10.飛翔の調べを運ぶ風-2
どこまでも遥かに、広く晴れ渡った青空の中を、白い雲が走り抜ける。
強い風に、ぐんぐんと押し流され、その勢いに乗りながら、自在に形を変えていく――。
庭の片隅に置かれたテーブルには、新緑が程よい木陰を落としていた。
彼女は白い帽子をかぶり、ガーデンチェアーに座っている。
お茶を飲むでなく、本を読むでもなく。椅子の背に寄り掛かり、青い空を見つめていた。
まるで時が止まっているかのように、彼女はひっそりと動かない。ただ帽子を飾る、シルクサテンのリボンだけがなびいている……。
風が、ひと際強く吹き、木々を揺らした。
若葉の間をすり抜け、彼女の帽子をさらう。
身じろぎひとつしなかった彼女の口が、「あ」と言ったのが、遠くからでもメイシアには分かった。
風はふわりと帽子を運び、メイシアの足元に届ける。
メイシアは帽子を拾い上げ、ぎゅっと握った。
「メイシア?」
気遣うように、ルイフォンが声を掛ける。
メイシアの継母は、息子ハオリュウを誘拐され、夫コウレンが息子を助けようと出ていったまま帰らず、娘のメイシアが騙されて
ハオリュウは、メイシアが行ってしまったから、母の気が触れてしまったと感じたようだが、おそらく違う。彼女は、大事な家族が次々に消えていく現実に、耐えられなくなったのだ。
起きていても、夢の中をさまようようになってしまった彼女を、ハオリュウはこの静かな別荘に移した。信頼できる者だけをそばに置き、穏やかな時を過ごせるようにと。
「ルイフォン。私がお継母様と初めて会ったときも、私はお継母様の帽子を拾ってあげたの。今日みたいに、とても風の強い日だった……」
あのときの彼女は、大人の女性なのに大声で悲鳴を上げ、段差に気づかずに思い切り転び、膝を擦りむいた。
幼いながらも、
――継母は、帽子を持ったメイシアをじっと見つめていた。元気に走り寄ってくる気配は、微塵にも見られなかった。
嗚咽をこらえるように、メイシアの肩が震える。
その肩をルイフォンがふわりと抱き寄せ、反対の手でメイシアの髪をくしゃりと撫でた。
メイシアは、きゅっと口を結んで頷く。
それから、ゆっくりと継母に近づいていった。
メイシアが、鷹刀一族の屋敷での生活に慣れ始めたころ、ルイフォンは彼女に切り出した。
「俺はリュイセンに、俺たちは『ふたりきり』じゃなくて、『皆に囲まれた、ふたり』がいいと言った。そして俺は、俺の周りの『皆』を手に入れた」
なんの話だろうと、きょとんとするメイシアに、彼はいつになく真面目な顔を向ける。
「けどお前は、お前が持っていた『皆』を、俺のために失った。俺と一緒に居る、ってことだけのために、お前はすべてを失ったんだ」
メイシアはたじろぐ。ルイフォンが気にしていることを、薄々感じていたからだ。
「おかしいと思わないか? 不公平じゃないか? お前にだって、大切な人や友達がいただろう?」
「でも私が
「けど!」
鋭く叫ぶルフィオンに、メイシアはゆっくりと首を振った。
「ルイフォン、あのね……ルイフォンには信じられないかもしれないけど、私はルイフォンが思っているほど、人を大切に思っていなかったんだと思う」
「どういうことだ?」
「この屋敷に来たばかりのとき、ルイフォンは私に『使用人と喋るのに慣れていないだろ』と言ったの。覚えている?」
ルイフォンは、「あー」と言ったまま、押し黙る。うろ覚えの状態なのだろう。
「身分の違う者とは話すものではない、と教育係に言われてきたの。そして同じように、友達とも『わきまえて』付き合うように、と教えられていた」
「あー、うーん?」
おそらく、ルイフォンには理解できないだろう。家柄による上下や、『友達は選べ』という言葉。将来の嫁ぎ先同士の仲が悪ければ、それきりの縁になることが分かっている関係も。
「
メイシアの綺麗な顔が、淋しげに歪む。けれど、すぐに彼女は、ルイフォンに向かって微笑んだ。
「だからね、これからルイフォンと一緒に、大切な人を増やしていきたい」
ルイフォンは判然としない顔のまま、口をつぐむ。
しかしやがて、はっと思いついたような顔をして叫んだ。
「大切な人、いるじゃん! お前、お継母さんのことが大好きだろ? だからさ、会いに行こうぜ。きっとハオリュウも許してくれるはずだ」
継母のそばに来たメイシアは、すっと帽子を差し出した。
どんな言葉を、どんな言葉遣いで言えばいいのか、まるで分からなかった。だから、喉に声が張り付いたまま、何も言えなかった。
椅子に座ったままの継母が、メイシアを見上げた。見知らぬ人を見るような目で、首を傾げる。
「あ、あの、帽子……」
ありったけの勇気を振り絞り、メイシアはやっとそれだけ言う。
「目に……」
継母の唇が呟いた。
ほとんど口をきけない、と聞いていたメイシアは驚く。
「……砂が、入っちゃった?」
「え……?」
「だって、……目が、真っ赤よ?」
「お継母様……!」
彼女は、思い出し始めている……。
メイシアと初めて会ったときのことをなぞっている……!
「い、いいものが、あるんです!」
メイシアは慌てて帽子をテーブルに置き、持っていたバッグの中身をごそごそとあさった。
「こ、これ! クッキー――『
継母のお見舞いに行くことが決定してから、メイシアは料理長に頼み込んで『
けれど、どうしても同じ味にはならなかった。同じ名前の菓子でも山ほどのレシピがあり、近づけることはできても、同じにはならなかったのだ。
継母はひとつ手に取り、口に運んだ。
「美味しい……」
さくさくという音が、口の中で甘くほろほろと溶ける。それと共に、継母の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「メイシアちゃん……。ううん。『メイシアさん』と呼ぶように、って怒られたんだっけ……?」
彼女が事務見習いから継母になったとき、たくさんのことが変わってしまった。
メイシアは思わず継母に抱きついた。
あとからあとから、涙が溢れてきた。メイシアは継母にしがみつき、子供のように泣きじゃくる。
「お継母様、私に『
「……『皆』は、そこの彼も一緒かしら?」
継母の目が、メイシアを背後を見ていた。
メイシアは、はっとして顔を赤らめる。けれど、はっきりと言った。
「ええ、そう! 彼は、私の一番大切な人……」
継母は、ルイフォンを見ながら、眩しそうに目を細めた。その目尻から再び、すぅっと涙が流れる。
「お継母様?」
「彼は、
「え、あ、あの……」
思わぬ言葉に、メイシアの心臓が鷲掴みにされた。ルイフォンを連れてきてはいけなかったのだろうかと、血の気が引いていく。
そんなメイシアを、継母はぎゅっと抱きしめた。
耳元で、そっと囁く。
「メイシアちゃんも、見つけちゃったのね?」
「え?」
「『だいそれたこと』をしてでも、そばに居たい人を」
いたずらな少女のように笑いながら、継母はメイシアから体を離す。
「……え? お継母様?」
メイシアはじっと継母を見つめ、そして、はっと思い出した。
『私は、だいそれたことなんて望まないわ。今のままがいいの……』
メイシアの父、コウレンにプロポーズされた継母は、初めはそう言って断っていたのだ。
「私、幸せよ。『だいそれたこと』をしたの、間違いじゃなかった」
今まで、ほとんど口も聞けない状態だった継母の言うことが、どのくらいしっかりしているのかは分からない。
けれど。
今の言葉は本心だと信じられる――!
「お継母様! 私も……! 私も、そう思うの!」
涙を拭い、メイシアは笑う。
「メイシアちゃん。大変なこともあると思う」
メイシアの肩に手を置き、継母が言う。
「でも、幸せなことのほうが、ずっと多いわ……」
継母の手が優しく動き、メイシアをルイフォンのもとへと送り出した――。
抜けるような青空の中を、二羽の鳥が飛んでいく。前に、後ろになりながら、どこまでもどこまでも……。
空の住人は、力強く羽ばたき、遙か天空を舞う。
悠然と、自由に――。
~ 第八章 了 ~
~ 第一部 完 ~
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます