5.分水嶺の流路-1
そこは、海を臨む小さな丘だった。
遥か彼方には、真っ青な水平線が広がっている。蒼天と海原との空気を吸い込み、胸いっぱいの潮の香にむせ込めば、裏手にそびえる山々が、そっと背中をさすってくれるかのように枝葉を揺らす。
緩やかに繰り返される波音に
そこに、ふたつの墓標が寄り添うように並んでいた。
「リュイセン……」
ミンウェイは呟く。
説明もなしに、リュイセンに車に乗せられた。道の途中で、もしやと思ったら、その通りだった。
「いいところだな」
「……」
リュイセンの言葉に、ミンウェイは何も答えられなかった。強い潮風が、長い髪をなぶるのもそのままに、押し黙る。
彼は特に返事を期待していたわけではないようで、瞬きすらできずにいる彼女に代わり、ゆっくりと墓標に近づいていった。
普段、人の立ち寄らない場所であるためか、あたりには雑草がはびこっている。それでも、どことなく小ざっぱりしているように見えるのは、たまに誰かが手入れをしてくれているからだろう。
「花でも持ってくりゃよかったか」
周りに咲く野の花を見ながら、リュイセンがひとりごちた。
「どうして、ここを……?」
知っているのか――。
ミンウェイの問いかけに、リュイセンが振り返った。肩までの黒髪を潮風に翻し、こともなげに答える。
「母上に訊いてきた」
「ユイラン伯母様に……!?」
リュイセン母子は『互いに不干渉』を暗黙の了解としていたはずだ。特に、彼が大きくなってからは、挨拶以外の口をきくこともなかったように思う。
それが、どうしたのだろう。
転機となったのは、間違いなく、実兄レイウェンの家へ、倭国土産を持っていったときだ。あの日、彼は変わったのだ。
「この土地の所有者はミンウェイだけど、ミンウェイの気持ちを考えて、ずっと母上が管理していたんだってな」
「ええ、そう……。ここは――私のお父様とお母様のお墓なのに、私が来たのは二回だけ。今日で三回目ね」
記憶に残らないほどに小さなころなら、もう少し来たのかもしれない。けれど、ミンウェイが覚えているのは、たった二回。
「一度目は、私が文字を覚え始めたころ。お父様が連れてきてくださったわ。……お父様は膝を付いて、静かに泣いていた」
リュイセンは眉をひそめた。ミンウェイを苦しめたヘイシャオが、血の通った人間のような態度を取ったことが意外であり、不快だったのだ。
「『大丈夫?』って訊いたら、お父様は物凄い剣幕で怒って……とても怖かったことを覚えているわ。――今なら、あれは照れ隠しみたいなものだったんじゃないかな、って思えるけどね」
そう言って、ミンウェイは小さく笑ったが、「子供に当たるなんて、最低だろ」と、リュイセンが鼻に皺を寄せる。
「そうね……」
父の気持ちは、ミンウェイには分からない。ただ、父が彼女を墓参に連れてきたのは、その一度きりだという事実があるだけだ。
ミンウェイは、急に引き寄せられるように歩き出した。墓前にしゃがみ、ふたつ並んでいるうちの、より古い墓石に手を伸ばす。
――『ミンウェイ』
石に刻まれた文字を、ミンウェイは指でなぞった。風雨に晒され、だいぶ角が落ちていたが、それでもきちんと読み取ることができた。
幼き日にも……。
彼女はこの文字を読み取った。
まだ、すべての文字を覚えきっていなかった彼女でも、これらの文字は知っていた。それは、一番初めに覚えた文字の並びであり、自分の名前であったから――。
「あのとき初めて、私はお母様から名前を貰ったのだと知ったわ。いいえ、お母様がくれたのは名前だけじゃない。この命も――。お母様は、私を産んだことで亡くなったのだと理解した。だから、私はお母様の代わりをすべきだと思った」
リュイセンは、ふざけるな、という言葉を飲み込んだ。
彼女にそう思い込ませた相手――怒りを向けるべき相手は、この墓の下で眠っており、彼にはどうすることもできないのだから。
「私、頑張ってお母様になろうとした……」
ミンウェイは、昔を思い返す。
病弱だった母にはできなかったことをして、母が夢見た人生を代わりに生きようとした。
「でもね、やっぱり辛かった……」
彼女は唇を噛み、顔を伏せる。
「ミンウェイ」
ふわりと空気が揺れ、リュイセンが隣にしゃがみ込んだ。優しく慰めるように、そっとミンウェイの背に腕を回す。
彼女はびくりと体を震わせ、彼の手が肩に触れる直前に慌てたように立ち上がった。
「ごめんね、こんな話をして。――今の私は、あのころとは違うから。心配いらないわよ?」
綺麗に紅の引かれた唇を滑らかな弓形に吊り上げ、ミンウェイは微笑んだ。けれど、凪いだ笑みは諦観に酷似しており……リュイセンは反射的に
「無理するなよ!」
彼女を追いかけるようにして、リュイセンも立ち上がる。勢いのまま、彼女を抱き寄せようと手を伸ばす。
――が。その途中で、彼は彼女の瞳の奥に脅えを見た。
「すまん……」
気まずさに、視線をそらす。それでも懸命に「けどな……」と、彼は言を継いだ。
「〈
「……そうかもしれないわね」
ミンウェイは、無理をあえて否定しなかった。けれど、先ほどまでの凪いだ笑みを、茶目っ気たっぷりのいたずらな表情に差し替えた。
「でもね、私は鷹刀に来て変わったの。それは本当よ? ユイラン伯母様が、私を変身させてくれたの」
「変身?」
「昔の私は、常におどおどと脅えている、卑屈な泣き虫だった。だから伯母様は、自信に満ちた、華のある素敵な女性になりなさいと言って、鮮やかな緋色の服を着せてくれたの。嫌でも目立っちゃうような、派手なやつをね」
ミンウェイは、くすくすと笑う。
少女服を作るのが趣味だったユイランには息子しかおらず、娘も同然のシャンリーはお世辞にも女の子らしいとは言えなかった。だからユイランは、突然現れた姪を着飾らせたくてたまらなかったのだ、という事実があるのもミンウェイは知っている。
けれど今、彼女が自ら選んで着ている服は、綺麗な緋色をしている。その色は、もはや彼女を象徴する色となっていた。
「それから、この髪も――。こっちは、伯母様が親しくしていた美容師さんがやってくれたんだっけ?」
誇示するかのように、ミンウェイが長い髪を首筋から掻き上げると、強い潮の香を押しのけ、ふわりと草の香りが広がった。彼女の本来の髪は、リュイセンと同じくまっすぐに地に流れるもの。それが、軽やかに波打っている。
「うつむいているのが似合わないような姿に変身させられちゃって、伯母様とシャンリーが入れ代わり立ち代わり世話を焼いてくださって……そしたら、いつの間にか、私は逞しくなったわ」
それは、鷹刀一族の中で生活するために作られた、偽物の自分だと思っていた。けれど先日、シュアンが『本物も偽物もない』と言ってくれた。『あんたは、あんただ』と。
だからミンウェイは、今の自分を誇りに思う。今の自分を作ってくれた人たちに、感謝してもしきれない。
「……おかげで、俺は長いこと、ミンウェイは義姉上と同じ乱暴者だと信じていたんだぞ」
「あら、シャンリーは強いけど、優しいわよ?」
「優しくても、義姉上が俺に容赦ないことは変わらないだろ」
「それはリュイセンに期待しているからでしょう?」
大きな図体をして、いまだにシャンリーを恐れる彼を、ミンウェイは
母親と不仲だったことに加え、姉貴分のシャンリーには歯が立たず、異母姉のセレイエには
……けれど。
初めて会ったときには、つむじすら見下ろすことのできた小さな従弟が、今は逆にミンウェイを見下ろしている。リュイセンにとって、自分が庇護の対象に変わったことを、彼女は知っている。
心臓が、ちくりと痛んだ……。
崖下で繰り返される波音が、ふたりの間を寄せては引いていく。
ミンウェイは音に身を任せる。このまま永遠に、穏やかな波間を漂っていたいと思う。
けれどリュイセンは、流れをせき止めた。「ミンウェイ」と彼女の名を呼んだ。
「ミンウェイが二回目にここに来たのは、ヘイシャオ叔父の骨を納めに来たときだよな?」
「ええ」
葬儀はなかった。鷹刀一族に刃を向けた人間だから、当然だ。
けれど、妻のそばで眠りたいという、ヘイシャオの最期の願いは叶えられた。エルファンとユイランがここに墓を建て、骨壷を抱いたミンウェイを連れてきた。
――それが、どうしたというのだろう?
「ミンウェイは、叔父上の死を……その目で見ている」
真剣な面持ちのリュイセンに、ミンウェイは胸騒ぎを覚える。
「ミンウェイは、その手で遺骨をこの墓に納めた。――だから、ミンウェイの父親のヘイシャオは、もはやこの世に存在しない人間だ」
「ええ。……そう、よ?」
「なら、鷹刀の周りをうろついている〈
リュイセンは、黄金比の美貌でミンウェイを覗き込んだ。
その双眸は、しっかりと彼女を捕らえている。――彼の手はかわせても、彼の瞳からは逃げられないことを、彼女はそのとき初めて悟った。
「ミンウェイ」
魅惑の低音が、彼女を絡め取る。
「いつまで、叔父上に囚われているつもりだ?」
「囚われてなんかいないわ。変なことを言わないでよ」
ミンウェイは華やかに笑う。軽やかに、虚勢を張って。
「じゃあ、言い方を変えよう」
リュイセンは間合いを詰めたりはしない。ミンウェイだって、一歩も動いていない。けれど彼女は、自分が見えない壁に追い詰められていくような気がしてならなかった。
「ミンウェイは、俺の父上――ミンウェイの伯父である『エルファン』を『男として』好きだろう?」
「な……、何を言っているの? 随分と、伯父様にも私にも失礼なことを言うわね!?」
彼女は頬を膨らませ、
「ああ、そうだな。確かに失礼だ。ミンウェイの気持ちは純粋な恋愛感情じゃなくて、叔父上とそっくりな父上に、面影を重ねただけだからな」
「え? 何を言って……?」
不快なことを言われた。不愉快だ。
そう思ったのに、何故かミンウェイの口元からは、変な笑いが漏れた。
「ミンウェイは、自分で気づいていないかもしれない。けど、俺の目には明らかだ」
普段のリュイセンは、ぞんざいな口をきくようでいて、どこか彼女には言葉が柔らかい。けれど今は、隠しきれない苛立ちで、責め立てているように聞こえた。
……なのに。
彼は、深く傷ついた顔をしている。
「だから、なんのことよ?」
心地の悪い思いを振り払うように、彼女は語調を強めて尋ねた。
「ミンウェイは、本当は……、……実の父であるヘイシャオ叔父を愛していたんだ」
崖の下で、ざばぁんと。
ひときわ大きな波が打ち寄せ、白い水しぶきを上げた――。
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