかった……。
別れを告げてから、十数年が経つというのにも関わらず、エルファンは身勝手な私の呼び出しに応えてくれた。
指定した場所に現れた彼は、昔の面差しを残しつつ、以前のような明朗さを失っていた。どことなく陰りがあるように感じるのは、眉間に深く刻まれた皺のせいだろうか。
〈七つの大罪〉――すなわち国王の庇護を失った鷹刀は、想定通りではあるが、一時期、かなり弱体化した。しかし、総帥イーレオのおおらかな人望と、次期総帥エルファンの規律に対する厳格さによって、再び盛り返した。
結果だけ見れば、新しい鷹刀は、うまく舵取りをしてきたように感じる。しかし、おそらく、そうではないだろう。
私が鷹刀に残っていれば、少しはエルファンの負担を軽くできたのだろうか。
一瞬だけ、そんな考えがよぎる。
けれど、すぐに打ち消した。
たとえ時が戻ったとしても、私にはミンウェイと生きる道しか選べない。何度、選択を迫られたところで、どんなにわずかだったとしても、彼女との刹那の時間を伸ばすことを願うだろう。
「お父様……?」
私の後ろで、〈ベラドンナ〉の気配が揺れた。私とそっくりなエルファンに動揺していた。
血族に囲まれて育った私にとっては、同じ顔など珍しくもない。だが、〈ベラドンナ〉にとっては初めて見る、私以外の血族だ。驚いて当然だろう。
「ヘイシャオ。その子は……」
私と同じ声が呟く。とはいえ、エルファンのほうは生粋の鷹刀の容姿を持つ〈ベラドンナ〉に、疑問を持つことはなかった。
「エルファン。ミンウェイが亡くなった。……もう、十数年も前のことだ」
「……ああ」
「墓は、彼女が一度だけ行くことができた、あの海の近くにある。君や姉さんたちと泊まった、丘の上の別荘を買い取った」
「……そうか」
エルファンの視線が、遠くの海を見つめる。
「ヘイシャオ、感謝している。……あいつは幸せだったと思う」
私は『勿論、幸せにしたさ』と、言い掛けてためらった。
幸せにした。それは間違いない。
けれど、最期の瞬間に、彼女が幸せだったのか。安心して逝くことができたのか、私には分からない。
そして今の私は、許されざる
「病弱に生まれた血族は、何ひとつ
エルファンの眉間の皺は相変わらずだったが、新たに目元にできた皺が、彼の表情を穏やかなものにしていた。そこには、懐かしい少年のころの輝きが垣間見えた。
「ヘイシャオ、すまなかった。お前ひとりに背負わせた」
「そんなことはない。……私は、幸せだった」
幸せだった。
彼女と生きることができて。
けれど、この世界には、彼女はもういないのだ。
「それで、ヘイシャオ。今日はどうしたんだ?」
それは、当然の疑問だろう。
「――帰って……来るのか?」
エルファンの声は、期待に震えていた。冷酷な次期総帥を演じてきた月日のせいか、彼の感情の起伏は昔のように明確ではない。けれども、私には分かった。
私は、ゆっくりと首を振った。
そして彼に背を向け、数歩、離れる。
それから再び、くるりと振り返り、腰の刀の柄を握った。
「エルファン。私は、鷹刀の前総帥の後継者の息子だ。だから、私こそが、正当な鷹刀の
「ヘイ……シャオ……?」
「私は、鷹刀イーレオを倒して総帥になる。まず手始めに、次期総帥の君を討つ」
エルファンの美貌が彫像のように固まり、それから深い溜め息が落とされた。
「――そういうことに、したいんだな……」
彼の口元が、ぐっと歪んだ。奥歯を噛み締めたのだろう。
双子のように育った、私の従兄――私の親友。
音信不通の日々を飛び越え、何も言わなくても彼は理解してくれた。固く握りしめた、彼の拳が震えている。
「……ああ。すまない」
俺の肯定に、エルファンは軽く頭を振った。
「あいつは我儘だったから、お前に誓わせたんだろう? ――決して、自ら命は絶たない、と」
「……」
「お前が逆らえるわけがない。まったく、酷い妹だ。おかげで、兄の私が尻拭いというわけか」
投げやりにも聞こえる口調は、しかし見せかけだ。
「理由を訊かないのか?」
「お前から言わない以上、言いたくないんだろう?」
「……っ」
「だったら訊かないでいてやるさ。――あいつの死を、ひとりで背負ったお前の頼みだ。後悔しようが構わない――」
エルファンの理知的な眼差しが、優しく私を包み込む。胸の中に、懐かしい温かさが広がっていく。
「引き受けてやるよ」
「ありがとう……」
エルファンが双刀の柄に手をやるのにあわせ、私も銀の刀身をすらりと抜き払った。
手元の鍔飾りには、可愛らしい小さな花があしらわれている。
ベラドンナの花だ。
ミンウェイを亡くしたあと、〈悪魔〉として研究を続ける意味を失った私は、名ばかりの研究員となった。〈七つの大罪〉からは、たいした資金を与えられなくなり、私は暗殺者として生計を立てることにした。
これからは、〈ベラドンナ〉のために生きる。その決意を込めて、仕事道具となった刀の鍔飾りをベラドンナの花にした。
なのに私は、すっかり忘れてしまった。
そして、罪を犯したのだ……。
「お父様……! 嫌ぁ……!」
〈ベラドンナ〉は、ミンウェイではない。
だから、解放してやらねばならない。
いつまでも、こんな狂った私に縛られていたらいけない。
「お前の父は、私が殺した」
「――あ、ああ……、いや……」
「お前は私を恨め。誰かを恨んでなければ、やっていられないだろう」
「――――! ――――……!」
エルファンと〈ベラドンナ〉の声が聞こえる。
これでもう、〈ベラドンナ〉は大丈夫だろう。
幸せにおなり、私の娘……。
――再び君に逢えたなら――。
俺は、夢物語の願いを叶える。
君と共に、歳を取りたい。
君のそばで、
君と刹那を積み上げ、刹那を繋ぎ合わせ、刹那を連ね続け……。
刹那を重ねていけば、それは、いつかきっと、
君が憧れた、あの海を見ながら、俺たちの墓標は寄り添うだろう。
連理の枝のように――。
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