7.引鉄を託す黙約-1

 緋扇シュアンが鷹刀一族の屋敷に向かったのは、仕事を終え、夜になってからのことであった。

 しとしとと降り続く闇空を見上げ、嫌な天気だ、と彼は思った。冷たい雫が頬を切り裂き、体温を奪っていく。

 ――あの餓鬼は、果たして引き金を引いたのだろうか?

 何不自由なく暮らしてきた貴族シャトーアで、まだ保護されるべき子供で、しかも標的は実の父親だ。

 人間の手に握られた刃物や拳銃が、本当に人に害をす凶器に成り下がるか否か、シュアンには、だいたい分かる。まともな人間なら、そうそう他人を傷つけられるものではないからだ。その『まとも』の枠からはみ出た人間を、シュアンは狩る。自分も同じ穴のむじなと思いながら。

 だが、ハオリュウに対しては、『まぁ、やってみろ』という半信半疑の言葉しか出なかった。

 ぼさぼさ頭を振り、彼は溜め息をつく。私服のため、頭の上には制帽は載っておらず、髪の毛は好き放題に跳ねていた。

 ハオリュウは、シュアンの大嫌いな貴族シャトーアである。どうなっても知ったことではない。ただ、貸した拳銃を返してもらいに行くだけだ、と彼は独りごちる。

「餓鬼が粋がっていただけだと、嗤ってやるからさ……」

『まとも』な人間なら、引き金は引けない。

 ――けれど、雨が降っている。まるで誰かを悼むように。

 屋敷に着くと、門衛がぎろりとシュアンの顔を睨んだ。そして、ぶっきらぼうに「ミンウェイ様がお待ちかねだ」と告げた。

 シュアンは確信する。

 あの餓鬼は――ハオリュウは、引き金を引いた、と。



「――――……」

 淡々と語るミンウェイの声は美しく、けれどつやを感じられなかった。輝く美貌も、今は憂いにくすみ、うるわしさよりも憐れを覚える。

 屋敷に入ったときから、妙な雰囲気を感じていた。そして応接室に通され、現れた彼女の姿を見た瞬間に、予期せぬことが起きたのだと理解した。

「……ハオリュウの足は……。歩行は可能ですが、おそらく後遺症が残るでしょう」

 最後にそう言って、彼女は長い話を終えた。

 シュアンは、座り心地の良すぎるソファーに埋もれるようにして寄りかかり、動けなかった。湯気の立っていたティーカップは手付かずのままに、いつの間にかひっそりと沈黙している。

 あの小生意気な餓鬼は、行動に移した。

 他の人間を巻き込み、目的は果たしたが、自身も一生残る怪我を負った。

 それだけの事実だ。

 なのに、どうして、こうも衝撃を受けているのだろう。――シュアンは、仰ぐように天井を見つめる。

 不意に、ふわりと草の香が広がった。正面を見れば、ミンウェイが彼の顔を窺うように見つめており、波打つ髪が肩から転がり落ちていた。

「……あなたは何故、ハオリュウに銃を貸したのですか?」

 感情の読み取れない、静かな声だった。

 改めて訊かれると、シュアン自身にもよく分からない。だがそれよりも、彼女の問いを耳にした瞬間、本能的な反発心が生まれた。

 何故、貸したら悪い? 何か文句あるのか? 返答を求められているのに、そんな喧嘩腰の質問が脳裏を駆け巡る。

 頼まれたから、というのが直接の理由のはずだった。しかし、そう答える気になれなかった。結果として口から出たのは、牽制したような、うがった疑問形の言葉だった。

「あの餓鬼の怪我は、俺のせいだと言いたいのか?」

 言ってから、まるで保身だと後悔する。そんなつもりはないのだ。薄情に聞こえるかもしれないが、シュアンはハオリュウを可哀想だとは思っていない。ただ、後味が悪いだけだ。

 険悪な三白眼に、ミンウェイが顔色を変える。彼女は「すみません」と慌てて首を振った。

「そんなつもりで言ったわけではないんです。……勿論――」

 ためらうように口元に指を寄せ、彼女はわずかに目線を下げる。

「銃がなければ、ハオリュウの怪我はなかったかもしれません。敵に奪われればどうなるかも考えずに、安易に強力な武器を渡したあなたを、責めたい気持ちがないと言ったら嘘になります。……けど、私が訊きたかったのは、もっと別のことなんです」

 べにの落ちかけた唇が少しだけ上がった。けれど、その顔は決して笑顔ではなく、どちらかというと泣いているように見えた。

「あなたは、権力者である貴族シャトーアが大嫌いなはずです。なのに、どうしてハオリュウの力になろうとしたのか……気になりました」

 シュアンは息を呑んだ。ハオリュウは貴族シャトーア。――ミンウェイが言うことは、もっともである。

 同じ境遇のハオリュウを放っておけなかった。だが、それを口にするのは自分の弱さを露呈するようで、彼は答えに窮する。

 押し黙ってしまったシュアンの代わりに、ミンウェイが遠慮がちに口を開く。

「……やはり、〈影〉という存在に、あなたの先輩と……私の父――『〈ムスカ〉』のことを――?」

 曖昧に言って口をつぐんだミンウェイの顔は、やはり弱々しくて、まるで儚げな泣き顔だった。シュアンは気まずくなり、視線をそらす。

 お人好しの彼女は彼を思い、見えない涙を流している。それが見えてしまって……心が痛かった。

 雨の音が響く。

 しとしとと、静かに。ぽたぽたと、柔らかく。彼女が優しく囁くように――。

「ハオリュウがあなたに、とても感謝していました。貴族シャトーア嫌いのくせに親身になってくれて嬉しかったと。……一生残る怪我を負いながらも、納得した笑顔を見せるんです。――さすがに、辛かったです。なんて、恨みごとですよね、すみません」

 深刻さを誤魔化すように、ミンウェイが軽く肩をすくめる。シュアンは、「そうか、あの餓鬼が……」と小さく呟くしかできなかった。

 ――そこで感謝できるものだろうか。そこで笑えるものだろうか……。

 ハオリュウが直接シュアンに言ったのなら、社交辞令か、その先に何かの思惑があると疑える。けれど、ミンウェイに向けた言葉なら、それは本心だ。

 シュアンは、ぎりっと奥歯を噛む。

「藤咲氏が目覚める前、私、ハオリュウとお話したんです」

 まるで独り言のように、ミンウェイが、ぽつりと言った。

「彼は、お父様に対する複雑な思いを吐き出してくれました。でも、そのあと憑き物が落ちたみたいに優しい顔になって、お父様のお目覚めを心から楽しみにしていたんです」

 ぽつり、ぽつり、と。窓の外で降り続く雨のように、ミンウェイが言葉を落とす。

「でも、その結末は……」

 彼女が首を振り、草の香が広がる。

「だから、私、思ってしまいました。藤咲氏が〈影〉にされてしまったことを、誰よりも早く、私が気づけばよかった、と」

「ミンウェイ?」

 わずかに違和感を覚え、シュアンは不審に思う。

「……あんなにお父様を大切に思っているハオリュウに、悲しい決断をさせないように――私が……」

 その瞬間、シュアンは悟った。

 ミンウェイは、何もできなかった自分をずっと責めていたのだ。

 ハオリュウに対しては勿論、シュアンが先輩を撃たざるを得ない状況に陥ったことさえも。――彼女のせいではないにも関わらず。

 シュアンは、ミンウェイの愚かなまでの優しさに、苛立ちと愛しさを感じる。だから彼は、彼女が次の言葉を発する前に、できるだけ冷ややかな声を割り込ませた。

「あんたが先に殺しておくべきだった、と? ――誰にも気づかれないうちに」

 思いがけず、シュアンに言葉を先回りされ、ミンウェイの口がたたらを踏んだ。だが、彼女は微笑みながら、こくりと頷いた。

「私なら、安楽死させることができました。斑目に遅効性の毒を盛られていたと私が言えば、誰も疑わないでしょう? ……そしたら、誰も、傷つかなかったわ……」

 かつてミンウェイは、〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者だったという。必要ならば、どんな相手でも無慈悲に殺せるだろう。

 けれど、シュアンは鼻で笑った。今の彼女は暗殺者ではないのだ。

「凄い極論だな」

「おかしいですか?」

「いや、実にあんたらしい。鬱陶しいほど、お節介だ」

「どういう意味でしょうか?」

 唇を歪めて軽薄に笑う彼に、彼女は口を尖らせる。その顔は、いつもより少し幼く見えて――可愛らしかった。

「あんたの理想を押し付けるな。何も知らないままに父親が殺されることを、あの糞餓鬼が望んだとでも思っているのか?」

「緋扇さん……」

 シュアンは口の端を上げ、馬鹿にしたように肩をすくめた。

「あんた、勘違いしてねぇか? 俺が先輩の姿をした〈影〉を許せなかったように、あの餓鬼も父親の姿をした〈影〉を許せなかったはずだ。大切な人なら、大切なほどに、だ」

 シュアンはテーブルにぐいと身を乗り出し、押し黙ったミンウェイに迫る。

「俺たちの怒りを無視するな。俺たちが怒りを知らないままでいることを、正しいと思うな」

 身動きできなくなったミンウェイの顔を、三白眼が容赦なく覗き込んだ。波打つ髪が彼の鼻先すれすれでなびき、草の香が頬を撫でる。

「ハオリュウは相当の覚悟を持ってやったはずだ。あいつを認めろよ。あんたは、あいつが子供だと思って見下している」

 ミンウェイに言いながら、シュアンは自分の言葉が胸に来た。見下していたのはシュアンも同じ。貴族シャトーアだ、子供だと言って、ハオリュウを軽視していた。

「過去のことは過去のことだ。うだうだ言っても仕方ない。問題は、これからどうするか、だ。違うか?」

 ほんの少しだけ名残惜しいと思いつつ、そんな素振りはまるで見せずに、彼はソファーを立つ。

「緋扇さん?」

「『シュアン』だ、ミンウェイ。……あの糞餓鬼のところに行ってくる」

 もともと、そのために鷹刀一族の屋敷に来たのだ。

「あんたの愚かな優しさには苛つくが、どんなところにも救いってやつはあるんだと――信じたくなるから……嫌いじゃない」

 シュアンはそう言い残し、応接室をあとにした。

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