4.渦巻く砂塵の先に-3

 リュイセンは、ちらりとルイフォンに目を向けた。

 それに応じて、ルイフォンが頷く。

「さて、と――」

 リュイセンがタオロンを視線で捕らえた瞬間、ルイフォンが動いた。

 次々に起こる出来ごとに、心が麻痺してしまったメイシアは、呆然としていた。だから、力強い手に引き寄せられたとき、いったい何が起こったのか、彼女はまるで理解できなかった。気づいたら、地面に転がり込んでいて、けれど温かい胸と腕にしっかりと抱きしめられている。血と汗の匂いが彼女を包み込んでいた。

「無茶しすぎるなよ……」

 メイシアの耳元で、ひび割れたテノールが響く。ルイフォンの癖のある前髪が、彼女の頭を優しく撫でた。

「無事で、よかった…………」

「ルイフォン……?」

 泣き笑いのような声に、メイシアが目を丸くする。

 その背後で、リュイセンが物言いたげに口を開き、しかし何も言わずに口をつぐんだ。彼は、ふたりがタオロンの間合いから逃げ出しているのを確認すると、両手の刀を合わせる。双刀はふたつでひとつの鍔を象り、仲良くひとつの鞘に収まった。

 メイシアをしっかり抱きしめたまま、ルイフォンが半身を起こした。

「なぁ、斑目タオロン。一時休戦としないか。万全の状態じゃないお前は、リュイセンには勝てないだろうし、俺はこの有様だ。正直、帰りたい」

「鷹刀ルイフォン……、だが、俺は……」

 メイシアにちらりと目をやって、タオロンは口ごもる。小さな黒い目は、小さな子供のように揺れていた。

「この俺に、勝敗の決まりきった無駄な戦いをさせる気か?」

 リュイセンの言葉に、ルイフォンが微苦笑する。

 タオロンは一同を見渡し、小さく息を吐いた。それから口元を結び、抜き身のままだった大刀を鞘に収めた。



 去り際、タオロンは一度足を止めて、振り返った。

 太い眉の下で、愚直なほどに真っ直ぐな瞳が、メイシアを捉える。わずかに逡巡しながらも、彼は声を上げた。

「……藤咲メイシア、鷹刀の屋敷へ行け」

 言われなくても、そのつもりだ、とルイフォンは思ったが、声には出さなかった。タオロンがわざわざ言うからには、意味があるのだろう。口を挟まずに、しばし様子を見守る。

「――それが、一番いいことかどうか、俺には分からねぇ。けど、少なくとも『お前にとっては』悪くはない……はずだ」

「タオロンさん……?」

 メイシアが、疑問混じりの声を上げる。

「お前はこんなところで朽ちていい人間じゃねぇ。元の世界に戻れ」

 吐き出すように言って、タオロンは踵を返した。

「待ってください! どういう……?」

 思わず駆け寄ろうとしたメイシアの腕を、ルイフォンが掴み、彼女の体を引き寄せる。

「奴は最大限の譲歩で情報をくれた。それ以上、訊いたら駄目だ」

 そう囁くルイフォンの声を耳聡く聞き取ったタオロンが振り返り、「すまねぇな」と苦笑した。

 メイシアにとっては悪くないはず――彼女を思いやる発言だが、裏を返せば彼女以外の者の危険を言外に告げている。そして、その危険の原因は、まず間違いなく彼の属する斑目一族にあるのだ。

 メイシアは状況を理解し、はっと口元に手をやった。

「じゃあな」そう言って身を翻そうとするタオロンに、彼女の口から「あのっ!」と、驚くほど大きな声が飛び出した。タオロンのみならず、ルイフォンまでもが目を見開く。

「ありが……」

 タオロンは、いい人なのだ。命のやり取りまでする羽目になったが、彼が望んでのことではなかった。それどころか、気持ちは彼女に近いところにあった。

 だからメイシアは、別れ際の背中に、ひとこと言わずにはいられなかった。

 ……けれど。

 言いかけて、気づく。

 タオロンは斑目一族の人間で、鷹刀一族とは敵対しており、メイシアの藤咲家に害をなす存在。感謝の言葉は、タオロンを困らせ、罪悪感を誘うだけだ。

「あ、あの……。……お怪我は大丈夫ですか!?」

 自分でも間抜けなことを言ったと、メイシアは思った。

 濡れた血が未だ生々しく貼り付いているタオロンの右腕。彼女の罪の証。

 もし時間が遡って、あの瞬間に戻ることがあったとしても、彼女は何度でも同じことを繰り返すだろうと思う。だから後悔はない。けれど、今現在、彼の傷の具合いを気にすることくらいは許してもらえないだろうか……?

 そんな彼女の内心は、タオロンには分からない。だが必死な様子に、彼は破顔した。

「かすり傷だ」

 メイシアが心配そうに見上げていると、タオロンは額からバンダナを解き、片手と口を使って器用に上腕を縛った。

 そうして彼女から傷口を隠すと、彼は今度こそ全力で走り出した。これ以上、この場にいたら、情が移ってしまう――そんな強迫観念に駆られるかのように。

「いったい、何が起こるっていうんだ……?」

 タオロンの後ろ姿を見送りながら、ルイフォンが、ぽつりと呟く。

「ルイフォンも傷の手当てを……」

 そう言いかけたメイシアは、途中で言葉を止めた。

 ルイフォンの横顔からは猫のようにくるくると変わる表情は消え去り、端正で無機質な〈フェレース〉の顔になっていた。

 彼は半ば、メイシアから奪うように携帯端末を受け取ると、素早く指先を動かし、何やら操作を始めた。

 編まれていない長髪を、鬱陶しそうに横に払う彼に、彼女はほんの少しの寂しさを感じたが、邪魔をしてはいけない。そう察する。

 メイシアはルイフォンに目礼をすると、埃にまみれた長い髪を翻し、今度はリュイセンに向かって深々と頭を下げた。彼女は、彼の名前から、彼がイーレオの孫であり、ルイフォンの年上の甥であることをきちんと理解していた。

「リュイセン様、助けていただき、ありがとうございました」

 貴族シャトーアの娘に『様』つきで呼ばれたことに、リュイセンは戸惑う。貴族シャトーアなどというものは、高慢なものだと思っていたのだ。

 リュイセンは、彼女に対して悪感情しか抱いていなかった。即刻、排除すべき対象であると認識している。ミンウェイやルイフォンのために、仕方なく助けただけで、これから彼らを質問攻めにせねばと画策していたところだった。

 リュイセンは狼狽を隠そうと、威圧するように、くっと顎を上げた。タオロンほどの体の厚みはないが、上背は同じか、むしろそれ以上ある。若かりし日のイーレオを想像させるような姿が、そこにはあった。

 そんなリュイセンに臆することなく、小鳥のようなメイシアが黒曜石の瞳で見上げる。頬に泥の化粧が施されていても、彼女の芯の美しさは損なわれるものではなかった。

「私の浅はかな行動のせいで、鷹刀の皆様にご迷惑をおかけしています」

「ふん。本当に、いい迷惑だ。貴族シャトーアだからといって、思い通りになると思うなよ」

「はい。私が歓迎されない存在だということも、わきまえております。シャオリエさんから教わりました」

「な……っ!」

 突然、リュイセンが目をむいた。肩までのさらさらとした髪が逆立つ。

 何かおかしなことを言ってしまったのだろうかと、メイシアの心臓が飛び上がった。不安げな彼女に、リュイセンの低い声が轟く。

「シャオリエ『さん』だと……? お前、あの方は……!」

「え……!?」

 ルイフォンが気安く呼び捨てにしていたし、街の情報屋のトンツァイや、その息子のキンタンも『さん』で呼んでいた。だから、メイシアもそんな感じでよいだろうと思っていたし、本人も異を唱えなかった。

 そう考えて、メイシアは、はっとする。

 ルイフォンにとってはシャオリエは親代わり。街の人々は一族ではないので、イーレオのことすら『さん』付けだったのだ。

「あの……。あの方は鷹刀の一族だった頃、どのようなお立場の方だったのでしょうか……」

 恐る恐る、メイシアは尋ねる。

「知らん」

「え?」

「俺が生まれたときには、とっくに一族を抜けていた方だ。だが、次期総帥の父上が最上の礼を取っている。父上が、総帥の祖父上以外の人間に膝を折るのは、シャオリエ様だけだ」

「し、失礼いたしました」

「今度から気をつけろ」

 やはり貴族女は不愉快だと、リュイセンは鼻を鳴らし、そこで会話を打ち切った。

 そしてリュイセンは、携帯端末に向かったまま難しい顔をしているルイフォンに目を向ける。

 見たところ、怪我は打撲のみ。内臓に損傷が出ている様子もない。しばらく痛いだろうが、その程度だろう。

 いつもなら、機械操作的な作業は専らルイフォンの担当で、だから屋敷への連絡は彼がやるものと思っていたリュイセンは、溜め息をついた。頭が異次元に行ってしまった叔父には、何も期待できない。

 仕方ないので自分の携帯端末で屋敷に電話をかけると、待ち構えていたようなミンウェイが即座に出た。

『状況は!?』

 大丈夫? のひとことくらいは言ってくれてもいいだろう、と思いつつ、リュイセンは報告をする。途中でミンウェイの安堵の溜め息が聞こえ、溜飲を下げた自分が少し、腹立たしかった。

『よかった……。無茶言って、悪かったわね。ありがとう』

「ともかく、屋敷に戻る。迎えの車はどうなっている?」

 奪ってきたバイクでの三人乗りは厳しい。だが、それには『そろそろ、そちらに着くと思うわ』との、嬉しい返事が返ってきた。

『料理長が腕を振るって待っているわよ』

「おお! さすが料理長だな」

 帰国後の楽しみのひとつを前に、リュイセンは舌鼓を鳴らした。

 そこに、ルイフォンの声が割り込む。彼は、自身の携帯端末を手に、鋭い猫の目をぎらつかせていた。

「ミンウェイ、外を見ろ! 警察隊が来るぞ!」



「なるほど……」

 スピーカー出力によって、リュイセンとミンウェイのやり取りを聞いていたイーレオは、回転椅子の背もたれをぎいと鳴らし、背を起こした。

「ミンウェイ、付近を偵察させている連中に屋敷に戻るように指示を出せ。無駄に争うな」

 斑目一族がなんらかの方法で攻めてくるとは予測していた。だが、警察隊を使ってくるとなると、対応が異なる。

 イーレオはゆっくりと立ち上がり、桜に彩られた窓辺に立った。カーテンに身を隠すようにして、外の様子を窺う。

 地上の殺伐とした騒動など知ったことかと、陽光はあくまでも穏やかに降り注いでいた。雀が無邪気に遊ぶ様子に、イーレオの表情がわずかに緩む。

「イーレオ様、危険ですよ」

 脳天気な主人をたしなめ、チャオラウがすっと脇に立つ。万が一の時には、彼が身を挺して守るつもりだった。

 凶賊ダリジィンは基本的に拳銃を扱わない。刀剣などよりも、よほど強力な武器であることは誰もが承知しているし、裏世界の住人である凶賊ダリジィンが密輸できないわけがない。それでも抗争において忌避するのは、強い者が支配するという分かりやすい構図を、文化として持ち続けた結果である。

 己の力以外に頼ることを無粋とし、それを破れば卑しまれ、人望を失う。

 また、強すぎる武器は互いを潰し合い、疲弊させる。だから、それは自然と生まれた秩序であり、暗黙のルールともいえた。

 もっとも、そんなかびの臭いのする時代錯誤な誇りなど、既に形骸化しているのではないか、とチャオラウは考えている。目の前に強力な武器があるのに、それを敵が使わずにいると信じ込めるほど、彼はお人好しではなかった。

 ともかく、これらはあくまでも、凶賊ダリジィン同士でのこと。警察隊には通用しない。なので、窓際に立つということは狙撃の心配があった。



 ミンウェイの指示を受けた者たちが、ぞくぞくと門から屋敷に入ってくる。

 それがひと段落した後に、にわかにサイレンの音が屋敷を取り囲んだ。

「ミンウェイ、門の監視カメラの映像を、この部屋のモニタへ」

 モニタの中で、警察隊員たちがわらわらと車から降り、門の前に詰め寄せた。

 最後に、ひときわ目立つ車から、頭頂の乏しい恰幅のよい男が降りてくる。指揮官であろう。肩をいからせた高圧的な歩き方で、門の警護をする門衛たちに近寄った。

「さて、俺の罪状は何かな?」

 楽しげにすら聞こえる声で、イーレオが言う。

『鷹刀イーレオ! 貴族シャトーアの藤咲メイシア嬢の誘拐の罪で逮捕状が出ている!』

 男が叫ぶ。

「ほぅ……。なるほど、そう来るわけか」

 イーレオが眼鏡の奥の目を細めた。

「先に貴族シャトーアの子息を誘拐したのは、斑目の方でしょうに……まったく、厚顔なことですなぁ」

 チャオラウが呆れたように無精髭を揺らす。

「さて、どうしたものか……」

 イーレオがひとりごちる。

 ここを通せと怒鳴る男に、勝手はさせぬと立ち塞がる門衛たち――状況が掴めるまで門を死守せよと命じられている彼らには可哀想だが、もう少し情報が欲しいところだった。

 そこに、ひとりの警察隊員が割り込んできた。

 制帽の徽章からしても、三十路手前に見える年齢からしても、階級はさほど高くないだろう。

 彼は、上官であろう男の前をつかつかと横切り、問答無用で拳銃を抜いて、ひとりの門衛の胸にぴたりと照準を当てた。

 何年も櫛を入れていないような、ぼさぼさに乱れまくった頭髪。ひとつひとつの顔の部位は整っているにもかかわらず、血走った目がすべてを台無しにしている。不健康そうな青白い肌。そして目の下にはごっそりと隈ができてた。

 チャオラウが息を呑む。

「イーレオ様! あれは……」

「『狂犬』……緋扇ひおうぎシュアン!」

 イーレオの顔に初めて焦りが生まれた。彼はミンウェイの前にあるマイクを奪い取り、門のスピーカーへと直接声を届けた。

「門を開けてやれ!」

 指揮官の男がにやりとする。

『メイシア嬢を探せ! 屋敷中くまなくだ! ……あるいは、不幸にも死体になられているかもしれないがな……』

 屋敷を囲んでいた警察隊たちが、門から一気に雪崩れ込む。


 ――メイシアは、ルイフォンとリュイセンと共に、屋敷に向かっている。

 彼女をこのまま、こちらに向かわせて良いのか……?

 ミンウェイは、ごくりと唾を呑み、総帥である祖父の秀麗な顔をじっと見つめた……。



~ 第三章 了 ~

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