幕間
不可逆の摂理
『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』
ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。
その言葉の裏を知らなかった新人の俺は、真面目な先輩のただの訓戒だと思っていた。
早朝の射撃場は、
その嘘を
自主訓練を行う者は他にもいるが、休日のこの時間に来るのは俺だけだ。
裏手に広がる森の木々の間を、朝日が分け入る。その中で俺は腕を伸ばし、人の形をした標的を狙う。
一発を撃つまでの時間は、ごくわずか。指先に今や馴染みとなった重みを掛けると、銃声が響き渡り、硝煙の匂いと共に
耳の保護のため、イヤーマフの装着を義務付けられているから、大きな音は聞こえない。だが、指先から掌、腕へと伝わってくる振動から、体全体で射出音を感じる。この瞬間が、俺はたまらなく好きだ。
元から体格がよいわけでもなく、幼い頃から武術を習っていたわけでもない俺は、射撃に強さを求めた。
「流石だな、シュアン。もう俺より上手いなぁ」
全弾を同じ位置に撃ち終えたあと、俺に話しかける声が聞こえた。イヤーマフは爆音をカットするが、人の声は通すのだ。
気配は感じていたけれど無視していただけの俺は、驚くことなく振り返った。勿論、褒め言葉に緩む頬は、きちんと引き締めてある。
「先輩がこの時間に来るなんて、珍しいですね」
決して美形とは言い切れない、造作的にあと一歩足りない、だが人好きのする顔がそこにあった。俺が世話になっている兄貴分。俺に射撃を教えてくれた人、ローヤン先輩。
先輩は俺に軽く会釈すると、隣のブースに立ち、銃を構えた。
一撃、二撃……。
俺の標的とそっくり同じ、中心部にのみ穴の穿たれた標的が隣に出来上がった。
「先輩も、相変わらずお見事ですね」
「おう、ありがとな」
先輩が、気さくな顔でにっと笑う。敵も多いが味方も多い、その理由が分かる笑顔だ。
それからしばらく、俺と先輩は無言でそれぞれの的に向かっていた。
集中力の低下が見え始め、俺と先輩はそろそろ頃合いかと、どちらからともなく片付けを始めた。
「シュアン、朝飯は?」
「まだです」
「じゃ、一緒に行こうぜ」
先輩に誘われるままに、近くの安い飯屋に入った。カウンター席で横並びに座り、朝食は基本だという先輩に倣って、しっかり目のセットメニューを頼むことにする。
注文を待ちながら、俺は何の気なしに尋ねた。
「先輩、今日はどうして早朝から訓練に?」
他の奴なら煩わしいが、先輩なら大歓迎だ。競う相手がいるのは張り合いがある。できれば今後も、などという期待の目を向ける俺に、先輩は考え込むような顔をした。
「先輩?」
「シュアンになら、話してもいいか」
呟くように先輩が漏らした。その言葉に、俺の心が小さな優越感と大きな好奇心に包まれた。
先輩はじっと自分の掌を見て、静かな声で言った。
「一発の弾丸の重さを……確かめに行ったんだ」
「……は?」
そのときの俺は、とても呆けた顔をしていたのだろう。先輩が「すまん、すまん」と頭を掻いた。頼りになる大人の男といった風体の先輩だが、ふとしたときに子供みたいな仕草をする。
「……人に言ったことがない話だからなぁ。上手く説明できる自信がないが……聞いてくれるか?」
「他言無用ということですね」
俺の胸が興奮に高鳴る。先輩は深々と頷いて、そしてゆっくりと口を開いた。
「プロポーズしたんだ」
俺は、え? と聞き返しそうになるところを、ぐっとこらえた。
今までの話の流れから、どうして女の話になるのか? そんな当然の疑問と、『先輩と女』という取り合わせの疑問。
先輩は、モテる。男の俺だって憧れるような人間だ。女たちが放っておくわけがない。だが今まで、不思議なくらいに浮いた噂を聞いたことがなかった。
それが、求婚するほどの仲の女がいたとは……。初耳だ。教えてくれないとは水臭い――ほんの少しだけ面白くない。
俺は努めて平然を装い「ほう」と相槌を返した。すると先輩は、たわいのない話でもするかのように、さらりと言った。
「断られた」
「それはまた……」
俺には他人の色恋に口を挟む趣味はない。面倒くさいことは避けたいクチだ。だから、こんなときには当たり障りなく――。
「――元気出してください」
だが先輩は、そんな俺の上っ面の慰めなど当然、見抜いていて、仕方ない奴だと言わんばかりに苦笑した。
「元気ないように見えるか?」
「……いえ、正直なところ、普段とまったく変わりません」
自分で言っておきながら随分な台詞だと思うが、これが本心。先輩相手に、社交辞令を言っても意味がない。
「慣れているからな」
「慣れている?」
「同じ女に十一回も振られ続けている」
「え……!?」
今度こそ、平然とはしていられなかった。
「いったい、どういうことですか? 付き合っているんでしょう?」
ひとりでいるほうが気楽、という女なのだろうか。それにしても、十回も諦めない先輩も先輩だ。
「ああ、いや、付き合っているというわけでもない」
「はぁ? なんですか、それ」
「彼女のことは……ちょっと公にしにくい。だから秘密にしていた」
先輩は、横並びの俺に顔を向けた。陰りのある瞳が、じっとこちらを見る。
俺は思わず、ごくりと唾を呑んだ。店内は、そこそこの賑わいを見せていたのであるが、まるで俺と先輩のふたりだけの空間に感じられた。
「彼女とは、ある事件で出会った。……俺は、彼女の父親を射殺したんだ」
「え……」
周りの時間が止まったような気がした。その中で、先輩の声だけが聞こえてくる。
「彼女の父親は、いわゆる組織の末端の男だった。彼自身の罪は、たいしたものじゃない。ただ、彼の持っていた情報が厄介でな、組織からも警察隊からも追われていた。彼は追い詰められ、廃ビルに立て籠もった」
先輩は、軽く目を瞑った。眉間には皺が刻まれ、横顔が苦痛に歪む。
「身内として駆けつけた彼女は、父親を説得して自首させると言って、飛び出していった。――その結果、父親はあろうことか実の娘にナイフを突きつけて人質にしちまった」
「なんだって……?」
俺の衝撃に、先輩も「ああ」と応える。
「実の娘だ、まさか危害を及ぼすまい。俺たちも、そう高をくくっていたよ」
先輩が、ふぅと深い後悔を吐き出した。
「俺たちが動じないのを見ると、父親は無理心中をすると言い出した。『どうせ組織からは逃げられない』そんなことを言っていた。そして『娘が死ぬのは警察隊のせいだ』と、『後悔しろよ』と」
俺は息を呑んだ。この場合、警察隊として取るべき行動は、人質の安全の確保だろう。先輩は射撃の名手だ。すぐそばに人質の娘がいても、父親だけを貫く自信はあったはずだ。
ここまで聞けば、もう聞かなくても分かった。
だけど先輩は、俺にまっすぐな目線を向けて、自分の過去に明確な言葉という形を与える。
「人質に危険が迫っていると判断した俺は、迷わず引き金を引いたよ」
潜めた声が、
「彼女の目の前で、父親が死んだ。俺が、殺した」
「……」
「彼女は死体にすがって泣きじゃくり、俺をなじった。――これが彼女との出会い。最悪だろ?」
先輩はわざと軽めの口調を使ったが、それはちっとも功を奏していなかった。
先に出されていた水のグラスの中で、氷が溶けて、からんと鳴った。先輩はそれを一口飲んで、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「……今でもさ、あのときの俺の行動は間違いじゃなかったと、俺は胸を張って言えるよ」
先輩が、言葉とは裏腹に悲しげに笑う。
俺でも同じ判断をしたと思う。だから、俺は何も言えなかった。
「シュアン。あのころの俺は、今のお前よりも、まだまだ若くて青臭かった。だから、彼女の父親を撃ったことは正しかったと、遺族の彼女に納得してもらいたいと思っちまったんだ。だから後日、彼女の家に弔問に行った。それが誠意だと思ったんだよ」
理由はどうであれ、殺した者と遺族の間に和やかな空気が流れるわけがない。話の先を予測した俺が顔をしかめると、先輩も同じ顔で苦笑していた。
「再会したときは彼女も落ち着いていて、俺に命を救われたと、感謝の言葉を口にしたよ。それで俺は調子に乗って、自分の正当性を主張しちまった。そしたら、彼女が言ったんだ――」
あなたは正しいことをしたのでしょう。それは私も認めます。
けれどそれは、あなたが撃ち捨てた『それ以外の無限の可能性』を忘れていい理由にはなりません。万にひとつの可能性だったとしても、父も私も無事だったという未来は存在したんです。
あなたの一発の弾丸は、『それ以外の無限の可能性』を撃ち砕いたんです。その重みを背負って生きてください。
決して、目を背けないでください。
「俺の正義の裏で泣いている者たちがいる。俺はそれまで、そんな当たり前のことに気づけなかった。思い知らされたよ。俺の正義は薄っぺらだった、と」
こんなとき人は、肩をすぼめ、うつむいて話すものではないだろうか。少なくとも俺ならそうなる。けれど先輩は前を向いていた。
「彼女の言葉が忘れられなくて、気づいたら俺は何度も彼女の家を訪れていた。いつの間にか彼女に惹かれていた。彼女に認めてもらえる男になりたいと思った」
「……それは、罪悪感じゃないんですか?」
よく考えれば、酷い言葉だったと思う。けど先輩は、気を悪くすることもなく言った。
「彼女も、俺を偽善者だと罵ったよ」
先輩は穏やかに笑った。そのとき俺は、先輩の気持ちに納得してしまった。
――かつての先輩は打ちのめされ、下を向いていたのだ。
それが、彼女と言葉を交わすうちに変わっていったのだ。
強く――。
彼女の心を守れるように――。
「先輩、歪んだ愛ですね」
俺は、わざとらしく大きな溜め息をついた。
「な……」
「でも、どうやら先輩には彼女が必要なようですね」
笑いを含みながら、俺は先輩の顔を
俺はふと気づいた。よく見れば、先輩のシャツは昨日と変わってなかった。
……なんだ。朝帰りだったのか。
急に馬鹿馬鹿しくなってきた俺は、ふっと真顔を作った。
「他言無用だなんて断らなくても、俺は誰にも言いませんよ」
「ん? ありがとな……?」
微妙な空気を察したのか、先輩が首をかしげながら礼を言う。
そこで俺は、にやりとした。
「皆から慕われている先輩が、実はマゾだったなんて話、とても言えませんよ。部隊の士気に関わります」
「ははは、そうだなぁ」
先輩は屈託のない顔で笑う。
――ああ、本当にこの人は……。……心から、彼女に救われたのだろう。
柄にもなく目頭が熱くなってくる。それを誤魔化すかのように厨房のほうへと体を向けると、湯気の立つトレイを持った店員がちょうど出てくるところだった。
先輩の隣で朝食を摂りながら、俺は思う。
――前途多難だとは思いますが、いい顔してますよ、先輩。
時は流れ――。
俺とローヤン先輩は、たもとを分かった。
どちらが善で、どちらが悪かと問われれば、俺のほうが悪だろう。
そんなことは知っていた。
とある日の夕暮れ。
横から赤く塗られた射撃場で、俺は自主訓練をしていた。冬から覚め、夕日の力が徐々に強くなりかけたこの時期は、まだ電灯の光に頼らずに的を狙える。
ふと入口の扉が勢いよく開かれ、同僚のひとりが飛び込んできた。
「ローヤン先輩が、結婚するんだって!」
平日のこの時間帯は、結構、人の入りが多い。相手は誰だ、どこで知り合ったと、あっという間に大騒ぎになる。
誰と、なんて聞かなくても分かっている。
あの先輩が心に決めた女以外と一緒になるわけがない。
ああ、そうか。ついに受け入れてもらえたのか。
お幸せに――。
俺は空に向かって祝砲を上げた。
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