7.幾重もの祝福-2

 彼女が腕の中に居るだけで、安心できる。

 抱きしめているのに、抱きしめられている。

 彼は、彼女の首筋に顔をうずめた。鼻先をくすぐる彼女の後れ毛が、むずがゆいのに心地よい。触れ合った肌の熱さから、狼狽する彼女の鼓動が伝わってくる。

 純白のドレスをまとったメイシアを胸に、ルイフォンは徐々に落ち着きを取り戻していった。

 ――そういうことか……。

 心の中で呟いて、ルイフォンは口元をほころばせる。

 まんまと乗せられたのだ。

 誰がどう噛んでいるのかは不明だが、サプライズで彼に彼女の花嫁姿を見せよう、という計略だったのだろう。

「メイシア」

 彼は少しだけ体を離し、彼女の美しさを瞳に映す。

「綺麗だ」

 彼女の顔に掛かるベールを払いのけ、彼は吸い寄せられるように口づける。

 途端、彼女の顔が真っ赤になった。むき出しの肩や首筋までもが、透き通るような白から鮮やかな色に染め上げられていく。

 階下から、「きゃあっ」と嬉しそうな黄色い声が上がった。家に戻ってきていたクーティエである。

 気づけば、ルイフォンを案内してきたシャンリーは勿論、レイウェン、リュイセン、チャオラウもいる。――リュイセンが、げんなりとした顔をしていたのは……仕方ない。

 ルイフォンは、ぐっと自分の胸元にメイシアを引き寄せた。と同時に、豪奢なドレスもろともに彼女の膝裏に手を入れる。

 メイシアの体が、ふわりと浮き上がった。

 幾重にも連なったスカートのフリルが大きく波打つ。急に抱き上げられたメイシアは、小さな悲鳴と共に、細い腕をルイフォンの首に回した。

 彼がゆっくりと階段を降り始めると、長い長い裾の先が、かしずくように、しずしずと階段を流れる……。

「うわぁ……」

 夢見る乙女の顔をして、クーティエが頬を染めた。シャンリーが口の端を上げ、感心したように「やるな」と呟いた。

 一階に降り立ったルイフォンは、メイシアを抱き上げたまま、そこにいた皆に深々と頭を下げる。彼の行動の意味が分からないクーティエが「え?」と声を上げ、続いて自分の非礼を思い出して青ざめた。

「ごめんなさい! 私、ルイフォンに早くメイシアを見せたくて……!」

「分かっている」

 顔を上げたルイフォンは、猫のような目を細めにやりと笑った。

「そりゃあ、お前からの電話には心底、焦った。けど、俺もお前を怖がらせたからな。お相子あいこだ。――それよりさ、これは俺とメイシアへの祝福だろ? 感謝する」

 そう言うと、彼はくるりと体を反転させ、メイシアをそっと床に降ろした。

 何かを言いかけた彼女を遮り、ルイフォンは階段を見上げて呼びかける。

「ユイラン」

 声に応え、階段の上に銀髪グレイヘアの女性が現れた。すらりとした綺麗な背筋で、顔立ちはミンウェイをそのまま歳を取らせたかのよう。

 ルイフォンはまっすぐにユイランを見つめ、抜けるような青空の笑顔をこぼした。

「詳しいことはあとで伺います。ともかく、礼を言わせてください。――ありがとうございました」

 ルイフォンは、ユイランに向けて丁寧に腰を折る。隣でメイシアも、ぴたりと息を合わせて頭を下げた。

「ふたりとも、顔を上げて。私は頼まれた仕事をしているだけよ。困るわ」

 慌てたように、ユイランが階段を駆け下りてくる。

「私は、藤咲ハオリュウ氏にメイシアさんの婚礼衣装を依頼されたのよ。洋装でも、我が国の伝統衣装でも、メイシアさんの好きなものをと頼まれて、試しにサンプルを着てもらっただけなの」

 ユイランは困惑顔で眉を寄せ、上品に首を振った。その仕草に異を唱えるかのように、メイシアの上体が前に出て「ユイラン様」と片手を伸ばした。

「ルイフォン、ユイラン様は……」

 彼を振り返ったメイシアの瞳は、さまざまな思いであふれていた。口に出して伝えたいのに、うまく言葉にできない。そんなもどかしさが、にじみ出ている。

「分かっているよ、メイシア」

 ルイフォンは、にっと口の端を上げた。ベールがなければ、彼女の前髪をくしゃりとやったところだ。

「――というかさ、思い出したんだよ。……確かに、母さんはユイランが苦手だった。けど、あの口の悪い母さんが、ユイランのことは決して、けなさなかったんだ」

 彼は、すっと視線を前へ移す。母親そっくりの猫のような眼差しが、しっかりとユイランを捕らえた。

 顔くらいは知っていたが、これまで対面で向き合ったことはなかった。ルイフォンは今、初めて正面からユイランという人物を見て、そして理解したのだ。

「つまり、母さんはユイランを認めていた、ってことだ。……たぶん、気に入っていたと思う」

「……え」

 ユイランの口から、かすれた声が漏れた。切れ長の瞳から、ひと筋の涙が流れ出て、慌ててハンカチで押さえる。

「やだわ、何を言っているのよ。――ともかく私は、メイシアさんの異母弟さんに頼まれたのよ」

 崩れた顔をハンカチで隠しながら、ユイランは語調を強めた。

「お父様の喪が明けるころ、桜の季節に。鷹刀の屋敷のあの桜の下で、ふたりの結婚式を挙げたい。そのための衣装をお願いします、とね」

「……!」

 ルイフォンは息を呑んだ。

 最愛の異母姉をルイフォンに託してくれた、事実上の義弟。ハオリュウは、たった十二歳の双肩に貴族シャトーアの当主としての重責を担い、忙しい日々を送っているはずだ。

 それでいてなお、異母姉やルイフォンのことを忘れずに、こうして手を回してくれるとは……。

「けど、何故ハオリュウがあなたのところに?」

 ルイフォンが尋ねると、ユイランは「それは……」と言って、レイウェンに視線を向けた。

 レイウェンは穏やかに微笑み、「まだ、公式には発表されていませんが」と前置きをして言った。

「女王陛下の婚礼衣装担当家となった藤咲家の当主として、ハオリュウ氏が我が家を訪ねてきたんですよ。ご丁寧に祖父上の紹介状まで提示され、おそれ多くも女王陛下の衣装制作に協力してほしいとのことでした。――ありがたく、お受けしましたよ」

 それは初耳だったのか、メイシアが驚いたように目を見開いた。

「そして、ハオリュウ氏がおっしゃったのよ」

 と、ユイランが続ける。

「『本当に見たいのは、女王陛下ではなく、異母姉の花嫁姿です。赤の他人のためにばかり奔走して、身内がおろそかになるというのは釈然としません。だから、異母姉の衣装をお願いします』ですって。――素敵な異母弟さんね」

 不敬罪に問われそうな、どことなく毒を含んだ言葉が、如何にもハオリュウらしい。無邪気な顔をして、にっこりと笑う姿が目に浮かぶ。

 ユイランは、くすくすと笑いながら「だから、あなたに会えるのが本当に楽しみだったのよ」とメイシアに優しげな目を向けた。

「来年の春まで、まだ時間はたくさんあるわ。メイシアさんのためだけの特別な一着を、一緒にゆっくり考えましょうね」

 ユイランがそう言って締めくくろうとしたので、ルイフォンはメイシアの腰に手を回して彼女を引き寄せた。

「このドレス、よく似合っているから、こんなんでいいんじゃないか?」

「ルイフォン! 私、肌があまり見えるのは……」

「お前がそう言うのが分かっているから、先に言ったんだよ。俺は、綺麗なお前を自慢したいんだ!」

 きっぱりと言い切る彼に、きゃあきゃあというクーティエの歓声がかぶる。

 ――そんな華やいだ空気を斬り裂くように、リュイセンの低い声が響いた。

「母上」

「ええ。分かっているわ」

 涼やかな瞳に、揺らぎなき強い光を載せてユイランは頷く。

 そして――。

「ルイフォン」

 唐突に発せられた、険しさすら感じられる声。それだけで、場の色が急速に塗り替えられていく。

「ごめんなさいね。楽しいお話はここまでなの」

 メイシアが、はっと顔色を変えた。細い指が、彼の服の端をぎゅっと握る――おそらく無意識のうちに。

「私は、メイシアさんに三つの用件があったの。――ひとつ目は、今話した通り。藤咲ハオリュウ氏に依頼された衣装の件。そのための採寸ね。そして、ふたつ目はイーレオ様からの依頼」

「親父から?」

「ええ、メイシアさんに『私の弟のヘイシャオのことを含め、過去の鷹刀について教えること』」

 一瞬、何を言われたか分からなかった。

 ルイフォンは声も出せず、冴え冴えとしたユイランの美貌を凝視する。

「この件は、既にメイシアさんとリュイセンに話してあるわ。あとでふたりに聞いてちょうだい」

 ユイランの目線がメイシアを指し、それを追うように見やれば、気遣わしげな黒曜石の瞳がルイフォンを見上げていた。

 せっかくの純白のドレスが、影を帯びてしまっている。

 ルイフォンはわざとらしいくらいに、ぐっと口角を上げ、笑みを作った。彼女の髪をくしゃりとする代わりに、ベールをつまんで彼女に応える。――大丈夫だ、と。

「分かった。ふたりに聞いておく」

「ありがとう」

 そう言ってユイランが目を伏せると、白髪混じりの睫毛が綺麗に並んだ。その顔を見て初めて、彼女も緊張していたことに気づいた。

「それでは、三つ目ね」

 心なしか、ユイランの声が高ぶる。

「私は、ルイフォン――あなた宛ての手紙を預かっていたの。それをメイシアさんに届けてもらおうと思ったのよ」

「俺宛ての手紙!?」

「ええ。だけどメイシアさんが、私からあなたに直接、手渡すべきだとおっしゃってね――」

 メイシアなら、そう言うだろう。ユイランの人となりに触れたなら、ルイフォンと会わせるべきだと考えるはずだ。

「で、その手紙というのは誰からだ?」

「――キリファさんよ」

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