3.怨恨の幽鬼-2
斑目一族への対抗策を講じるため、執務室に呼び出されたチャオラウは、苛立ちを隠すかのように、しきりに無精髭を触っていた。彼は、イーレオの護衛であり腹心であり、一族の武術師範でもある。
彼らの眼前の大モニタには、ルイフォンの携帯端末の位置情報が映し出されていた。点が移動しているということは、隠れた場所から見つかったということにほかならない。ルイフォンの力量を正確に知っている師匠のチャオラウは、苦い顔にならざるを得なかった。
迎えの車は、とっくに出してある。だが、ルイフォンたちのいる場所は、貧民街の端のあたり。今は廃墟と化した商店街である。車を示す点は、まだ地図上に現れてすらいない。
張り詰めた空間に、携帯端末の呼び出し音が響いた。発信元はルイフォンと表示されている。
「音声通話?」
疑問の声を上げながらも、ミンウェイがスピーカー出力で通話を受けた。
『メイシアです――』
その場にいた三人は顔を見合わせた。
ルイフォンは、自分の携帯端末を決して他人に触らせない。端末から繋がる情報は、彼の命にも等しいものだからだ。故に、無理に操作しようとすれば、端末は即座に機械としての矜持を
電話口からは、全力で走っていることが伝わる荒い息が聞こえてきた。それは、事態の逼迫を物語っていた。
『斑目タオロンという人は退けました。けれど、今度は〈
そこで通話は切れた。
その場にいた全員に、衝撃が走った。
「……嘘……?」
ミンウェイが乾いた声を漏らす。
彼女は、耳を疑った。目の焦点が定まらず、全身の力が抜け落ちる。激しい耳鳴りの中で、メイシアの言葉を反芻していた。
「ミンウェイ!」
イーレオが叫ぶと同時に、チャオラウが動き、卒倒しかけたミンウェイを支えた。彼女は蒼白な顔で唇をわななかせていた。
「どうして……?」
〈ベラドンナ〉とは、『美しい淑女』という意味を持つ、可憐な毒花――そして、ミンウェイが過去に捨てた、毒使いの暗殺者としての通り名であった。
「行かなきゃ……」
チャオラウの肩に掴まりながら、ミンウェイは呟く。
「慌てるな、ミンウェイ」
イーレオが鋭く制止の声を上げる。
「敵が〈
「でも……! 本当なら……。……確認に行かせてください!」
ミンウェイが、イーレオに懇願の眼差しを向けた。しかし、イーレオは――鷹刀一族の総帥は、首を横に振った。
「ミンウェイ。お前は、俺の大切な一族なんだ」
「お祖父様……?」
イーレオは眼鏡の奥の目を伏せた。目尻に皺が寄り、若作りの魔法が溶ける。
「お前の気持ちは分かる。気になって当然だろう。だが、お前を行かせることは得策とは言えない」
「…………。理由を、お聞かせください」
「今のお前は冷静とはいえないからだ。現在、一族にとっての命題は、ルイフォンとメイシアを救出することだ。〈
「あ……」
自身のことでいっぱいになり、彼らのことを忘れていた自分に気づき、ミンウェイは羞恥に顔を朱にする。
「――仮に〈
「…………」
「奴と敵対して、ルイフォンたちを救い出すか? ……無理だろう? お前じゃ勝てない。それとも――敵対しないのか……?」
「……!」
「俺は嫌だね。俺はお前を奴に取られたくない。だから、お前を奴に会わせてやらない」
まるで子どものような言い草だが、その言葉にミンウェイは息を呑む。それを確認してから、イーレオはゆっくりと続けた。
「俺の一族には、お前が必要だからな」
イーレオは回転椅子に背を預け、彼女をじっと見上げた。その視線に心を貫かれたかのように、彼女は身動きを取れず、瞬きすらも忘れていた。
「そうですよ」
今までずっと沈黙を守ってきたチャオラウが、そっとミンウェイの背中を支えた。
「大雑把なイーレオ様だけでは部下としては不安でなりませんし、無愛想なエルファン様では士気が下がります。きめ細やかなミンウェイ様の補佐があってこその、鷹刀ですよ」
「よく分かっているじゃないか、チャオラウ」
回転椅子をぎぃと鳴らし、イーレオが背を起こす。
「私は長年、イーレオ様の部下としてお仕えしてきましたからね。下の者の不満は、すべて把握しておりますよ?」
「ふむ? そりゃ、不満じゃなくて、ただの事実だろう。けどまぁ、いいじゃないか。完璧な人間が上に立ったら、下につく者は息苦しいだけだからな」
「ああ、なるほど。だから私たちは、イーレオ様を総帥として仰いでいるというわけですね」
執務室に、ふたりの低い笑い声が響く。
ミンウェイは、すっと肩の力が抜けていくのを感じていた。これが鷹刀一族なのだ。そして自分は一族の利益のために動くのだ――。
「取り乱してすみませんでした。確かに私が行くのは得策ではありません。……それに、今から出たところで遅すぎます」
ミンウェイは唇を噛む。ルイフォンが窮地に陥っているのに、こちらからの迎えはまだ到着しそうにない。
「ルイフォン様の機転と詭弁に期待するしかないですね」
師匠たるチャオラウが、苦々しげに呟いた。逃げ延びるだけの技術なら教えこんであるのだ。だがそれは、あくまでもルイフォンひとりの場合であった。
「ミンウェイ、エルファンは空港に着いていたな?」
唐突に、イーレオが低い声で尋ねた。
ミンウェイは、はっとした。倭国から帰国した伯父たちなら、空港から屋敷に向かう途中で、貧民街の近くを通るはずだった。
ミンウェイは目礼をして、イーレオの前の電話を取る。出力はスピーカー。登録済みのエルファンの番号を選ぶと、相手は二コール目で出た。
――だが、無言のままに回線は切断される……。
「え……?」
ミンウェイは困惑した。こちらの番号はイーレオのものだ。一族の者なら誰でも即座に受けるはずだ。通信状況が悪いのだろうか。
「……向こうでも何かあったな……」
イーレオが、くしゃりと前髪を掻き上げた。さらさらとした黒髪が指の間から零れ落ち、額に舞い戻る。
ミンウェイが不安げにイーレオの様子を窺うと、彼は執務机に片肘を付き、頬杖をついた。
「心配するな。エルファンは一度、通信を受けてから切っている。こちらの意図は伝わっているはずだ。じきに向こうから連絡をよこすさ」
そんな楽観的な、と言いかけたミンウェイだが、イーレオの綺麗な微笑の前に、口をつぐまざるを得なかった。
「険しい顔をしてないで、桜でも見たらどうだ? 焦ったところで、だ」
イーレオが窓を示すと、そこから顔を覗かせている桜が、ひらりと花びらを落とした。蜜を吸いに来た雀が、枝に載ったはずみで散らしたのだ。
促されたミンウェイは、視界の端での営みを見るともなしに瞳に映す。
雀がくちばしで花を手折り、器用に蜜を吸う。喉を震わせ、満足すると、用の済んだ花をぷいと飛ばした。その花が、先に地に落とされていた花びらと再会を果たしたとき、イーレオの電話が鳴り響いた。
発信者はリュイセン――エルファンの息子。
「リュイセン!」
ミンウェイは、受話器に飛びつくと同時に叫んだ。「雅のない……」というイーレオのぼやきが聞こえるが、それに構っている余裕などない。
『ミンウェイか。祖父上はそこにいらっしゃるな?』
イーレオによく似た、だが張りのある若々しい声が響く。
「ええ。スピーカーで聞いてらっしゃるわ。チャオラウも一緒よ。それより、そっちはどうなっているの? 屋敷に向かっている途中じゃないの!? エルファン伯父様は!?」
ミンウェイの矢継ぎ早の質問に対し、怒りの火種を必死に抑えているのが明確に分かる、低い声が返ってくる。
『空港で拘束された。密輸入の容疑、だそうだ』
「なっ……! 何、それ? 疑われるような真似をしたの?」
『何もしてねぇよ! これは、そっちで起きている問題の余波だろ!?
リュイセンはあっさりと爆発した。勢いに押され、思わず後ずさったミンウェイに代わり、イーレオが身を乗り出す。
「迷惑をかけたみたいだな。すまない」
『祖父上! 迷惑をかけた、じゃなくて、今も進行形で迷惑しているんです! 少しは物を考えてから行動してください!』
その言葉にイーレオは「うむ……」と、ばつが悪そうに応じた。だが、一瞬、押し黙ったかと思うと、その先は別人のように顔つきが変わった。
「リュイセン、エルファンはどうした? 状況を報告してくれ」
渋く冷静な声色に、リュイセンも様子を改めた。
『祖父上、報告いたします。父上と俺が取調室で尋問を受けていたとき、そちらからの連絡を受けました。父上は、祖父上が呼んでいるから先に帰れ、と俺を取調室から出しました』
リュイセンは、父エルファンが、どのようにして彼を『出した』のか、詳細は告げなかった。言わなくとも、エルファンなら取調官が『快く』応じてくれるように『交渉』したであろうことは明白だった。
「エルファンは、まだ拘束中だな?」
『はい』
「あいつなら適当にあしらって帰ってくるだろう。それより、ルイフォンが危険な状態だ。すぐに助けに行って欲しい」
『はぁ? ルイフォン!?』
「お願い、急いで! ルイフォンが殺される……!」
ミンウェイも割って入る。
『あいつ、弱いくせに何やってんだよ!』
「場所は貧民街の外れよ。こっちからナビするから、すぐに行って!」
『行けって、どうやって?』
「その辺のバイクでも奪えばいいでしょう!」
数分後、リュイセンは疾風となっていた。
『近道を教えるわ。指示に従って!』
リュイセンの左耳から、ミンウェイの声が響く。制限速度を遥かに上回った猛風の中では、片耳イヤホンの音声は擦り切れそうだ。
『そのまま直進! スピード上げて!』
「信号、赤だぞ!」
こちらの音声が拾えているかは怪しいが、無茶を言う従姉にリュイセンは怒鳴り返す。
『構わないわ。無視して突っ走って!』
ルイフォンお勧めのイヤホンマイクは予想以上に高性能だったようで、ミンウェイの無謀な指示が返ってきた。
「本気かよ!?」
『お願い! あなたなら、なんとかなると思うから』
「はぁ?」
『あなたは、鷹刀で二番目に強いから』
「二番目? 俺の上は誰だと言っている?」
『チャオラウ』
その答えに、リュイセンの眉がぴくりと動いた。
「……父上より、俺が強いと言っている?」
『ええ』
リュイセンはアクセルを回し、バイクを更に加速させた。
執務室の大モニタ上を、ルイフォンの携帯端末の位置情報が移動している。
その地図上に、リュイセンの現在位置を示す光点は、まだ現れていない……。
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