4.響き合いの光と影-1

 ルイフォンは、食い入るように携帯端末を見つめていた。

 やがて、画面の中の映像が、ぐらぐらと揺れ始める。ハオリュウが車椅子で移動を始めたのだろう。

「――……」

 彼は小さく息を吐いた。

 ――今、見聞きしたものは、この国の最高機密だ。

 ルイフォンは目眩めまいを感じ、ふらりと後ろに手をついた。

 掌に、ざらりとした感触を覚える。長いこと使われていなかった空き部屋の床には、絨毯の如く埃が積もっていた。そんなことは入った瞬間に分かっていたことであるが、すっかり忘れていた。

 一瞬、眉をひそめたものの、既にどっかりと座り込んでいるのだから、どうせ尻も埃まみれだ。気にするだけ無駄だった。

 ズボンの太腿あたりで適当に手を拭い、そして彼は思索の海に潜る。

 摂政カイウォルが言ったことは、まず間違いなく真実だろう。王族フェイラに〈神の御子〉が生まれなければ〈七つの大罪〉が過去の王のクローンを作り、王家を存続させていく。――王族フェイラに『闇の研究機関』が必要になるのも道理だ。

 次代の王の誕生は、保証されている。故に、女王の夫は誰でもよく、カイウォルはハオリュウを女王の婚約者にと言った。散々、妹のためと口にしていたが、要するに現在の婚約者である政敵、ヤンイェンを失脚させたいから片棒を担げ、ということだ。

 そして、メイシアが生きていることを知っていると匂わせ、ハオリュウを揺さぶった。メイシアは隠れて暮らしているわけではないから、消息が知られていること自体は不思議でもなんでもない。だが、この情報をどう利用するつもりなのか。――非常に不快だ。

 王族フェイラ貴族シャトーアの政治的な駆け引きに関しては、ルイフォンは門外漢である。カイウォルに対する印象は最悪に近いが、それでも、実は『藤咲家』にとっては、悪い話でもないのは分かる。決断はハオリュウがすべきこと……。

 これから食事だと言っていた。このあとは給仕の者たちがいるであろうから、今の話はこれで終わりだろう。

 ともかく、今日のところは、ハオリュウに危害が及ぶことはなさそうだ。

 そう思い、ルイフォンは、ほっと胸をなでおろす。

 それよりも……。

 彼は、猫のように鋭い目を、一段、深い色に沈ませた。

 ――『ライシェン』だ。

 ごくりと唾を呑み込む。

ムスカ〉は、この館に引き籠もり、『ライシェン』を作っていた。

 つまり、現在の〈七つの大罪〉が、故人であるヘイシャオを蘇らせたのは、『ライシェン』を作らせるためだった――ということになる。

 だが、摂政の話によれば、〈七つの大罪〉は恒常的に過去の王のクローンを作ってきたらしい。ならば、既に技術は確立されているはずだ。

 それにも関わらず、わざわざ死者を――ヘイシャオを――〈ムスカ〉を蘇らせて、『ライシェン』を作らせたということは……。

 すなわち――。


『ライシェン』は、ただの『過去の王のクローン』などではない。

『天才医師〈ムスカ〉』でなければ作れないような、特別な王。

『ライシェン』こそが、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』の中核を成すものだ。


 そして、腑に落ちないのが、死んだ〈天使〉ホンシュアが――異父姉セレイエの〈影〉が、ルイフォンに向かって『ライシェン』と呼びかけたことだ。

 あれは、どういう意味だったのか。


『ライシェン』とは、いったい『何者』なんだ……?


「ルイフォン?」

 リュイセンは、端末を握ったまま動かなくなった弟分の名を呼んだ。

 脇から覗けば、画面に映っているのは、如何いかにも豪勢なご馳走が期待できそうなテーブルセッティングである。だが、綺麗に並べられたナイフとフォークに気づくと、急に肩の凝りを感じた。いくら美味でも、こんな食事はご勘弁願いたい。

 勿論、弟分の目は、こんな映像など見ていない。リュイセンにも、それは分かっていた。

「おい、ルイフォン」

「あ、ああ」

 意味のない返事で応じ、ルイフォンは再び押し黙る。弟分の頭は、完全に異次元に行っていた。

 長い付き合いのリュイセンには、もはや慣れっこのルイフォンの習性だ。しかし、いつまでもここで、ゆっくりしているわけにはいかない。この空き部屋は、あくまでも一時的な居場所なのだ。

 衝撃の話に、ルイフォンの心はすっかり奪われてしまっているが、彼らの目的は〈ムスカ〉の捕獲だ。夜になって、奴がひとりで部屋にいるところを襲う作戦で、昼間のうちに居室の近くの倉庫に潜み、好機をうかがう手はずになっている。

 現在この屋敷にいるのは、大雑把にいって、『〈ムスカ〉の一味』と『摂政の関係者』だ。

 摂政たちがいる間は、〈ムスカ〉の私兵たちは部屋に籠もっている。そして会食の最中は、摂政が連れてきた連中も、饗応で手一杯だろう。

 つまり、館中の目が廊下に向かなくなる『今』こそが、この空き部屋を出て、倉庫に移動すべき時だった。

「ルイフォン。俺たちが今やるべきことはなんだ?」

 リュイセンの声が、低く諭すように響く。決して、怒気も苛立ちも含んでいないのだが、穏やかな威圧がルイフォンの鼓膜を揺さぶった。

 ルイフォンは、はっ、と顔を上げた。一本に編んだ髪が背中で跳ね、金の鈴が飛び上がる。

「……すまん。倉庫に移動しないとな」

「そうだ」

 まだ、部分的に意識が飛んでいそうな顔ではあったが、きちんとした受け答えの返ってきた弟分に、リュイセンは満足する。

「まぁ、お前が喰いつきそうな話だったのは分かる。だが、それは後回しだ。ここは敵地のど真ん中なんだからな」

「ああ。それに〈ムスカ〉を捕まえれば、もっと詳しい情報が手に入る」

 猫の目が、鋭く光った。思考の戻ってきた〈フェレース〉がいれば百人力だ。

「ルイフォン、倉庫までの安全なルートを調べてくれ。お前なしには、俺は動けない」

 そう言って、リュイセンがにっ、と笑えば、「任せろ」という気持ちの良い返事が返ってきた。

 ――ルイフォンは、山ほどある館中のカメラをすべて支配下に置いていた。

 だが、それらをひとつひとつ、目視確認していたのではきりがない。そこで映像を解析し、廊下にあるカメラのうち、動くものを捉えたら表示するように操作した。

 ほとんど無人の廊下である。ごくたまに、厨房と会食会場を行き来する、給仕の者が映るくらいだろう。――そう考えていた。

「なぁっ!?」

 突然、ルイフォンが間抜けな声で叫んだ。

「どうした?」

 慌ててリュイセンが端末を覗き込むと、そこには、ふわふわとした毛糸玉のような黒髪が映っていた。

 あちこちに元気に跳ねまくった癖っ毛は、歩くたびにぴょこぴょこと軽やかに揺れ、天井からのカメラアングルのせいで、もともと小さな体は更に縮んで見えた。くりっとした丸い目と相まって、まるで可愛らしい小動物だ。

 しかし、父親譲りの太い眉は少し内側に寄っており、きょろきょろと忙しなくあたりを見回している。その動作から推測して、迷子と思われた。

「ファンルゥ! なんでこいつが廊下に!?」

 リュイセンも叫ぶ。

 タオロンの娘、ファンルゥ。

 娘の安全を確保するために、タオロンは〈ムスカ〉の部下となったのだが、彼女は確か人質として軟禁されているはずだ。

「部屋を抜け出してきた……んだろうな。やっぱり」

 気の抜けたような、困ったような。どことなく疲れた感じの声でルイフォンが答える。

「――だよな……」

 ふたりが以前、彼女に会ったのは、斑目一族の別荘に潜入したときのことだ。そのときも、おそらく部屋でおとなしくしているよう言われていたであろうに、建物内を勝手に探検していた。

 ……好奇心いっぱいのファンルゥが、素直に閉じ込められているはずもなかったのだ。

「なぁ、ルイフォン。ファンルゥが、うろついているのって、まずい……いや、危険じゃないか?」

 彼女が〈ムスカ〉の許可を得て、部屋を出ているわけではないのは明白だった。しかも現在、この屋敷は摂政の関係者が行き来している。

 子供だからといって、〈ムスカ〉も摂政も、甘く見てくれるような相手ではないだろう。邪魔だ、目障りだというだけで、斬り捨てられるかもしれない。

「ああ。……だから、さ」

 ちらり、と。猫の目が、リュイセンを見上げる。

「ああ。ファンルゥを部屋に送ってから、倉庫に向かうぞ」

 そうして、ふたりは腰を上げた。



 今日が特別な日であることは、小さなファンルゥだって、ちゃんと知っていた。

 なんと、この館にお客さんがやってくるのだ。

 彼女がこの館に来て、もう二ヶ月以上経つが、こんなことは初めてだった。父親のタオロンは余計なことをあまり言いたがらなかったが、見張りのおじさんたちの噂話に聞き耳を立てていたから間違いない。

 この部屋での生活は単調で、ファンルゥは退屈だった。絵本も玩具も、ちょっと素敵なお洋服だってそろっていて、とても満足しているのだが、だんだんと物足りなくなってきたのだ。要するに、飽きてしまったのである。

 彼女が欲しいのは、素敵な『もの』ではなかった。彼女が求めるのは、『どきどき』と『わくわく』だった。

 だからファンルゥは、今日は朝からずっと窓に張り付いていた。

 いつ、お客さんが来るのか、分からなかったからである。

 見逃したら、大変だ! ――そう思っていたら……たくさんの人が来た。

 とても、とてもたくさん来た。次々に車が現れては、いろいろな人が館に入ってきた。料理人の格好の人もいれば、メイドの服の人もいた。

 これでは、いったい誰が『お客さん』なのか、さっぱりだ。

 いい加減、ファンルゥも疲れてきた。彼女の背丈では、窓の外を見るためには椅子の上に乗っかって、ずっと立ち続けていないといけなかったのである。

 それでも、しばらくは足が痛いのを我慢していた。けれど、やがて車が一台も来なくなった。いくら待っても、何も来なくなった。それで終わりだった。

 結局、お客さんは、『どきどき』でも『わくわく』でもなかったのだと、彼女は諦めた。そして、スケッチブックを出してきて、おとなしく絵を描き始めた。

 ――菖蒲の花の絵である。

 まずは水色のクレヨンを取り出して、画用紙のお花畑に水を張った。それから、紫に持ち替えて、ぐるぐると花を描いていく。

 少し前までのファンルゥは、菖蒲の花が水の中から生えていることを知らなかった。けれど今は知っている。

『本物を見てきた』からである。

 勿論、〈ムスカ〉もタオロンも、ファンルゥを菖蒲園には連れて行っていない。彼女は、こっそり窓から部屋を抜け出したのだ。

 窓枠までは高さがあったが、椅子を使ってよじ登れば足が届いた。そして、幸運なことに彼女の部屋は角部屋であり、雨どいを伝えば館の端に備え付けられた非常階段に降りることができた。

 父親譲りの身体能力と猪突猛進さで、彼女は窓からの脱出に成功したのだ。

 ファンルゥは、〈ムスカ〉に貰った、きらきらの石がたくさんついた素敵な腕輪のことも忘れてはいなかった。〈ムスカ〉は、タオロンには『内側に毒針が仕込まれています』と教えたが、ファンルゥには『部屋から出ようとしたら、凄い音が鳴ります』と説明した代物だ。

 彼女は、賢い子供だった。

『凄い音が鳴る』のは、部屋の扉にセンサーが付いているのだと考えた。彼女は『センサー』などという言葉は知らなかったが、数少ない買い物の経験の中で、偶然、万引き犯と遭遇しており、店のドアがビービーと凄い音を鳴らしたのを覚えていたのだ。

 部屋の扉は駄目。だから、窓から抜け出す。

 それに、どうせ扉の前には見張りのおじさんがいる。

 見張りはひとりだったり、ふたりだったりと時々変わる。そして、その中でファンルゥが『居眠りおじさん』と名前をつけたおじさんは、見張りの途中で必ず居眠りをする。扉越しだが、ぐうぐうと大きないびきを立てるので、彼女にはちゃんと分かっているのだ。

 だから、居眠りおじさんがひとりで見張りのとき、彼女はずっと気になっていた菖蒲の花を見に行ったのだ。

 水の中から花が生えていた。

 ファンルゥには衝撃だった。庭いっぱいの大きな花瓶なのかと思って引っ張ってみると、根っこがしっかりと水底の土を掴んでいて、びくともしなかった。

 大発見だった。

 それ以来、お絵かきといえば、ファンルゥはいつも菖蒲の花を描いていた。

 もしも、彼女の絵がもっと細やかなものであれば、父親のタオロンには外に出たことがばれてしまっていたあろう。

 しかし、あいにく、彼女の絵は実に子供らしい、のびのびとした筆致をしていた。そのため、絵心のない彼女の父には、水中から咲き誇る菖蒲の花も、青空を漂う紫の風船も区別できないのであった。

 ファンルゥが画用紙の半分ほどまでを、鮮やかな紫で咲かせたときのことであった。

 不意に、外から車の音が響いた。

 先ほどの車が最後ではなかったのだ。ファンルゥは、なんとなく気になって、窓の下に椅子を運び、飛び乗る。

 黒くてぴかぴかの車が軽快にエンジンをふかせつつ、緩やかな坂を登ってきていた。近づくほどに大きくて立派なことが分かり、きっと特別な人が乗っているのだと思った。

 ファンルゥは身を乗り出すようにして、じっと車を見つめる。

 正面玄関の前で、車は停まった。前方のドアから運転手が降りてきて、車の後ろに回ってトランクを開ける。

 次の瞬間、ファンルゥは「え?」と小さな声を上げた。運転手が折りたたまれた車椅子を出してきて、それを広げたのだ。そして、後部ドアを開け、中にいた人物を抱き上げながら車椅子に移した。

「!」

 子供……だった。ファンルゥより、だいぶお兄さんではあったが、それでもまだ十五歳にはなっていないだろう。

 ファンルゥにとって、車椅子とはお年寄りが使うものだった。老人以外なら、病気で動けない人なのだ。つまり、子供なのに車椅子に乗っている彼は、重い病気で苦しんでいる子に違いないのだ。

 そのとき彼女は、はっと思い出した。

ムスカ〉は、凄いお医者さんなのだ。高熱で苦しんでいた〈天使〉のホンシュアは、〈ムスカ〉の薬であっという間によくなった。嫌な感じがするおじさんだけれど、腕は確かなのだ。

 ――あの子は、〈ムスカ〉のおじさんに病気を治してもらいに来たんだ……。

 体が弱くて外に遊びに行けない子なのだ。きっと、今のファンルゥみたいに、いつも部屋に閉じ込められているのだ。菖蒲の花なんて見たことがないだろう。

 ファンルゥは、自分こそが彼を励ましてあげるべきだと思った。彼に会って、菖蒲の花のことを教えてあげるのだ。

 今日は特別な日だ。見張りのおじさんたちも部屋に籠もっている。きっと、怖い顔のおじさんに、彼がびっくりしないようにとの配慮なのだろう。だから、見張りはいない。

 ファンルゥは描きかけの菖蒲の絵をちらりと見た。

 これじゃ駄目だ、と思った。だからスケッチブックをめくり、今までで一番、上手に描けたお気に入りの一枚を選び、べりべりと破り取った。

 切り取った画用紙をくるくると丸め、それではポケットには入らないことに気づき、広げてから改めて、彼女なりに丁寧に折りたたむ。絵が折れてしまうのは悲しいが、両手が空いていないと雨どいを掴めないのだ。

 そして、ファンルゥは窓を飛び出した。

 お気に入りの菖蒲の絵を、車椅子の少年にプレゼントするために……。

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