第30話 蝉
うるさいうるさいと思っていたら、向かいの席の人が蝉になっていた。
つくつくつくつくと一定のリズムで鳴き続ける蝉に、うるさいから静かにしてくれと言ったが、鳴き声にかき消されるのか一向に私の声は届かない。
「大丈夫ですよ。一週間の辛抱ですから」
蝉の隣の席に座る田中さんが言って、弱々しく笑った。
一週間も?
こんなにうるさい中で一週間も我慢して仕事をしなければならないなんて、さすがに耐えられない、と隣の席の人にこぼすと、「は?」という答えが返ってくる。
「いや、鳴き声すげーじゃん。つくつくとうるせーよ」
「お前、何言ってんの? は? 鳴き声? お前頭ん中に蝉でも飼ってんのかよ?」
隣の席の人はケラケラ笑って、向かいの席の蝉に話しかけた。
「なあ聞いたか? こいつ暑さでとうとうやられちまったみたいだぜ? 蝉の鳴き声がしてうるさいとか、何言ってんのって思わねえか? 蝉なんかこんなとこにはいないっつうの」
蝉はピクリとも動かず、パソコンの正面でつくつくつくつくと鳴き続ける。
なんだよ無視かよー。隣の席の人がつまらなそうにぼやき、田中さんは弱々しく笑う。
蝉がもそりと動いた。
体の向きが少し変わり、頭が田中さんの方へ向く。田中さんのことを見ているのだろう、たぶん。あの大きな黒々と丸い目で。
なぜだかわからないが、ゾクリとした。
田中さんは弱々しく笑い続けている。
一秒だって耐えられないと思っていた至近距離からのつくつくにも、存外なじみ始めてきた一週間後、蝉が出勤してこなくなった。
三日経って蝉が死んだと社内に情報がまわる。
そういえば、確かにちょっと様子がおかしかったかも、ここのところずっと顔色悪かったよね、などと囁きが聞こえてくるが、そうゆう問題ではなかっただろう。
なにせ蝉になっていたのだから、顔色も何もない。
蝉の通夜葬式も終わり、気の毒ではあったがこれでようやく静かになる、と思っていた矢先、今度は田中さんが蝉になっていた。
つくつくつくつく つくつくつくつく……。
「うるせーな、集中できねーよ」
隣の席の人が頭を抱える。
「心配すんなよ、どうせまた一週間で終わるさ」
本当か? と目で問いかけてくる隣の席の人に、私は肯定の意味で微笑んでやった。
ふと、蝉がこちらを見ていることに気が付く。見ているのだろう、頭がこちらを向いているから、たぶん。あの、感情が一切消えてしまったような、丸くて黒い目で。
蝉は一週間鳴き続けた。
そして一週間後、会社に出勤してこなくなった。
今回は死んだのではなく会社を辞めたようだ。
よっしゃ、これで静かになるわーと隣の席の人が嬉しそうにうるさくわめく。
うるせーよ、と声がした。
ぎょっとする。そんなわけはないのだが、田中さんの声だった。
あたりを見回すが、もちろん田中さんはいない。
クソが、死ね。
すぐ近くでまた声がした。耳元、というより頭の中から聞こえてくるような気がする。
どいつもこいつもクソが。脳みそ腐ってんのか? ニヤニヤしやがって、そんなに人の不幸が嬉しいか、クソ。クソクソ。死ねよもう、みんな死んじまえ。
死ね死ねしねしねしネシネシネシネシネシネ……。
声は止まない。
頭の中でわんわんと響き、それが数日続いた。
シネシネシネシネ シネシネシネシネ……。
「うるせーな、黙れよ」
部署移動でやってきた向かいの席の人が言って、私の隣の席の人が訳知り顔で笑う。
「気にすんなよ、一週間の我慢だ」
向かいの席の人が舌打ちをした。つくつくつくつくと、うっとおしいな。
私は隣の席の人を見る。同時に向かいの席の人も見る。フロア全体も見る。見える。見る気がなくても見えてくる。
表立っては見せないが、どことなく浮足立ったような、わくわくした空気。一週間経ったらどうなるか、わかっていて面白がっているのだ。
シネシネシネシネ シネシネシネシネ……。
私は力の限り叫び続ける。蝉のような声でシネと。
隣の席の人はちらりと私を見下ろして、やれやれといったふうに仕事に戻った。
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