5.夢幻泡影の序曲-2
ハオリュウの意識は朦朧としていた。
かすかに開いた目が、悪鬼と化した父の顔を映す。それを恐ろしいとは思わなかった。ただ、せめて道連れにしなければ、と焦っていた。
けれど、懸命に腕を振り上げても力は乗らず、殴りつけたところで、まるで効果がない。
絞めつけられた喉が気持ち悪かった。嘔吐感がこみ上げる。
「お父様、やめて!」
近くで、異母姉メイシアの叫びが聞こえた。
いつの間に、こんな近くまで来ていたのだろう? ハオリュウはそう思い、はっとした。
――姉様、危ない! 来るな!
失いかけた意識が、急にはっきりとした。
異母姉の唇は震えていた。突然、異母弟が父に銃を向け、父が異母弟の首を絞めていたら、混乱するのは当然だろう。
「だ、誰か……!」
「待て! これには、わけが……」
メイシアが助けを呼ぶ。その声に動揺したコウレンの手が緩む。
「ねぇさ……、にげ、てっ……」
ハオリュウは咳き込みながら、懸命に声を出した。
「とぅさ……、かげ……」
その瞬間、どす黒い顔をしたコウレンが信じられないほどに素早く動き、ハオリュウの手から拳銃を奪った。そして、ひと呼吸する間もなく、引き金を引いた。
「駄目――――!」
メイシアの絶叫――!
銃声よりも、衝撃が、激痛が、ハオリュウの五感を覆い尽くした。
耳の中が、轟音に満たされている気がするのに、何も聞こえず。
目の前が、何かの色で埋め尽くされている気がするのに、何も見えず。
……漂っているはずの硝煙の臭いさえも、感じ取れない。
「この、こいつ――っ!」
コウレンが
――メイシアだった。
彼女は咄嗟にコウレンの腕にしがみつき、銃口をそらした。心臓を貫くはずだった弾丸は狙いを外し、しかしハオリュウの太腿を撃ち抜いたのだった。
どくどくと、物凄い勢いで血が流れ出るのを、ハオリュウは感じた。
「ハオリュウ! しっかりして!」
叱責のようなメイシアの叫びが、ハオリュウの耳朶を打つ。
撃たれたのは足だ。……致命傷にならないはずだ。…………異母姉が守ってくれたのだ。……だから大丈夫。…………それよりも、早くこの場から彼女を逃さないと……。
そんな思いが、彼の頭をぐるぐると駆け巡る。
「ハオリュウ!」
「邪魔するな!」
コウレンがメイシアを振り払った。華奢な彼女は、小さな悲鳴を上げて突き飛ばされる。
「ハオリュウは、もはやハオリュウではない! 斑目一族に囚えられている間に、おかしな洗脳をされたのだ!」
ハオリュウは耳を疑った。
「そいつはハオリュウの姿をしているが、
「な……に、をっ……!」
そんなハオリュウの呟きは、コウレンの大声に掻き消される。
「斑目一族にはそういう恐ろしい技術があるのだ!
コウレンは――コウレンの中にいる厳月家の当主は、ずる賢さにおいては決して侮れない人物だった。だから、ハオリュウと自分の境遇をすり替え、もっともらしい説明をすることで、メイシアを味方につけようとしている。
〈影〉が狡猾な笑みを浮かべ、ハオリュウを見下ろす。
優しい父の顔が、卑劣な
「ふざけ……る、な!」
腹の底から、怒りが湧いてきた。純粋な嫌悪に、肌がぴりぴりする。殴り殺してやりたい――!
ハオリュウは、両腕で上半身を起こす。撃たれた足が床をこすり、赤い筋を描く。
美しい文様を持つ絨毯に、酸鼻な装飾が施された。けれど、そんなのは今更だった。絨毯の滑らかな毛足は、撒き散らされた花瓶の水と、無残に踏みつけられた花の残骸に、とっくに犯されている。
足の痛みで遠のきそうになる意識を叱咤し、両手で這うようにコウレンへと向かう。飛散した花瓶の欠片が掌に食い込み、皮膚を裂いた。
許せなかった。こんな男が父を穢すことなど、断じて許せなかった。
――と、ハオリュウ阻むように、メイシアが割り込んだ。
「お父様は、〈影〉のことをご存知なのですか?」
メイシアは緊張気味の、けれど冷静な声で尋ねた。
「お前も、知っているのか?」
「はい。イーレオ様を狙って送り込まれた〈影〉について、先ほど緊急の報告会が行われ、詳しい説明を受けました」
「どい、て……!」
かすれたハスキーボイスに苛立ちが混じる。
異母姉は、〈影〉である父に、〈影〉の話をしている。何故だ!? そいつこそが、〈影〉であるのに――!
けれどハオリュウの声は、異母姉に聞こえなかったのか。彼女はまったく動かなかった。
「お父様の部屋に来る前、お茶をいただこうと思って厨房に行ったんです。そしたら、メイドに言われたんです。『お父様はハーブティーがお好きなんですってね。異母弟さんが教えてくれましたよ』と」
ハオリュウとコウレンが、同時に息を呑んだ。ハーブティーは、父が〈影〉なのか否かを見極めるために、ハオリュウが使った手段だった。
「お父様はハーブティーが苦手なのに――ハオリュウがそれを知らないはずがないのに。おかしいと思ったんです」
「そうだ! そうなのだ! このハオリュウは〈影〉なのだ!」
コウレンが高笑いでもしそうな勢いで、声を張り上げる。
まさかとの思いが、ハオリュウを貫いた。まさか、異母姉に疑われるなんて……。惨めな床の上から、ハオリュウは愕然と彼女を見上げる。
そのとき。
自然に下ろされていたメイシアの両手が、少しだけ横に広げられた。まるで異母弟を隠すかのように……。
ハオリュウは、その後ろ姿を知っていた。子供のとき彼を庇った背中だった。まだ彼の背が彼女よりもずっと低くて、ちょうど今みたいに見上げていたころの――。
メイシアは、コウレンと向き合ったまま話を続ける。
「それから、ハオリュウのところに野蛮な警察隊員が尋ねてきた、とも聞きました。斑目は警察隊を抱き込んでいましたから、何か悪い相談をしていたのではないかと」
「それだ! だから、こいつは
メイシアの話を強引に都合よく結びつけ、コウレンが自身を正当化する。喜色を浮かべるさまは、とても元厳月家の当主とは思えないような小者の様相をしていた。
そんな醜い嗤いを聞きながら、ハオリュウは異母姉の意図を正確に受け止めていた。
彼女は、ハオリュウの行く手を遮ったのではなく、無謀に立ち向かおうとした異母弟を守ったのだ。銃を持った相手を刺激しないよう、細心の注意を払いながら。状況は理解していると異母弟に伝えながら。
異母姉の、無言の声が聞こえる……。
――〈影〉という技術は報告で聞いたから知っているわ。
警察隊員の緋扇シュアンさんと会ったのなら、ハオリュウも知っているのよね?
ハーブティーをお父様にお出ししたのなら、あなたもお父様が〈影〉ではないかと疑ったんでしょう?
そして、今、あなたとお父様が敵対しているということは……お父様は、やはり〈影〉にされてしまった、ということなのね……。
……異母姉も、気づいてしまった。
ハオリュウは、目の前が真っ暗になるのを感じた。
聡明な異母姉が〈影〉という技術を聞けば、すぐに感づくのは分かっていた。だから、急いでいた。
なのに危機に陥り、大切な異母姉に守られるなんて……。
「ともかく、
コウレンが、ひときわ声を張り上げた。愉悦すら含んだ嗤いが頬を吊り上げる。
「メイシア、危ないからどいていなさい」
「……っ」
メイシアは小さく声を漏らした。
「メイシア?」
「……どけません」
「? どうした?」
彼女の体は震えていた。長い黒髪がさらさらと揺れていた。
「〈影〉は、『あなた』でしょう……?」
異母姉の顎から、光る雫が落ちてくるのを、ハオリュウは見た。それは、床に散らばる硝子が放つ、無機質な光とは対極の輝きをしていた。
「もう乱暴なことはやめてください。先ほどの銃声を聞きつけた人が、こちらに向かっているはずです。ここは
「こ、この……!」
コウレンが真っ赤になって叫ぶ。
「ええい! ともかく、
コウレンが癇癪を起こしたように言い捨てた。銃を握りしめ、メイシアを押しのける。
――その銃口をメイシアが掴んだ。
そして強引に引き寄せ、自分の胸に押し当てた。
「な……っ!?」
コウレンが目を見開く。
床に倒れているハオリュウは、一瞬遅れて異母姉の行動に気づいた。だが、その真意は理解できない。
「あなたが銃を向けるべき相手は、私です」
メイシアが凛とした声を放つ。
美しくも、
「生き残りたければ、ハオリュウを殺すのではなく、私を人質に取りなさい」
「どういうことだ?」
コウレンの濁った目に疑問が浮かぶ。
「言ったでしょう? ここは鷹刀の屋敷です。ここでは『あなた』には、なんの権力もありません」
黒曜石の瞳がコウレンを捕らえ、その視線だけで、彼の体の自由を奪う。
「ハオリュウに危害を加えたら、私は鷹刀の力を借りて『あなた』を殺します。――私のことも殺したら、ルイフォンが『あなた』を許すはずがないでしょう。地獄の果てまで追っていくはずです」
「……あ、……ああ!」
コウレンは――コウレンの皮を借りただけの〈影〉は、初めて、ここが敵地の真っ只中であることに気づいたのだった。
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