9.蒼天への転調-2
少しだけ開けられた窓から、若葉の匂いを乗せた風が流れ込んできた。
緩やかにカーテンがそよぎ、執務室に季節の移ろいを告げていく。昨日の雨の名残りか、肌に湿気の重みを感じるものの、外は爽やかに晴れ上がり、抜けるような青空が広がっていた。
そばに控えたチャオラウが「いい天気ですね」と無精髭を揺らしながら、独創性もない言葉を漏らす。
イーレオは思わず苦笑した。
しかし、かといって詩的な文句をこの男に求めるのは酷であろう。彼は思ったことをそのままに、すなわち歯に
「さて、そろそろ私は、お
シャオリエがソファーから立ち上がり、エルファンが「お供します」と続く。
そんな中、ハオリュウが執務室を訪れた。
現れたハオリュウを見て、イーレオは戸惑いを禁じ得なかった。
それは、ハオリュウがミンウェイの押す車椅子に乗ってきたからではない。足の怪我は軽くはないが、以前のようにとはいかなくとも、いずれは、ひとりで歩行可能なまでには治ると聞いている。
だから、そこではない。
「ハオリュウ……?」
イーレオは、思わず名を呼んだ。
もともと、歳に似合わぬ言動をする彼であったが、顔の造りが別人のようにしっかりとしていた。
勿論、実際の顔かたちには、なんら変化はない。だから、それは的確な表現ではないのかもしれない。けれど、明らかに雰囲気が違った。
ぴんと張り詰めた糸のような危うさが消えていた。これまでが一本の細い糸ならば、今の彼は縦糸と横糸から成る柔らかな『布』。ちょうど、彼の藤咲家の領地で作られる絹織物のように、しゃらしゃらと音を立てながら、変幻自在にしなやかに形を変え、ひとつに定まらない柔軟さがあった。
「ハオリュウ。――横になっていなくていいのか?」
「ご心配ありがとうございます。……ですが、いつまでも寝ていると、体がなまってしまいそうなんですよ。僕としては早く歩けるようになりたいですからね。ミンウェイさんも少しくらいならよいと、おっしゃってくれました」
背後のミンウェイを振り返り、にこやかに目礼する顔は血色も良い。確かに心配無用のようであった。
ハオリュウは顔を正面に戻すと、すっと笑みを消した。口元を引き締め、改めてイーレオに涼やかな瞳を向ける。
その視線の意味を解し、イーレオは魅惑の声を
「他の者は、席を外させたほうがいいか?」
「いえ、皆様、そのままで。『私』は、何もあなたと諍いを起こしに来たわけではありませんから」
車椅子の肘掛けに置いた手から、当主の指輪が金色に光る。
「そうか。では、藤咲家当主殿の意見を伺おう」
イーレオが背もたれから体を起こし、居住まいを正す。それに併せ、他の者たちも背筋を伸ばした。
「我が異母姉、藤咲メイシアが鷹刀一族と交わした『取り引き』は、藤咲家が鷹刀ルイフォンとの仲を認めれば反故になると聞きました。相違ありませんか?」
「ああ、相違ない」
背中で結わえた髪をさらりと揺らし、イーレオが短く頷く。
「では、藤咲家当主として、私がふたりの仲を認めましょう。ただし――」
ハオリュウは、そこで言葉を切った。漆黒の瞳に、深い闇が落ちる。
けれど口元は、ほころんでいた。
泰然と構えた絹の貴公子は、一同を見渡してから
「異母姉には死んでもらいます」
その言葉の意味を、額面通りに受け止める愚か者は、さすがにこの場にはいなかった。
それでも、皆の動揺は隠せない。ざらついた空気があたりを漂い、互いに目線を絡めあっては声を呑み込む。
しばしの間――。
けれど、このままでは埒が明かない。イーレオは嘆息し、鷹刀一族を代表して低い声で確認した。
「……表向き、メイシアを死んだことにするんだな?」
「ええ。これで鷹刀一族との『取り引き』からも、
ハスキーボイスが優しく『自由』を告げる。
「何も、そこまでしなくてもよいだろう?」
イーレオは眉を寄せた。ハオリュウを
「『何も、そこまで』ですか。確かに僕……私も、そう思いましたよ」
ハオリュウは目を伏せ、呟くように言う。顔立ちとしては十人並みであるはずなのに、
「ですが、僕が円滑に当主になるためには、異母姉は邪魔です。僕は未成年の上、母親は
そして、ちらりと上目遣いに視線を送り、言いにくそうに続ける。
「それから……やはり、失礼ですが、
あのときは警察隊を抑えるための芝居であったはずなのに、いつのまにか現実になっている。つまり、異母姉の心は、とっくに決まっていたのだ。――そんなことを考えたのだろう。ハオリュウの口元が、楽しげに苦笑している。
そんなハオリュウを、イーレオは複雑な目で見つめていた。
ハオリュウの弁には理がある。
けれど、イーレオには分かっていた。それは異母姉に向けた、異母弟からの精一杯の愛情だと。実家のことは心配しなくていいから、幸せになってほしいとの――。
「……待って」
押し黙るしかないとイーレオが諦めたとき、ハオリュウの背後から控えめな美声が割り込んだ。
「ハオリュウ。あなたのお母様が精神を病まれてしまったと、情報屋から報告を受けています。お父様を亡くし、お姉様のメイシアまで縁を切るような真似をしたら、あなたは本当に独りになってしまう。そんなの……、そんなの駄目よ。しばらくはメイシアを実家に返すべきだわ」
「ミンウェイさん……」
ハオリュウは、困ったように後ろを振り返った。
異母姉とルイフォンとの仲を初めに喜んだのは、ミンウェイのはずだ。その彼女が、今度はハオリュウのために、ふたりを離そうとしている――。
「別に僕は、独りではありませんよ。鷹刀の方々と、これきりのご縁にするつもりはありませんし、お忍びで異母姉に会いに来ますから」
無邪気ともいえる顔で、ハオリュウが笑う。
その笑顔の裏には、
「だが、ハオリュウ。ルイフォンは鷹刀を出ていき、メイシアも追っていった。ふたりはここにはいないぞ?」
低い声が響く。
イーレオではない。同じ声質を持つ次期総帥、エルファン。メイシアをルイフォンのもとに連れて行った張本人である。
「心配ありませんよ。すぐに、ルイフォンが異母姉を連れて、この屋敷に戻ってきます」
ハオリュウが、余裕の笑みを浮かべる。初対面のとき、彼と舌戦を繰り広げた経験を持つエルファンは、興味深げに口の端を上げた。
「何故、そう断言できる?」
「ルイフォンひとりなら、彼は自分を貫いて、決して戻ってこないでしょう。……けれど、異母姉が一緒ですから、彼は戻らざるを得ないんですよ」
「ほう? どういうことだ?」
含み笑いのハオリュウに、エルファンは苛立つよりも心が躍る。
「彼は、異母姉の幸せを望むはずだから。――駆け落ちみたいに、こそこそと、ふたりきりでいるよりも、堂々と皆に認められることを、彼なら選ぶはずだからですよ」
「なるほどな」
エルファンが呟いた、ちょうどそのとき。慌てた様子の門衛から、連絡が入った。
閉め切られた地下の一室は熱気であふれ、蜃気楼すら見えそうなほどに空気が揺らいでいた。
ちりちりと肌が焼けつくような感覚を覚え、〈
「あのとき冷却剤を飲んだなら、熱暴走は収まっているはずなんですけどね。――何か、余計なことをしましたね?」
ホンシュアのベッドに近づき、〈
「たわい、ない……ことよ」
熱い息を吐きながら、途切れ途切れにホンシュアが言う。
「何を言っているんですか。あなたが命を懸けるほどのことが、『たわいない』はずないでしょう?」
「心配、しなくて……大丈夫よ。別に、あなたの邪魔……していないわ。あなたの……機嫌、そこねて……協力、してもらえなく……なったら、困るもの」
〈
従順な道具であった他の〈天使〉とは違い、ホンシュアは〈
〈
「誰に、何をしたんですか? ――私の協力を失いたくないのなら、言えますよね?」
詰め寄る〈
「〈影〉にされた、あの
「馬鹿な。〈影〉は、決して元に戻らないはずでしょう?」
〈
「少し、違うわ。上書き、前の……
「ほぅ、そんなことが……?」
初めて聞く話に〈
「――しかし、いつ
人目を盗んで動き回ったのかと、サングラスの奥からホンシュアを睨みつける。
だが、ホンシュアは目を伏せて「完全な、
「……でも、藤咲コウレンの、脳は……並の人間よりも、
「
「だって、彼は……
「――なるほど」
「それで、藤咲コウレンは元に戻ったというのですか?」
「さすがに……無理よ。私に、できたのは……死ぬ間際……極限状態のとき、戻る……だけ。喩えれば、走馬灯。ほんの一瞬、ふわっと……浮かんで、消えるだけ」
それを聞いて、〈
「それでは、あなたは、まったく意味のないことをしたわけですね?」
駒にした
それよりも問題は、ホンシュアの熱暴走が止まらなくなってしまったことだ。
「勝手に〈天使〉の力を使わないでください。あなたは、私に与えられた最後の〈天使〉です。壊れてしまっては困るんですよ」
〈
それだけ、ホンシュアの状態はよくなかった。それは〈
ホンシュアは口角を吊り上げ、声もなく笑う。
「あなたは……寂しい人ね。あなたも、また……『私』に利用されている、だけ」
その言葉に、〈
「あなたの本体は何処にいて、何を企んでいるんですか?」
しかし、ホンシュアは答えない。〈
「『デヴァイン・シンフォニア
『デヴァイン・シンフォニア』――直訳すれば、『神の交響曲』。
『神』という言葉が『王』を意味するこの国で、わざわざ『神』と冠するからには、それなりの含みがあるはずなのだ。
ホンシュアは、にやりと妖艶に笑う。高圧的な〈
白い素肌は、汗でじっとりと濡れていた。
ひと房の黒髪が、首筋から胸元にかけて張り付き、彼女が熱い息を吐くのに併せて
「『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』よ。……『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『
「――『罪』……?」
「『デヴァイン・シンフォニア
体の内部から溶け出しそうなほどの高熱を出しながら、ホンシュアが言ったことは、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉にとっては当然のようなことだった。〈
彼は、黙って懐から冷却剤を取り出した。ホンシュアの顎を上げさせ、強引に飲ませる。――いつもの量では効かないだろうから、その倍の量を。それでも、どうなるか分からない。
斑目一族は経済的に追い詰められていたが、〈
彼女の喉が、こくりと
やがて足音が聞こえなくなり、ホンシュアは目をつぶる。ひとり、ベッドに残された彼女は、荒く熱い呼吸を繰り返し、自分の体を抱きしめた。
冷却剤を飲んでも、体が冷える気配はなかった。それは、予期していたことだった。
それでもホンシュアは、慰めにも気休めにもならない、ちっぽけな『奇跡』を起こしたかった。たとえ最期の瞬間だけだとしても、自分自身として終えられるほうが幸せだと考えたから――。
それは、独りよがりの偽善の押しつけかもしれない。残された家族にとっては、残酷なだけかもしれない。
けれど、犠牲になった相手への、せめてもの償いとして、彼女はできる限りの礼を尽くしたかった。
「ライシェン……。『私』のしようとしていることは……間違っていると、思うわ」
それでも……。
「それが、どんなに罪だとしても……、私は、貫こうと……するのね、きっと……」
――私の――ライシェン……。
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