6.哀に溶けゆく雨雫-1

 どこからともなく現れた暗い雲が、蒼天を侵す。昼過ぎまでは眩しいくらいだった陽光を遮り、世界を灰色に塗り替えていく。

 まもなく桜流しの雨が来そうだと、イーレオは執務室の窓から覗く花を憂えた。つい先ほどまで、華やかに輝いていたというのに、まさに泡沫うたかた。なんとも儚い。

 彼は溜め息を落とし、執務机に肘をついた。組んだ指に顎を載せる。

 視界に映るのは、向かい合うように並べられた、応接用の二脚のソファー。片側には、昨晩から屋敷に入り浸りのシャオリエが足を組んで座っており、その向かいには、次期総帥エルファンが眉間に皺を寄せて押し黙っている。

 背後には、いつもの通りに護衛のチャオラウが控えているが、総帥の補佐を担うミンウェイの姿はない。医者でもある彼女は、大怪我を負ったハオリュウの手当てに奔走していた。

「部屋が暗いわね」

 男どもの陰気さに、耐えかねたシャオリエがぼやきを漏らした。普段なら、わざわざ口に出して言わなくてもミンウェイが照明をつけていることだろう。

 慌ててエルファンが立ち上がろうとするが、それより先にチャオラウが動いていた。ぱちり、という音と共に、部屋が明るくなる。

 これで少しはましになるかと息をついたシャオリエだったが、辛気臭い顔がよりはっきり見えるようになっただけ、という現実にうんざりした。

「ルイフォンは、自分で考えて行動したんだから、仕方ないでしょう?」

 ソファーに背を預け、シャオリエは周りを睥睨する。アーモンド型の瞳は、ルイフォンではなく、この場にいる者たちへの苛立ちを訴えていた。

「分かっているさ、シャオリエ」

 溜め息と共に、イーレオの魅惑的な低い声が吐き出された。彼は、やりきれなさに額を歪め、哀しげに笑う。

「自棄になっていたなら、俺は止めた。でも、そうじゃなかった。あいつは冷静だった」

 だから、認めてやるしかないのだ。

 ――メイシアとハオリュウの父、藤咲コウレンは〈ムスカ〉によって別人にされた。脳に他人の記憶を書き込まれた〈影〉と呼ばれる存在に。そのことに、いち早く気づいたのはハオリュウだったが、結果としてルイフォンが〈影〉を殺した。それが救いになるのだと信じて。

 重傷のハオリュウにメイシアを付き添わせ、ひとり執務室に来たルイフォンは、事態の報告を終えるとイーレオに頭を下げた。

『総帥――いや、親父。頼みがある』

 ルイフォンの重いテノールが耳に残っている。母親そっくりの猫の目が、突き刺さるように鋭く光っていた。

「まさか、〈影〉に記憶が戻るとはな……」

 イーレオが呟く。

「それでも、〈影〉が本人に戻ることはないわ。そんなことができるなら、緋扇シュアンに殺された警察隊員は、もっと言葉巧みにシュアンを誘惑したでしょう」

 肩を落とす一族の総帥を叱りつけるように、シャオリエはアーモンド型の瞳を冷たく光らせる。

「確かに、ごくまれに断片的な記憶が残っていることはあるわ。でも、それだけよ」

 苛立ちを含んだ声で、彼女はぴしゃりと言い放った。

 執務室の空気が沈む。

 ふと、シャオリエがソファーにもたれていた背を起こした。胸元のストールが、ふわりと揺れる。

「……来たみたいね」

 彼女は体をずらすように、足を組み替えた。

 この場にいる者たちは皆、気配を読むことにけている。だから、誰が来たのかは分かっていた。彼らは思い思いに頷くと、憂鬱な顔を扉に向けた。



 両目を真っ赤に腫らしたメイシアが、緊張の面持ちで執務室に入ってきた。血の気の失せた顔は、白磁よりも白い。服は着替え、髪は整えてある。しかし、彼女を見た瞬間、誰もが『ぼろぼろだ』と感じずにはいられなかった。

 彼女の視線は、ちらちらと落ち着きなく揺れ動いていた。ルイフォンの姿を探しているのだろう。そして、彼がいないことを悟ると、彼女の顔は不安に彩られた。

 エルファンやシャオリエに会釈しながらソファーの脇を抜け、メイシアは執務机の前に立つ。濁りのない黒曜石の瞳でイーレオを見つめ、彼女は深々と頭を下げた。

「このたびは、藤咲家が大変、ご迷惑をおかけいたしました。あとで改めて異母弟を連れてまいりますが、まずは私からお詫び申し上げます」

 凛とした声で、彼女はそう言った。

 イーレオは、虚をかれた。

「何故、お前が――藤咲家が謝るんだ?」

 メイシアが執務室に来ることは分かっていた。けれど、彼女がなんと言ってくるかは予測できないでいた。ただ少なくとも、『藤咲家』として謝罪の言葉を出すとは、考えてもいなかった。

 メイシアは、まっすぐにイーレオを見上げる。

「異母弟ハオリュウは、誰よりも先に父が〈影〉にされていることに気づきました。だから身内で片を付けようとしたのですが、力及ばず、結果として鷹刀を――ルイフォンを巻き込みました」

 言葉だけは、毅然としていた。

 けれど、今にも壊れそうな、繊細な硝子細工の体は震えていた。それでも胸元のペンダントを握りしめ、気迫だけで彼女は自分を支える。

「そもそも、囚われた時点で父が〈影〉にされていたのなら、父を助け出してほしいという依頼は、不可能なものでした」

「メイシア、いったい……?」

 彼女の意図が分からず、イーレオは困惑する。そこに、すっと高い声が割り込んだ。

「お前はそうやって藤咲家に落ち度があることにして、ルイフォンが父親を殺害したことを罪とみなさないようにしているのね」

「シャオリエさん……!」

 メイシアは叫び、ソファーのシャオリエを振り返る。

「ルイフォンは父を殺したわけじゃありません! 父を救ったんです!」

 きっ、とシャオリエを睨みつけた瞳から、涙がこぼれた。彼女は歯を食いしばり、嗚咽をこらえる。

 そんなメイシアを鼻で笑い、シャオリエは組んだ足を戻しながら、ぐっと身を乗り出した。

「そう思うのはお前の勝手だわ。でも、現実はこう。――ルイフォンの投げた刃がお前の父の命を奪った。ルイフォンは、初めから殺すつもりで眉間を狙っていた。ご丁寧にも、刃には致死の毒が塗ってあった……」

「あのときの父は、父ではありませんでした! ハオリュウを本気で殺そうとしていました。あれは〈影〉です。父じゃない!」

 メイシアは、全身で言葉を叩きつけた。大きく肩が揺れ、黒髪が舞う。けれども、すべてを見透かしたようなアーモンド型の瞳が、冷酷に嗤う。

「でも、死の間際にお前たちと会話したのは、確かにお前の父親だったのでしょう? ならば、元に戻る可能性はあったのかもしれない。けれど、ルイフォンが殺してしまったから、可能性はゼロになってしまった。……違うかしら?」

「違います!」

 噛み付くように、メイシアは言い返す。

「あれは、父が亡くなる直前だったからこその奇跡です! 本来なら、父は〈影〉のまま亡くなるはずでした。それが、奇跡が起きて、最期に父と逢えたんです」

「欺瞞よ。ルイフォンが、お前の父を殺したという事実から目を背けているわ」

 メイシアの反応を楽しむように、シャオリエが艷然と口の端を上げる。まるで挑発するかのように顎を上げると、長めの後れ毛が襟元でたおやかに転がった。

 メイシアは、かっと頭に血が上るのを感じた。深窓の令嬢として、穏やかに慎み深くあるよう育てられた彼女が、思わず我を忘れた。

「シャオリエさん! たとえあなたでも、そんなことを言うのは許せません!」

 視線で射殺さんばかりの剣幕。涙を見せる脆さを持ちながらも、決して譲らない強さ――。

 シャオリエは、ふっと柔らかく息を吐いた。

「『欺瞞』――そう言ったのは、ルイフォンよ」

「え……?」

 メイシアは、きょとんと目を丸くした。

「イーレオが総帥になる前の鷹刀は、〈七つの大罪〉と組んでいた。だから、ここにいる者は皆、知っている。――『〈影〉は、元には戻らない』と」

 シャオリエは目線を巡らし、イーレオを、チャオラウを、エルファンを順に見やる。

「だから、私たちはルイフォンに言ったわ。『藤咲コウレンの死は不可避だった。最期に戻ったのは、記憶の上書きのミスで、ただの幸運。お前は間違っていない』とね。けれど、ルイフォンは『欺瞞だ。わずかでも元に戻る可能性はあったはずだ』と、突っぱねた」

 メイシアは、はっと顔色を変えた。

「シャオリエさん。今までのあなたの言葉は、ルイフォンが言ったことの代弁なんですね!?」

「そうよ」

 察しのいいメイシアに満足したのか、シャオリエがアーモンド型の瞳を細める。

「ルイフォン――。ルイフォンは何処ですか!?」

 執務室にいるとばかり思っていた彼が、いないと気づいたときから、胸騒ぎがしていた。

 彼は自責の念にかられていたはずだ。だから、彼は悪くないのだと、自分たち姉弟は彼に救われたのだと、伝える必要があった。

「メイシア」

 イーレオの低い声が、静かに響いた。

「ルイフォンは、こう言った」


 ――親父さんが戻る可能性があったのか、なかったのか、それは分からない。

 でも、メイシアは俺を気遣って『絶対に戻らなかった』と言い張るに決まっている。『戻るかもしれなかった可能性』を信じて、悲しむことができない。

 そんなのは、間違っている。


「ルイフォンは、何処にいるんですか!」


 ――メイシアの親父さん、本当にいい人だったんだ。子供たちが無事だというだけで大泣きして。

 素朴で優しくて。のんびりと、穏やかな生活を送ってきた人だ。……送るべき人だった。


 ――メイシアもそうだ。あいつは危険なんか知らない世界の人間だ。

 警察隊が屋敷から出ていったあと、人工知能の〈ベロ〉に俺がショックを受けていたとき、あいつは俺にこう言ったんだ。

『無事だったことを喜びたい』。

 それだけのことがどれだけ大切か、俺に教えてくれた。


 ――生きる世界が違ったんだ。

 俺にとっても、親父にとっても、あいつが魅力的なのは当然だ。

 だって、生きる世界が違って、見たこともない存在で、知らない世界を見せてくれて……。

 惹かれないわけがないじゃないか。


 ――親父、あいつを元の世界に戻してやってくれ。頼む。

 俺が、鷹刀が、あいつの父親を殺した。

 そんなところに、あいつをおいておきたくない。


 ――あいつを『取り引き』から解放してやってくれ。

 もう、『取り引き』とか、人間的魅力とかの範疇を超えているだろう?

 あいつの要求は父親の『救出』だった。『殺害』じゃない。

 鷹刀の人間である俺が殺したなら、あいつの取り引きを果たしていないどころか、逆のことをしたんだ。


 ――俺は、助けるべき人間を、殺した。

 高潔であらんとする鷹刀の人間として、あるまじき行為をした。

 

「ルイフォンは!? ルイフォンは、何処!?」

 メイシアは、イーレオに詰め寄る。

 掴みかからんばかりの距離で叫びながら、……その先の言葉を聞くべきではないと分かっていた。

「『責任を取って、俺は出ていく』――ルイフォンは、そう言って俺に頭を下げた」

「あぁ……」

 糸の切れた操り人形のように、メイシアの体がぺたんと床に落ちた。

「ルイフォン……」

 視界に映るのは、絨毯に広がる大量の血痕。〈ベロ〉による殺戮の跡。いずれ取り替えられ、見た目に綺麗になったとしても、血塗られた事実が消えるわけではない。そんな場所が凶賊ダリジィンの生きる場所だ。

「……違う。ルイフォンは鷹刀を出ると言っていたの。凶賊ダリジィンでも貴族シャトーアでもなく、一緒に居ようって……」

 メイシアは誰に言うわけでもなく、呟く。


『そばに居てほしい』

『……そばに居たら、お前も巻き込むのかもしれない。ごめんな。けど――』

『――この先、俺はお前なしの生活なんて考えられないから』


 優しいテノールを聞いたのは、つい昨日のことだ。 

 それなのに、ルイフォンは彼女を置いて、ひとりで何処かに行ってしまった。

「……逢いたい」

 メイシアの頬を、ひと筋の涙が流れた。きらりと光る雫は床に落ち、どす黒い血糊の上に塗り重ねられて輝きを失う。

「メイシア……」

 頭上に、イーレオの静かな低音が降りてきた。。

「俺も、お前とルイフォンを逢わせてやりたいと思う。……けど、あいつが、頭を下げて俺に頼んだんだ。『メイシアを貴族シャトーアに戻してほしい』と」

「……」

「それに、お前にはハオリュウがいる。お前が藤咲家を出たら、彼は父親に続いて異母姉まで失う。それでいいのか。……俺は迷うよ」

 沈痛な面持ちで、イーレオはそう言った。

 ハオリュウは大怪我を負った。ミンウェイの処置のお陰で大事には至らなかったが、足に障害が残るという。しかもこの先、彼は年少の身で当主として立つことになる。相当な不安を抱えていることだろう。

 執務室が静まり返る。

 春の嵐が、いよいよそこまで近づいてきたのか、外がふっと暗くなった。薄暗い窓硝子に、床に座り込んだメイシアの姿が淡く映し出される。肩を落とし、生気を失ったような角度に首を曲げているのが、おぼろげな像でも見て取れた。

 彼女にも分かっている。

 イーレオを通して聞いたルイフォンの言葉は、苦しいほどにメイシアを愛していた。とても綺麗に愛していた。

 でも――。

「我儘でいいって。欲しいものを欲しいと言っていいって……ルイフォンは言ったの」

 愛することは、決して綺麗なだけではない。優しい言葉と温かい微笑みだけの世界ではない。

 傷つけ合ったり、すれ違ったり、伝わらなかったり。泣いたり、怒ったり、笑ったり……。

「逢いたい」

 小さな呟きが、部屋の空気の流れに逆らう。

「逢って、もう一度、あなたが欲しいって、言いたい……! 伝えなきゃ、駄目なの……!」

 吐き出された想いの奔流が渦を巻き、力強く突き抜ける。

 不意に――。

「メイシア」

 低い声が響いた。

 メイシアは初め、イーレオの声だと思った。けれど、聞こえた方向が違う。

「私がルイフォンのもとに連れて行ってやろう」

「エルファン様……!?」

 次期総帥エルファン。父親そっくりの容貌と声質を持つ、イーレオの長子。互いに見知ってはいても、メイシアと彼は、直接、言葉を交わしたことはなかった。思わぬ申し出に、メイシアは瞳を瞬かせる。

「このまま別れたら、お前もルイフォンも、一生後悔するからな」

 今まで、ひとことも発さなかった彼が、ただの事実だと言わんばかりに端的に述べた。

「エルファン、お前……?」

 意外な風の吹き回しに、イーレオも目を丸くする。エルファンは、愛想のない冷たい美貌のままに、口の端だけを上げた。

「ルイフォンは、父上にはメイシアのことを頼んでいましたが、私には何も言っていません。ならば、私が何をしようと、私の勝手でしょう」

「エルファン様! ルイフォンが何処に行ったのか、ご存知なのですか!?」

 メイシアは、驚きの声を上げた。ルイフォンは、てっきり行方知れずなのだと思っていた。

 そういえば――イーレオたちは、慌ててはいないのだ。ルイフォンが出ていった事態を重く受け止めているが、心配しているのとは少し違う。

「お前は、あの計算高い男が、無計画に飛び出したとでも思っていたのか?」

 エルファンの怜悧な視線が突き刺さる。それは的を射た言葉で、メイシアは恥ずかしくて悔しい。自分はまだまだルイフォンのことを理解していないのだと思い知らされる。

 ――屋敷を出たルイフォンは何処に行くのだろう。

 エルファンの口ぶりからすると、住む場所は確保されていると思われる。知り合いのもとに身を寄せるのだろうか。

 メイシアが一緒に行ったことのある場所は、情報屋トンツァイの店と、シャオリエの娼館だけだ。そのどちらかだろうか。あるいは、彼女のまったく知らない誰かのところに?

 そう考えて、メイシアは否定した。ルイフォンが誰かを頼るとは思えない。彼は自分で生活する自信があるはずだ。何しろ、彼女に『俺のもとに来い』と言ったのだから。

 ルイフォンは、合法的な手段でも稼げると言っていた。けれど、メイシアが知っている彼の職業は、クラッカー〈フェレース〉。鷹刀一族と対等な協力者。本当は鷹刀の一族であって、一族ではない。彼がこの屋敷にいるのは、母親が亡くなったとき、まだ彼が小さかったから……。

「あ……! ルイフォンのお母様の家……。――そうですね!?」

 母親と住んでいた家があるはずだ。そこに〈ベロ〉の兄弟機、〈ケル〉がいると言っていた。家はそのまま残っているはずだ。

 風が、わずかに残っていた桜をさらう。窓硝子に花びらを貼り付け、薄暗い部屋に華やぎを添えていった。

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