6.塔の上の姫君-1
培養液に満たされた硝子ケースで、赤子がまどろむ。
陽の光を溶かし込んだような白金の産毛が、ふわりとたゆたう。
空の色を写し取ったような青灰色の瞳が、ぴくりと
『ライシェン』を目にした瞬間、メイシアの中に、セレイエの記憶が押し寄せてきた。
腕の中に感じる、温かな重み。
胸の中にあふれる、狂おしいほどの愛情。
思いの渦に呑み込まれ、翻弄される……。
『デヴァイン・シンフォニア
ライシェンに。
叶えられなかった幸せを――。
与えられなかった未来を――。
ルイフォンとふたりで、『ライシェン』を守って……。
はっと目を覚ますと、メイシアは、豪奢な天蓋付きのベッドの上に寝かされていた。
全身を包み込む寝具は、極上の柔らかさを誇り、天蓋から垂れ下がるカーテンは、しっとりとした光沢を放ちながら、優美なドレープを揺らす。
体を起こせば、そこは見知らぬ部屋であった。
〈
中央にはベッドに合わせたようなアンティーク調のソファーが据えられており、少し離れたところには品の良いローチェストがひっそりとたたずんでいる。窓は一面の硝子張りで、明るい光が注がれていた。
ひと目見て、貴人がくつろぐための部屋だと分かった。
と、同時に、メイシアは青ざめる。
ここは、〈
――陛下のベッドで休むとは、なんとも
もと
彼女は、まるで逃げ出すかのように、そろりとベッドを降りた。
部屋全体から、長い間、使われていなかった空間特有の湿った臭いがした。うっすらと埃も感じ、窓を開けようと思い立つ。
そのとき、彼女はこの部屋の異質さに気づいた。
窓硝子が、平面ではなく、曲面を描いていた。よくよく床を見てみれば、ベッドのある壁側を直径とした半円形になっている。
「パノラマ展望台……?」
こんな形状をした部屋といえば、そのくらいしか思いつかない。そういった展望室であれば、床は完全な円形で、全方向三百六十度が見渡せるはずだが、ここは、ちょうど半分にしたかのようだった。
窓際に寄り、メイシアは自分の推測が正しいことを知る。
彼女は、塔の上にいた。
王都にある電波塔と比べれば、おもちゃのようなものであるが、それでも常とは違う高さにひやりとする。
眼下に広がる緑の大地は、遥か彼方まで続いているかのように見えた。
一方、足元となる真下には、この塔の入り口らしき部分が見え、数人の見張りが立っている。隣には、〈
そういえば、ルイフォンが庭園の地図を手に入れたとき、館の隣には、古い時代の建築を模した、石造りの展望塔があると言っていた。
〈
換気をしようと思ったのだが、残念ながら窓は開けられないようになっていた。高い塔の上なのだから、安全のため当然の造りかもしれない。
仕方ない。空調はついていたので、それだけでも、ありがたいと思わなければ……と溜め息をついたとき、メイシアはふと気づいた。先ほどまで彼女を拘束していた手枷が外されている。
『その枷は、あなたの置かれた立場を分かりやすく伝えるための措置です』
〈
つまり、今度は高い塔に監禁することで、囚われの身分を表しているつもりなのだろう。実に分かりやすく、
「ルイフォン……」
メイシアは、ぽつりと呟いた。
――ルイフォンに逢いたい。
〈
この先どうなるのか、不安でたまらない。
〈
彼に『ライシェン』を見せられた瞬間、自分の意識がセレイエの記憶と繋がったのを感じた。
切なさで、胸が押しつぶされそうになった。
セレイエが託した思いを――『デヴァイン・シンフォニア
――けれど。
メイシアは、心の痛みを押さえるように、胸に手を当てた。
――ルイフォンに逢いたい……!
〈
けれど。
それらは決して、メイシアとは相容れない。
――ルイフォン、助けて……!
ひとりで抱えるには、あまりにも重すぎる……。
メイシアは滲んできた涙を拳で拭い、嗚咽をぐっとこらえた。
声に出して叫んでしまったら、きっと泣きじゃくって、心が弱くなる。だから今は、歯を食いしばって、平気な顔をする。
なんとしてでも、この庭園から抜け出し、ルイフォンのもとに帰るのだ――!
メイシアは現実と向き合うように、黒曜石の瞳を凛と大きく見開いた。
「これから〈
彼女は口元に手を当てて、眉を寄せた。
セレイエの記憶から得た情報を、正直に〈
――否だ。
情報には、価値がある。いつも、ルイフォンがそう言っているし、メイシアもそう思う。
どんな些細な情報だって〈
メイシアは、受け取った記憶を反芻する。
彼女に刻まれた記憶は、正確には『セレイエ』ではなくて、『セレイエの〈影〉のホンシュア』のものだ。
すなわち、セレイエが生まれてから、ホンシュアを〈影〉にした瞬間までの『セレイエ本人』の記憶。そして、その先、〈影〉として行動し、仕立て屋と偽ってメイシアに会ったときまでの『〈影〉のホンシュア』の記憶である。
ホンシュアは、ライシェンの侍女だった。
彼女は『
「…………」
メイシアは思案する。
自分は、あまりにも非力だ。
望みがあるとしたら……リュイセンだ。
〈
リュイセンは希望だ。
彼は、なんらかの理由で〈
身柄を拘束されたメイシアと、おそらく、心理的に束縛状態にあるリュイセン。
ふたりで協力して、この窮地を脱する。
「ルイフォン……」
メイシアは、硝子張りの世界の向こうへと瞳を巡らせる。
「必ず、あなたのもとに帰る」
高く澄んだ声を響かせ、誓いを立てた。
〈
初めに、壁の向こうから、かすかな機械音が聞こえた。メイシアは、
エレベーターがあるのだろう。外観こそは古い様式を真似ていても、療養中の王のための建物だ。階段のみということはあるまい。
固唾を呑んで身構えていると、案の定、〈
「お目覚めでしたか」
どことなく嬉しそうに〈
「『ライシェン』を見た瞬間、あなたは気を失ったのですよ。さすがに刺激が強すぎたのでしょうかね」
「……」
どう答えるのが吉なのかを測りかね、メイシアは曖昧な視線を返す。〈
「立ち話もなんですから、向かいの部屋に移りましょう」
「向かいの部屋……?」
「ええ。賢いあなたのことですから、ここが展望塔の上であることには気づいてらっしゃるのでしょう? ならばこの半円形状の部屋が、円形の展望室を二つに分けたうちの片方であることも、お分かりでしょう?」
確かに、それは予想通りであったので、メイシアは素直に「はい」と頷く。
「展望室は、この庭園を作らせた王のお気に入りの場所だったそうですよ。こちらで休息を取り、あちらの部屋で食事を摂る。――そのように使い分けていたようです」
そう言いながら、〈
「今は、どちらもあなたの部屋ですよ」
何気なく付け足されたひとことに、メイシアは驚いて足を止めた。
「どうして、陛下がお使いになっていたような良いお部屋を、私に二部屋も与えるのですか?」
警戒心もあらわな彼女に、〈
「あなたは、私の大事な切り札ですよ。それに見合った待遇ということです。――それより、私がこの部屋に鍵を掛けていなかったことに、気づかなかったようですね」
「え……?」
囚われのメイシアは、部屋からは出られないものと思い込んでいた。だから、鍵を確認するなんて、考えつきもしなかった。しかし、言われてみれば〈
「どうして……?」
「この部屋の鍵が『内鍵』だからですよ。鍵を掛けても、あなたを閉じ込めることはできないのです。――もとは、王の娯楽のために造られた場所なのですから、内鍵は当然でしょう?」
「あ……」
ここは本来、『王の個室』なのだ。外から鍵を掛ける仕様では、『王を閉じ込める』ことができてしまう。それは不敬にあたるだろう。
顔を赤らめたメイシアに、〈
「勿論、塔の入り口には見張りがいます。けれど、この塔の中ならば、あなたは自由に動き回れるわけです。ならば、二部屋とも、あなたに自由に使っていただこうと思っただけですよ」
〈
それを見て、メイシアは、なるほどと思った。
展望室をふたつに分けた造りには、やや疑問があったのだが、大きな円形の部屋であったなら、王がくつろぐための空間にエレベーターと階段が直結してしまう。それは無粋だと設計者が考えたのだろう。
もうひとつの部屋に入ると、そちらも全面が硝子張りの明るい部屋であった。
先に〈
「今は鍵を掛けませんが、あなたがひとりになったら施錠しておくことをお勧めしますよ」
「何故ですか?」
メイシアが首をかしげると、〈
「私の雇った私兵たちが、あなたに悪事を働かないという保証はありませんからね」
静かに落とされた低い声に、メイシアはぞくりと身を震わせた。その反応は、〈
「私にはマスターキーがありますから、あなたに用があるときは、いつでも部屋に入れます。遠慮せずに鍵を掛けて構いませんよ」
賓客をもてなすように扱いながら、その実、自由などひとつもない……。
メイシアは、改めて囚われの身であることを思い知らされた。
脅えた顔の彼女を置き去りにして、〈
「それで、『鷹刀セレイエ』の記憶は、どうなりましたか?」
メイシアが席に着くか着かないかのうちに、〈
〈
ねっとりとした視線が絡みつく。メイシアは自分の手札だと、彼は暗に告げていた。
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