1.真白き夜明け-3
明るい陽射しが、執務室を包み込む。薄く窓硝子が開けられていても、室内はほんのりと暖かかった。
昨日は、やや風が強かったからだろうか。窓から覗く桜の枝は、だいぶ華やぎを失ってしまっている。止まっている雀が、どことなく寂しげに見えた。
そんな中、執務机の奥で頬杖をつく、鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオ。
そして、その前に立つ、青年になりかけの少年、ルイフォン――。
ルイフォンは軽く顎を上げ、いつもの猫背を伸ばし、イーレオと向き合っていた。
髪は綺麗に
イーレオは息子の服装には何も触れず、ただ、その傍らのメイシアに、にやりとする。昨日までの彼女なら、彼の横に二歩、後ろに一歩ほど離れたところに立っていたはずなのだ。それが、今は真横に寄り添っていた。
「藤咲家当主、藤咲コウレン氏の救出作戦については、夜中に提出した報告書に書いた通りだ」
ルイフォンがテノールを響かせた。
まだ朝の早い時間帯のためか、いつもイーレオの後ろに控えているチャオラウはいない。部下たちに朝稽古をつけているらしい。昨日の夜は遅くまで執務室で待機していたはずなのに、ご苦労なことである。
同じく総帥の補佐として執務室にいることの多いミンウェイは、先に寄ったコウレンの部屋に医者として控えていた。コウレンはまだ目を覚ましておらず、緊張して部屋を訪れたルイフォンは肩透かしを食らったのだった。
その代わりに、というわけではないが、何故か背後にある応接用のソファーで、シャオリエがくつろいでいる。部屋に入った瞬間から、ルイフォンは気になって仕方がなかったのであるが、「ひよっ子は、他人を詮索するより先に、自分の仕事をしなさい」と言われてしまった。
イーレオが、報告書を指しながら尋ねた。
「これに書いてあることに相違ないな?」
「ああ」
「ご苦労」
そう言って、イーレオは眼鏡の奥の目を細め、魅惑的な笑みを漏らす。
「こちらも首尾は上々。お前の計画通りだ。エルファンの部隊に被害はないし、経済制裁の件はシュアンがよくやってくれた。斑目は近く、組織を大幅に縮小せざるを得なくなるだろう」
「そうか。よかった」
失敗するとは微塵にも思っていなかったが、やはりほっとする。安堵の息をついたあと、ルイフォンは、にっと口角を上げた。
「まだ、親父を狙っている〈
ようやく、メイシアの今後についての話を切り出せる。本当は、彼女の父コウレンの許可を得てから、イーレオに持っていきたかったのであるが、眠っていたので仕方ない。
ルイフォンは、猫のような目を好戦的に光らせた。そして勢いのままに口を開こうとしたとき、イーレオの苦い顔に気づいた。
「親父? 何か、あったのか?」
「捕虜の件でな。あとで皆を集めてミンウェイに話してもらう」
その口調から、悪い報告だとルイフォンは察した。
出鼻をくじかれた形になったが――しかし、今ここで言うべきことは言っておかねば、と彼は腹をくくった。
「……親父、大事な話がある」
「なんだ?」
イーレオはルイフォンに目線をやった。その瞳は鋭く、冷たく、すべてを見抜くようで――実際、イーレオには、おおよその話の方向性は理解できていた。
シャオリエが、にやりと笑いながら足を組み替え、体の位置をルイフォンの姿がよく見える向きに変える。その気配を感じながら、ルイフォンは口を開いた。
「メイシアが鷹刀の助けを得るために、親父と『取り引き』したのは承知している」
承知しているも何も、彼の目の前で『取り引き』が成立したのだ。
「とりあえず、親父の愛人に。やがては娼婦になる、という約束だった」
「そうだな」
「その件、反故にして欲しい。――俺の交渉材料は、ふたつある」
ルイフォンから、彼特有の豊かな表情がすっと消え去った。彼が〈
「言ってみろ」
イーレオは顎を載せていた掌から、顔を上げた。ゆっくりと背を起こし、軽く両腕を組んで睥睨する。それだけで、室温が一気に下がった。
「ふたつとも、俺が一族に貢献した案件だ。その報奨として、『取り引き』の反故を要求する」
「ほほう」
「ひとつ目は、藤咲メイシアの父、藤咲コウレン氏を斑目から救出した件。これは彼女との『取り引き』内容そのものだから、俺がやらなければ鷹刀の誰かがやることになったはずだ。――俺はこれを、綿密な事前調査や警備システムの無効化など、俺でなければ不可能な手段を用い、被害ゼロで成功させた」
「ふむ」
イーレオが相槌を打つ。その腹の内は読むことができない。
「ふたつ目は、斑目への経済制裁を提案し、それを実行するための情報を集め、敵対組織を壊滅状態へ追い込んだ件。これは、まだ誰もやったことのない手柄のはずだ。しかも、こちらも鷹刀はまったくのノーダメージだ」
「そうだな。お前は実によくやった」
深々と頷くイーレオに、ルイフォンは一歩前に勇み出た。
「なら、いいよな? メイシアの『取り引き』は反故だ」
彼女を手に入れるために、最高の策を練り、最強の手札を用意した。
総帥としてのイーレオの面目を潰すことなく、親子としての情に頼ることなく、誰もが納得するような、交渉材料だ。獲物を捕らえた猫の目が、口よりも明確に笑う。
しかし――。
「いや、却下だ」
短く発せられた低音が、無慈悲に響いた。
「な……っ!?」
「確かに、お前の働きは素晴らしい。本来なら、なんでも望みを叶えてやるべきだろう。――だが、あの『取り引き』は別だ。あれを反故にできる功績など、存在しない」
落ち着いたイーレオの眼差しが、ゆっくりとルイフォンの顔をなぞる。ややほころんだ口元が、ルイフォンには嘲笑に思えた。
ルイフォンは、つかつかと前に歩み出て、執務机を思い切り殴りつけた。
「ふざけんなっ! 何が不満だって言うんだ!?」
机に載せられていた報告書が、振動で跳ね上がる。それはルイフォンの努力の結晶だった。
しかし、目の前で拳を打ち付けられても、イーレオは微動だにしない。
「お前は、あの『取り引き』の本質が分かっていないな」
イーレオの高圧的な物言いに、ルイフォンは逆上しそうになり、すんでのところで思い留まる。
これは、交渉だ。喧嘩ではない。
冷静になれ、と自分に言い聞かせ、彼は呼吸を整えた。背後ではメイシアが心配そうに見ている。負けるわけにはいかない。
「『取り引き』の本質とは、どういうことだ?」
ルイフォンは問い返す。
「お前は、あの『取り引き』の内容をちゃんと覚えているか?」
「内容って……? 鷹刀がメイシアの父と異母弟を救出する代わりに、メイシアが親父の愛人になったのち、娼婦として働く、だろ?」
ルイフォンの答えに、イーレオは盛大な溜め息をついた。そして、目線を後ろのメイシアにやる。
「メイシア、お前が俺に提案した『対価』を言ってみろ」
「え……?」
突然話を振られ、メイシアは戸惑った。だがしかし、ルイフォンの助けになるよう、できるだけ正確に思い出す。
「私は、イーレオ様に忠誠を誓いました。ただ身を差し出すのではなく、イーレオ様のお役に立ってみせますから、と」
「そうだ」
イーレオが満足そうに笑う。
「お前は半ば、俺の言質を取るようにして、自分に価値があると言い張った。そして、そんな自分を欲しくはないか、と自分を売り込んだんだよ」
「あ……」
強引なやり口だったと思い出し、メイシアは真っ赤になった顔を両手で隠した。
「俺は、そんなお前に魅了された。だから、お前の『取り引き』に応じた。俺は別に、愛人や娼婦が欲しかったわけではない。『お前』が欲しかったんだ。――言ったろ? 俺は、世界で一番、価値があるものは『人』だと思っている、と」
イーレオはルイフォンに視線を戻す。
「あの『取り引き』は、メイシアを鷹刀に縛るためのものだ。俺はメイシアを失いたくない。――だから『取り引き』は反故にはできない」
「親父……」
ルイフォンは絶句した。
用意した交渉材料は完璧だった。それはイーレオも認めている。けれど、交渉は失敗だ。彼女の価値は、他の何ものにも代えられない。どんな功績も、彼女の価値には敵わない。そんなことは、ルイフォンが一番よく知っている。
「あ、あの、イーレオ様」
メイシアが、おずおずと前に出た。
彼女はルイフォンに「すべて任せろ」と言われていた。ただ、一緒についてきて、そばに居てくれればいいと。けれど彼女は、じっとしていられなかった。
膝をつき、
「イーレオ様。私はイーレオ様を尊敬しております。私の忠誠は『取り引き』とは関係なく、イーレオ様にあります。だから、ルイフォンの功績で『取り引き』を反故にしてください。そうでないと、私……私は、ルイフォンと……」
「メイシア、ストップ」
シャオリエの声が鋭く割り込んだ。
「いい女は、男の顔を立ててあげなくちゃね?」
アーモンド型の瞳の片方をつぶって、シャオリエは意味ありげに微笑んだ。メイシアは顔を上げ、きょとんとする。
「……そういうことかよ」
ルイフォンは、溜め息をついた。やっとイーレオの意図が読めた。
彼は癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。せっかく綺麗に整えた髪が、いつものように雑に流される。彼はそのままメイシアのもとに寄り、ひざまずいたままの彼女をふわりと抱き上げた。
「きゃっ」という可愛らしい悲鳴。それを無視して、彼女を抱いたまま、彼はイーレオに向き直る。
「総帥。俺はメイシアを伴侶とし、一族に加えます。あなたは、彼女を失うことはありません。だから、あの『取り引き』は反故に――」
ルイフォンの言葉に、イーレオが満足そうに頷いた。しかし途中で、ルイフォンの瞳が急に鋭くなる。
「――と、いうシナリオにしたかったんだな?」
ルイフォンの尖った声が、イーレオに突き刺さった。
「なんだ、気に入らないのか? 俺もお前も満足の、名案だろう?」
「どこが名案だ!?」
腕の中のメイシアをぐっと胸に押し付け、ルイフォンは言い放つ。
「親父。俺は、こいつには自由であってほしいと思っている。鷹刀も藤咲も関係なく、どちらに属するということもなく、だ」
「ふむ」
「俺はこいつに、鷹刀を抜けると言った。だから、俺のところに来い、とな。そもそも俺は――〈
彼は視線でイーレオを斬りつけた。
「平行線だな」
低い声でイーレオが呟く。
ルイフォンはくっと顎を上げ、不敵に笑った。それから、腕の中のメイシアの顔を覗き込み、心配するなと目だけで囁いた。
「構わねぇよ。だったら奪い取るまでだ」
ルイフォンはメイシアを抱いたまま、
「鷹刀イーレオ、〈
背中越しに、ルイフォンは静かに言った。大華王国一の
――イーレオは、声に出さないよう、喉の奥で低く笑う。
この息子は、簡単には掌で踊ってくれないらしい。昔からひと筋縄でいかない餓鬼だったが、実に面白い男に育った……。
人を魅了する人間。予想外の言動で興奮させてくれる人間が、イーレオは愛しくてたまらない。
「脅迫か?」
努めて低く冷酷な声で、イーレオは尋ねた。
「交渉だ」
ルイフォンが短く切り返す。
「条件は?」
「あの『取り引き』を反故にしろ。その代わり、俺もメイシアも鷹刀に何かあれば協力する。これで譲歩できないのなら、俺はこのままメイシアをさらい、結果として鷹刀は俺もメイシアも失う」
これでイーレオは応じざるをえないはずだが、ルイフォンは駄目押しのひとことを加えた。
「一時間後に〈ベロ〉の電源が自動的に落ちるようにセットしてある」
高度な人工知能が入っていようと、電力供給が止まればコンピュータなどただの
「……それは脅迫だろう」
イーレオが苦笑した。そして頼もしく育った息子の背中に目を細めながら、続ける。
「分かった。ただし、こちらからも条件がある」
「なんだ?」
「鷹刀に何かがあったとき、メイシアが協力するというのは、彼女が自由な身であって初めて可能なことだ。だが、『取り引き』が反故になれば、メイシアは
その質問に、ルイフォンの腕の中のメイシアが、彼の胸を軽く叩いた。彼は頷き、そっと彼女を床に下ろす。
「ハオリュウは認めてくれました。両親にはまだ話していませんが、きっと分かってくれると思います」
メイシアの凛とした声が響く。
「では、こうしよう。藤咲家がお前たちの仲を認めたら、あの『取り引き』は反故だ」
椅子に背を預け、イーレオは腕を組む。
「分かった。……親父、ありがとう」
ルイフォンは頭を下げた。メイシアを手に入れるのは当然の権利と思っていたが、それでも自然に頭が下がった。
彼の隣でメイシアも頭を下げる。窓から差し込む白い光が、彼女の黒髪に祝福のベールを投げかけていた。
そのとき、執務室の内線が鳴り、ミンウェイからコウレンが目覚めたとの連絡が入った――。
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