1.昏迷のせせらぎ

 イーレオが、全力での〈ムスカ〉捜索を約束した日から数日経った、とある麗らかな昼下がり。リュイセンは、弟分であるルイフォンの仕事部屋を訪れた。

 足を踏み入れた途端、冷風の出迎えを受けるのは、相変わらずだ。とはいえ、このところの陽気からすれば、それはさして苦にはならない。

 しかし、折角のよい日和にも関わらず、陽射しの恩恵が皆無というのは、如何いかがなものだろうか。

 窓のない部屋は、煌々とした電灯に照らされ、並べられた機械類は昼夜の区別を知らない。いくら充分な光量があったとしても、これでは陰気な異空間としかいえないだろう。

 リュイセンは渋面を作った。

 ルイフォンと初めて会ったとき、随分と生白なまっちろい奴だと思ったが、こういう穴ぐらで生活していれば当然なのだ。鷹刀一族の屋敷に来てからは、チャオラウに鍛えられて少しはましになったものの、一族を抜けて『対等な協力者』になったあとは、まともに稽古もしていない。忙しいのは分かっているが、たまには外に出て体を動かすべきだと思う。

「ルイフォン。ちょっといいか?」

『鍵は開いているから、勝手に入ってこい』が、ルイフォンの姿勢である。遠慮は要らない。けれど、彼が母親からの『手紙』の解析に集中しているのは知っているので、控えめな声になった。

「んー?」

 返事はあっても、うわの空だった。モニタの前で難しい顔をしている弟分の頭は、異次元を散歩しているらしい。

「……また、あとにする」

「ちゃんと聞いているよ」

 緩慢な動きで振り向き、ルイフォンはOAグラスを外した。作業を中断されるのを嫌う彼にしては、珍しいことだった。ただし、機嫌は悪そうであるが。

 面倒臭そうに、用件は? と、顎をしゃくる仕草に、リュイセンは内心むっとしながらも、いつものことなので諦める。回りくどく言っても仕方ないので、単刀直入に切り出した。

「〈ムスカ〉に関して、疑問がある。祖父上たちに話す前に、お前の意見を聞きたい。――いいか?」

 次の会議でいきなり問いかけて、浅慮だと、父のエルファンに一笑されたくないのだ。

 見栄だと、自分でも分かっている。――誰に対する見栄なのかも。

「言ってみろ」

 偉そうな口調だが、他意はない。ルイフォンは、そういう奴だ。

 それどころか、〈七つの大罪〉関係の話であるためか、興味を持ったようだった。特徴的な猫の目が輝き、すっと細まる。

 よい反応だった。リュイセンは腰を据えて話すべく、近くの机の下から丸椅子を引き出した。

「〈七つの大罪〉が、何故、あの〈ムスカ〉を作ったのかが、やはり分からない」

「それは〈七つの大罪〉が、死んだヘイシャオの天才的な技術力を利用したいから、だろ?」

 この前の会議のとき、そういうことで納得したんじゃなかったのか? と、半ば呆れたようにルイフォンの目が言っていた。期待外れの、つまらない話だったと、あからさまにがっかりしたのが見て取れた。

「すまん。言い方が悪かった。それは理解しているんだ。――そうじゃないんだ」

 首を振るリュイセンに、ルイフォンが不審げな顔をする。どうしてもっと簡潔に言えないのかと、リュイセンは自己嫌悪に陥りそうになる。

「俺が言いたいのは、どうしてヘイシャオ叔父の〈影〉では駄目だったのか、ってことだ」

 ルイフォンの眉が、ぴくりと動いた。

 手応えを感じたリュイセンは、語調を強めて続けた。

「〈七つの大罪〉が必要なのは、ヘイシャオ叔父の技術力だろう? つまり、頭の中身だ。ならば、わざわざ新しく〈ムスカ〉の体を作らなくても、保存してあった記憶を使って、誰かを〈影〉にすればいいじゃないか」

 ルイフォンが〈ムスカ〉のサングラスを跳ね飛ばし、奴の素顔が晒されたとき、生前のヘイシャオを知らないリュイセンは、いかにも鷹刀の血族らしい顔立ちだと思った。でも、それだけだ。

 だが、もしもミンウェイがあの顔を見たら――。

 頭では分かっていても、父親が生き返ったかのように錯覚するだろう。そう思うと、いてもたってもいられない。

「それから、純粋に技術力だけが必要なら、どうして『呪い』で支配しない? 俺たちが斑目の別荘に潜入したとき、ホンシュアと〈ムスカ〉の口論を目撃しただろう。俺には、〈七つの大罪〉が〈ムスカ〉を持て余しているように感じられた」

 他界した天才医師の技術力のみが欲しいなら、同じ姿も、人格も要らない。なのに、あの〈ムスカ〉は、ヘイシャオそのもの。ただの駒のくせに、ミンウェイへの執着も変わらずに――。

 ……やはり、ヘイシャオにそっくりな〈ムスカ〉には、何か意味があるのではないかと、勘ぐってしまう。

 とうに滅んだ過去の亡霊にミンウェイが振り回されるなど、リュイセンは許さない。なんとしてでも、彼女を守らねばならぬ――。

 リュイセンが、口には出さない想いを噛みしめていたとき、そばではルイフォンは口元に手を当て、ぶつぶつと呟いていた。

「……ああ、そういえば……そうだよな。……んー。いや、そうでもないのか……」

「ルイフォン?」

 我に返ったリュイセンが声を掛ける。

「うん? ああ。――お前の疑問はもっともだ。だが、俺にはなんとなく理由が分かる」

「え? 分かるのか?」

 リュイセンは、拍子抜けした。――否、正直なところ、かなり落胆した。彼としては大発見の、大手柄のつもりだったのだ。

 その気持ちが顔に出ていたのだろう。ルイフォンは、やや申し訳なさそうに、ぽりぽりと頬を掻く。

「ええと、な。以前、屋敷が警察隊に襲われたとき、捕虜にした奴らがいただろ。あいつらは『〈ムスカ〉の〈影〉』だった。つまり『ヘイシャオの〈影〉』だ」

「あ、ああ」

 そういえば、そうであった。

「で、巨漢の偽警察隊員のほうは、『呪い』で〈ムスカ〉の奴隷になっていた。まさに、リュイセンが『こうすればいい』と言った状態だ」

 リュイセンは、はっと息を呑んだ。その様子にルイフォンは頷き、言を継ぐ。

「ミンウェイの報告を聞いた限りでは、あの巨漢が〈ムスカ〉ほどの切れ者だったとは、俺には感じられない。〈ムスカ〉と同一人物とは思えないんだ。そして、もうひとりの『〈ムスカ〉の〈影〉』――」

「緋扇シュアンの先輩とかいう、正規の警察隊員だった男だな」

「ああ。そいつは、自分には奴隷の『呪い』が掛からなかった、って言っていたんだろ? ――つまり、〈影〉では完璧な同一人物にはならないし、『呪い』も万能なものではない、ってことだ」

「そうなのか……」

 リュイセンとしては、今ひとつ納得がいかなかった。ルイフォンの見解にけちをつけるつもりはないが、『闇の研究組織』と呼ばれている〈七つの大罪〉なら、なんでもできるような気がしたのだ。

「そんな顔するなよ」

 ルイフォンは回転椅子をぎいと鳴らし、背もたれに体を預けた。腕を組み、どう言ったものかと思案する顔は、〈フェレース〉のものだ。

「〈七つの大罪〉の思想というか、人間というものに対する概念というのかな。ヘイシャオの研究の根底にある、人間を『肉体ハードウェア』と『記憶ソフトウェア』に分ける、って考え方。この感覚、俺には理解しやすいんだけど……リュイセン、分かるか?」

「それは、なんとなく把握できていると思う」

 リュイセンがそう答えると、ルイフォンがほっとしたように息をついた。そして、「いいか?」と続ける。

「〈七つの大罪〉は、ヘイシャオという最高の頭脳が記録された記憶ソフトウェアを持っていた。これを活用するためには、肉体ハードウェアが必要だ。――どんな肉体ハードウェアを用意すればいいか」

 そう言いながらルイフォンは、あたりを見渡し、そのへんに放り出されていた記憶媒体を手に取る。

「それは、こいつに入っているものをどのマシンで動かすか、ってことと同じだと思う。ロースペックマシンを使うより、ハイスペックマシンを使ったほうが高速で処理できるってことは、直感的に分かるよな?」

「ああ。つまり、ヘイシャオ叔父の記憶も、馬鹿な奴の体に入れるよりも、頭のいい奴の体を使ったほうがいい――と」

「そういうことだ。単純に知能が高いとかで計れる問題でもないだろうけれど、少なくともヘイシャオの頭脳という記憶ソフトウェアを、最高の性能パフォーマンスで再現できる肉体ハードウェアということなら、当然、本人の体ってことになるだろう」

「けど、新しい体を作るなんて……そこまで性能にこだわる必要が――」

 微妙に賛同しかねて言いよどむリュイセンに、遮るようにルイフォンが言葉をかぶせる。

「あったんだろ。そうでなきゃ、そもそも死者を頼ったりしない」

「確かに……」

 リュイセンの相槌の語尾が、溜め息と共に消えていく。心情的には、まだまだ落ち着かない部分があったが、どうやら納得せざるを得ないようだった。

「けどさ、もし奴隷の『呪い』が掛からなかったとしても、行動を制限する『呪い』くらい掛けてもよさそうなものじゃないか? 〈七つの大罪〉だって手を焼いているんだろう? なのに奴は、好き勝手しているように見える……」

 ただの駒に、ミンウェイをおびやかすような真似をしてほしくない。リュイセンの偽らざる本心だ。

 それは、些細な呟きで、単なるぼやきだった。しかし、どういうわけだか、ルイフォンの琴線に触れたらしい。はっと気づいたときには、弟分の顔から表情が消え去っていた。

「リュイセン、お前の気持ちは分かる。けど〈ムスカ〉に対しては、〈七つの大罪〉は初めから『呪い』を掛ける気がなかったと思う。――少なくとも、俺なら掛けない」

「なっ!? どうしてだ?」

 不可解なことを言われた苛立ち。そして、年下の弟分なのに、ルイフォンが自分よりも遥かに思慮深く感じられたという焦燥が、リュイセンの中でないまぜになる。

「『呪い』というのは〈天使〉による侵入クラッキングだ。他人の脳内を完全に把握しているなんてあり得ないだろうから、手探り状態でやっているはずだ。一歩、間違えればシステムを破壊――つまり、廃人になると思う」

 クラッカー〈フェレース〉の視線が鋭く斬り込まれ、分かるか? と尋ねてくる。

「そんな危険な改竄、俺だったら、せっかく生き返らせた大事な天才医師を相手に、試してみる気にはなれない」

「でも、祖父上だって〈悪魔〉になるときに『呪い』というか、『契約』の脳内介入を受けているけど、問題ないだろう?」

「確かにそう見える。……そう見えるけど、まったくなんの影響もないと、証明できるか?」

 ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げた。ほんの少し、ためらうように息を吐き、「完璧な技術なんてないんだ」と、声を落とす。

「俺は、俺に破れないセキュリティはないと豪語している。けど、本当にそうかと言えば、やっぱり俺にだって不可能はあるし、ミスすることだってある」

 猫の目が一瞬だけ寂しげに歪み、リュイセンはどきりとした。そんな兄貴分の揺らぎを知ってか知らでか、ルイフォンは「〈天使〉も同じなんだ」と独りごつように呟く。

「〈天使〉の能力を初めて聞いたとき、俺は万能な魔法のようだと思った。でも、そうじゃなかった」

 ルイフォンは、おもむろに自分の背に手を回し、一本に編まれた髪を引き寄せた。彼の手の中で、毛先を飾る金の鈴がきらりと光る。

「ちゃんと筋道が通っていないと駄目だ。だから、優秀な〈天使クラッカー〉の母さんだって、この鈴のために、俺の記憶を思った通りには改竄できなかった。……たぶん、俺に遠慮があったと思う。俺にきずをつけてはいけないから、手加減をしただろう」

「……」

「魔法じゃないんだ。技術なんだ。……なんでも思い通りにうまくいくわけじゃない」

 静かにこぼれたテノールが、まるで祈りのように聞こえ、リュイセンは胸を突かれた。

 その響きは、何故か……妻を失いたくないと願ったヘイシャオを連想させた。禁忌の技術に手を出した〈悪魔〉。彼の悲痛な叫びが重ね合わさり、初めてその想いの深淵を感じた。

「リュイセン」

 不意に名を呼ばれ、リュイセンは慌てて「ああ」と返事をする。

「クラッカーなら、『呪い』にためらいがあると思う。絶対にきずをつけてはならない、唯一無二の相手なら、使わないほうが無難だと考える。――だから、〈ムスカ〉には『呪い』を掛けない」

 ルイフォンは、そこで一度言葉を切った。

 そして、鋭く光る猫の目で、じっとリュイセンを捕らえた。

「少なくとも……。……セレイエなら、そう考えるはずだ――」

「――! セレイエ……」

 ふたりに共通の『姉』。

 斑目一族の別荘で会った〈天使〉、ホンシュアの中に入っていた記憶……。

「セレイエは、〈七つの大罪〉にいる。……俺は、あいつに会わないといけない」

 ルイフォンは掌の上を見やり、自分の髪の毛ごと金色の鈴を握りしめた。

「……」

 なんとなく気まずくなり、リュイセンは視線をそらす。

 どうにも、おかしな雲行きになってしまった。リュイセンとしては、本物そっくりの〈ムスカ〉が気になっただけだった。今後、〈ムスカ〉が見つかれば、あの姿がミンウェイを惑わすであろうことを懸念したのだ。

「あ、れ……?」

 リュイセンは、瞳を瞬かせた。――重大なことに気づいた。

「ルイフォン……。あの〈ムスカ〉は、なんでヘイシャオ叔父が生きていたかのような姿をしているんだ?」

「はっ!? だから――!」

 また、言い方が悪かった。リュイセンは、心の中で舌打ちをする。そして、苛立ちのルイフォンが二の句を発する前にと、声を張り上げた。

「聞いてくれ」

「なんだよ?」

「俺たちが会ったのは、白髪頭の〈ムスカ〉だ。年齢的には父上と同じくらいに見えた。ちょうど、ヘイシャオ叔父が生きていればあんな年頃、という姿だ。けど、叔父が死んだのは十数年前だ。残されていたという記憶は、それ以前のものでしかあり得ない」

 ――つまり、記憶の年齢と、肉体の年齢が合っていない。

 ルイフォンも気づいたのだろう。さっと顔色が変わった。

「――ってことは、今まで俺が、もっともらしく言っていたことは、皆、外れってことか……?」

 ルイフォンが、前髪をくしゃくしゃと掻き上げる。

「いや、納得できる話だった。だから、的外れってことはないと思う」

「だが、最大の性能パフォーマンスを出すためには、記憶と肉体の年齢を合わせるべきだ。……それとも、そもそも、あの〈ムスカ〉はヘイシャオじゃないのか? 見たのが俺とリュイセンだけじゃ、鷹刀の血族の顔だってことは分かっても、本人だという保証はない――」

 …………。

 ルイフォンは頭を抑えるようにしてうつむき、リュイセンは虚空をじっと見据える。押し黙ってしまったふたりの間を、空調の風が虚しく抜けていく。

 どのくらいの時が過ぎただろうか。

 リュイセンが視線を落とし、ルイフォンに「なぁ」と声を掛けた。

「俺たちがこうして考えていても、埒が明かない。今、やるべきことをやろう。――祖父上に報告して、一刻も早く〈ムスカ〉を捕まえるんだ。そうすれば、おのずと分かることだ」

「あ、ああ……。そうだな」

 互いに、互いの顔を見つめ、盛大に溜め息をつく。

 ルイフォンが椅子の背に寄りかかり、天を仰いだ。

「なんか、疲れたな」

 心底、投げやりな様子で呟き、続けて「メイシアにお茶でも……」と言い掛けて、はっと目を見開く。

「あぁ……。リュイセンとの話に夢中になっていて、忘れていた……」

「どうした?」

 リュイセンが問いかけると、ルイフォンは急に体を起こし、椅子にうずくまるようにして背を丸めた。

「メイシアと、喧嘩したんだった……」

 そう言って、がっくりと、うなだれた。

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