4.窓辺に吹く風-1

 開け放した窓から、ふわりとした風が舞い込む。

 シュアンのぼさぼさ頭を、ミンウェイの波打つ髪を、軽やかに揺らし、応接室の中に溶け込んでいく……。

 ミンウェイを包むシュアンの両腕は、しっとりと温かかった。

 体温には人を惑わす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己われで、どこからが他者かれであるかの境界線を不明瞭にする。

 制服のしゃりっとした布地が彼女の首筋をこすり、その感触だけが、かろうじてシュアンの存在を主張していた。

 ……彼の感情が、彼女の心を侵食していく。

 このことを彼は知っているのだろうか。それならば、なかなかの策士だ。だがそれは、彼の心をさらけ出すことでもある諸刃の剣。

 シュアンの言葉には誇張はあるが、嘘はない。虚勢の中に、すっかり色あせた、けれども今も変わらぬ少年の心が透けて見える。

 頑なに彼を拒絶する理由は、ないのかもしれない。――シュアンに気を許しつつある甘い自分を自覚しながらも、ミンウェイはそう思う。

 それに、彼の絶望を宿す目が気になってならなかった。

 彼には何もないのだ。目指すものも、守るものも。

 惰性だけで生きている。

 狂犬どころか、迷い犬だ。そんなところが過去の自分と似ていると、彼女は思った。

「……あなたは、そのカードを今ここで切っていいのですか?」

 シュアンの腕の中で、ミンウェイが尋ねた。彼女の吐息が、彼の胸元に掛かる。

「カード?」

 問い返したシュアンに、ミンウェイが顔を上げた。

「あなたが警察隊の中で突飛な行動が許されるのも、鷹刀に提示できる情報を持っているのも、すべてあの指揮官のおかげなのでしょう?」

 その言葉に、シュアンは、ほのかに笑う。

「ミンウェイさんよ、俺は勘定が得意なんだ。鷹刀イーレオに恩を売れるのを考えりゃ、あんな男くらい……」

「手札の使いどころを間違えては駄目ですよ」

 シュアンの言葉の途中で、ミンウェイの声が、こつんと彼の頭を叩いた。

 彼女は微笑んでいた。その慈愛の眼差しに、シュアンは息を呑む。

 それは、幼い日に我儘をたしなめてくれた、あの優しさに似ていた。永遠に失われた、あの温かさに。

「……だが、鷹刀イーレオは偽警察隊に囲まれているんだぞ。それは、どうする気だ?」

「私たちには奥の手があるから大丈夫なんですよ」

 こっそり秘密を漏らすような茶目っ気で、ミンウェイが答えた。

「…………参ったな」

 シュアンは敗北を悟る。

 これ以上、何を言っても彼女を落とすことは不可能。

 お手上げだ、とばかりにミンウェイを包んでいた両手を外し、シュアンは肩をすくめた。

「そんな熱い目で見つめられたら、何も言えなくなるな」

 シュアンの軽口に、ミンウェイがくすりと笑う。

「大事なカードを切らなくても、祖父に引き合わせて差し上げますわ。ただし、口添えは致しませんけどね」

「は……!?」

 突然の申し出に、シュアンは狐につままれたような顔になる。ミンウェイの心変わりの理由を、彼の間抜け面が必死に問うていたが、彼女はくすくすと笑い声を立てて、はぐらかすだけだった。

 ――そのときだった。

「入るぞ」

 唐突に低く響く、魅惑の声。

 いつの間にか、バルコニーに人影があった。風に揺れるレースのカーテンに、黒い影がゆらゆらと映し出されている。

 白いレースに、がっしりとした男物の手が掛かり、カーテンが大きく開かれた。

 陽光を背にした、すらりとした長身。この屋敷には、姿形の酷似した血族が複数住んでいるが、逆光の中でもミンウェイは彼を間違えることはなかった。

「エルファン伯父様!」

 ミンウェイが歓喜に震え、思わずソファーから立ち上がる。空港で拘束されたという報告のあと、屋敷への連絡がなかった伯父の帰還だった。

「お帰りなさいませ」

「ミンウェイ、得体の知れない奴に同情するな」

 部屋に入ってきたエルファンは、冷たくシュアンを一瞥し、黄金率の顔をしかめた。

「すみません……」

 ミンウェイの整った眉が下がり、波打つ髪が立つ瀬なくうなだれる。

「いちいち情を移していたら、お前が壊れてしまうぞ」

「伯父様……」 

 淡々とした言葉は、硬質でありながら、どこか柔らかい。エルファンが身内にだけみせる声色に、ミンウェイの顔がふわりと華やいだ。

「あとは任せろ。留守の間、ご苦労だった」

「いえ。伯父様がいない間に面倒なことになってしまい、申し訳ございません」

「事情は途中で連絡の取れたルイフォンから、だいたい聞いている。父上のお遊びが過ぎただけだろう? お前が気に病むことは何もない」

 不意に、「ごほん」と、咳払いが聞こえた。

 まるで存在を無視されていたシュアンである。

 彼はすっと立ち上がり、エルファンの前に出た。そして、今までの彼らしくもなく、きっちりと会釈する。

「あんたが、次期総帥の鷹刀エルファンさんですね?」

「いかにも。そういうお前は、警察隊の緋扇シュアン――『狂犬』だな」

 その言葉に、上がりかけていたシュアンの右手が、ぴたりと動きを止めた。しかし次の瞬間には、彼の顔が満面の笑みで彩られる。明るく親しみやすい、人好きのする顔である。

「ああ、あれは演技ですよ、演技。日頃から気ちがいじみた言動を取っていれば、俺が多少、『やんちゃ』しても、誰も疑問に思わないでしょう? それが俺の行動の自由に繋がるわけです」

「ふむ……」

 エルファンが感情の読めない声で相槌を打った。それから、すぐにまた興味を失ったかのようにシュアンから視線を外す。

 だが、シュアンはエルファンの横顔に話を続けた。笑顔の花を咲かせたままに――けれど、その目は笑っていない……。

「俺と、手を組みませんか?」

 ミンウェイが、総帥イーレオに渡りをつけてくれると約束してくれたばかりであるが、次期総帥と直接、話ができる――これはチャンスだった。

 陽光をふんだんに含んだ春風が、カーテンをふわりと揺らす。頬をかすめた空気が、シュアンには何故だか冷たく感じられた。

「ほぅ?」

 エルファンの口角が皮肉げに上がる。

「お前と手を組むと、どんなことが起こるんだ?」

 反応が返ってきたことにシュアンは手応えを感じた。彼は少し考えるような素振りを見せて、ちらりとミンウェイを見やる。

「そうですね。……例えば彼女のような美女とデートができたら、さぞ美味い酒が飲めるでしょうね。つい饒舌になって、仕事のことを口走ってしまうかもしれません」

 シュアンの返答が興に乗ったのか、エルファンの顔の角度が少しだけこちらに向いた。黒髪に紛れていた白い髪が現れ、きらりと陽光を弾く。

「例えば、どんなことを?」

「繁華街の抜き打ち調査がいつ行われるか、とか。警察隊高官の誰が金に困っているか、とか……。まぁ、いろいろですね」

 エルファンが声もなく目元だけで笑った。魅惑の微笑は禍々しく、シュアンの背を汗が流れ落ちる。

 しばしの沈黙ののち、エルファンの節くれだった硬い手が、すっと差し出された。

 握手を求めているのか、気に入られたのか! ――シュアンは、にぃっと微笑む。彼は音が鳴るほど勢いよく、その手を取り、力強く握りしめた。

 すると、エルファンも握り返し――。

 突然、エルファンがシュアンの手を引き寄せ、よろけた彼の足元を蹴り払った。

「え――?」

 それは、ほんの一瞬のできごとであったに違いない。しかしシュアンは、自分の体が空中を泳ぐのを認識した。

 驚きのあまり、彼の眼球は飛び出さんばかりに膨れ上がり、ぼさぼさ頭に載せられていた制帽は遥か後方へと飛んでいく。

 どさり。

 シュアンの体が床に落ちた。毛足の長い絨毯のおかげで、恐れていたほどの衝撃はなかったが、やはり痛いものは痛い。

 理不尽な扱いに友好の仮面が剥がれ、血走った三白眼がエルファンを探す。その次に彼が見たものは、冷たい銀色の煌めきだった。

「な……!?」

 鋭い唸りを上げ、エルファンの腰から飛び出した二条の光。

 ひとつの刀をいかづちふたつに斬り裂いたかのような双子の刀。

 それらが優美な軌跡を描きながら、閃光の速さでシュアンの喉元めがけて落下する。

 シュアンは目を見開いたまま、身動きを取れない……。

 凍った時間の中で、続けて二度、空気が震えた。

 気づけば、シュアンの喉仏の上で、ふた振りの刀が交差して床に突き刺さっていた。

「伯父様……!?」

 ミンウェイの色を失った声が響く。

「……手を組む? 勘違いするな、青二才。鷹刀の看板は、お前如き下っ端が対等になれるほど軽くはない……」

「……っ」

 氷の眼差しがシュアンの喉を凍りつかせ、声が封じられる。大きく見開いた目の中の、目玉だけを動かして、彼はエルファンを見上げた。

 エルファンは「ふん」と言うと、シュアンに握られた手の穢れを祓うかのように服で拭った。

 シュアンの首筋と、左の耳たぶの薄皮が一枚、風圧によって斬り裂かれていた。

『神速の双刀使い』――加齢により、その呼び名は息子たちに譲ったエルファンだったが、今なお、その神業は健在だった。

「だが……。お前というカードは使えるかもしれない」

 シュアンに落とされていた蔑みの視線に、魅惑の微笑が混じる。

 やられた、とシュアンは思った。

 エルファンは端からシュアンと手を組む気でいた。その上で、どちらが主導権を握るかの駆け引きを仕掛けてきていたのだ。

「それはそれは……。ありがたいね。てっきり嫌われたかと思ったぜ」

 せめてもの減らず口。

「個人の好悪を優先するような幼稚な感情を、私は持ち合わせていない。利益があると思えば、お前のような者でも使う」

 シュアンの神経を逆なでするようなことを、エルファンは平然と口に載せる。

「……あんたみたいな相手だと、俺もやりやすいね」

 わずかにでも動けば、白銀の刃が皮膚を斬り裂く状況で、シュアンは笑った。予定とはかなり違うが、鷹刀一族とのパイプができたことを実感していた。

 エルファンが、ゆっくりと近づいてきて、シュアンの顔に影を落とした。

「とりあえず、お前に役に立ってもらおうか」

 渋く魅惑的な声が響き、ふた振りの刀は銀色の軌道をくるりと描いて、ひとつの鞘に戻っていった。

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