第37話 綿菅

 足が浮腫まぬよう、横になっている石竹の足の下に枕を入れてやる。石竹は一度薄目を開けたが、すぐに瞑った。寝入るまで時間はかからないだろう。綿菅は寝台を離れ、撫子と双子のところへ戻る。

「寝た?」

 と清白を抱いてあやしている撫子が小さな声で囁いてきたので、頷いてやる。

「そう………」

 良かった、とまでは言わなかったが、撫子の顔からは明らかなる安堵の色が見て取れた。


 囲炉裏にあまり近いと、たとえば外来種の襲来があって地面が急に揺れたとき、赤子が火や熱した鍋に突っ込んでしまったら危ないということで、赤子の寝場所は熱源からはだいぶん離されている。それでも幾重もの布で包まれ、さらには抱いている人間の体温があるのだから、赤子は寒くはない。事実、清白は心地良い振動に安らぎを得て、寝息を立てている。憐れなのは動き回らねばならないために、着膨れするほどに着込むほどもできない撫子である。

 そっとその頭に手を伸ばすと、撫子はぐりぐりと頭を押し付けてきた挙句、清白を抱いたまま綿菅の身体に倒れこんでくる。額にかかった髪をかき上げて撫でてやると、心地良さそうに目を細める。まだ八歳、甘えたい盛りだ。だのに撫子はここのところ、腹が大きくなったり、子を産んで働けなくなった女たちの代わりに日々奔走しているのだから、偉い。

 そう言ってやると、こう返される。

「みんな大変なんだから、えらくないよ、当たり前だよ」

 そんな言い方さえできるのだから、偉い。綿菅はもっと撫子を撫でたくなった。


 落ち着いてすやすや寝息を立てる清白を寝籠に戻し、やはり眠っている鈴奈の様子も確認してから綿菅のところに戻ってくる。今日は何が獲れたか、何か面白いものはあったか、などと無邪気に訊いてくるものだから、たとえ変わり映えのしない労働の後でも、話の種を見つけて咲かせてやりたくなる。

 綿菅も綿菅で、数少ない懐胎していない女として、数多くの仕事を抱えていた。村の外で行われる採取や狩りは身重の女には任せられないので勿論のこと、村の中での仕事も他の女の分を肩代わりしてやり、幼い撫子の仕事を監督してやらなければならない。だが自分よりも、撫子の苦労は一入だろう。碌々漢字も読めないというのに、それぞれの仕事の手引きや覚書を読みながら、必死で勉強をしているのだ。同居している綿菅に、時折漢字の読みや言葉の意味などを訊きにくるのだが、そんなときにはこんな言葉を投げかけてくるのだ。

「忙しいのに、ごめんね」

 そのときの表情が申し訳なさそうで、申し訳なさそうで、綿菅は彼女を抱き締めて、おまえは悪くないのだよと言わずにはいられなくなる。


(石竹も、よくやっているのだ)

 癇癪を起こすようなこともある。つい先程の出来事のように。それも本当に時たまのことで、普段は優しい母親であり、昔どおりの良い姉だ。だがやはり身重になったことで、ふとした切っ掛けで精神が不安定になることもあるようだ。それが、良くない。

 石竹の情緒不安定さは、他の女たちと比べて緩急著しいように感じる。それは彼女の体質によるものなのか、それとも他にふたりの子を抱えているためか。どちらにせよ、支えてやる人間が必要だ。

「わたしじゃあ、駄目なんだろう」

 綿菅と石竹の関係は、以前とはだいぶん変化していた。表面上は出来る限り以前と同じようにしていたつもりだが、幼い撫子に「最近、おねえちゃんと何か喧嘩でもしたの?」と問われるほどなので、やはりいままで通りとはいっていないのだろう。


 あの日、ひとつ前の冬、石竹がディーに襲われたあの日、襲われるその直前、綿菅は思いのたけをぶつけた。自分を軽んじる彼女を大事に想う人間がいるということを知ってもらいたかったし、石竹が親友の死や日々の子育てに弱っていたから、ややもすると自分を受け入れてくれるかもしれないという打算もあったかもしれない。

 それが失敗だった。ある意味でその後に起きた出来事は、綿菅が引き起こしたようなものだ。ただ親友として、彼女の小さく柔らかな身体を、ぎゅうと抱き締めてやれば良かった。なのに恋人になろうとした。自分が幸せになろうとしまった。だから石竹は家を出て行き、そしてディーに犯された。家を飛び出した石竹を追って夜の村を探し回った綿菅が見つけたのは、身も心もぼろぼろに砕かれた石竹の姿だった。

 あの男を殺してやりたかった。綿菅は怒りに震えた。

 だが実際に行動に移すことはできなかった。彼が無敵号の騎手として優秀だからという理由もないわけではなかったが、それは怒りと比較するには瑣末なことだった。代わりに自分が騎手になれば良いのだ。


 自制をかけたのは、怒りに勝る悲しみの念だった。


「あんなことをするやつではなかったはずなのに………」

 綿菅は苔桃が死ぬ前、ディーと会話を交わしていた。

 彼は苔桃を愛していないと言った。自分が愛しているのはただひとり、本土に残してきた恋人だけだと。

 だがそのあとに見たディーと苔桃の間には、まさしく誰一人否定できないような愛があるように見えたのだ。子どもが産まれて当然のように見えたのだ。幸せそうに見えたのだ。

 苔桃は綿菅の友だった。枷であり、重荷であった。相談事をできる相手であったが、隠し事をしたい相手でもあった。親友であると同時に苦手で、それだけ大事な人間だった。そんな女を任せるのだ、下手な男には渡せないと、そう思っていた。

 そして綿菅は、ディーを信用したのだ。どんなに嘘で塗り固めていても、この男なら、きっと大丈夫だろうと、そう思った。

「だがいまとなっては、どうだ」

 苔桃のことなど忘れたかのように集落中の女を孕ませて、子育てなどしやしない。もちろん騎手としての己の仕事は十分に果たしているし、その他の仕事も抱えて、集落で最も忙しく働いていることは間違いない。だが仕事など、腹に子を抱えた女でも、無理しない範囲ならまったくできないというわけではないのだ。ならば仕事ばかりにかまけていないで、女のところに行ってやれば良い。苦労をかけることを褒めてやり、子の頭でも撫でてやれば良いのだ。それができないなら、あのとき、あのとき、苔桃が死んだときにおまえも死んでいれば良かったのに。

(なぁ、あれは本当だったのか?)

 オングルの女たちなど愛していないという、あの言葉は噓偽りない真実だったのか?


 ちらと石竹を見やれば、豊かな胸がゆっくり起伏しており、寝息を立てていた。ついに眠ったらしい。赤子も寝入ったばかりだ、二、三時間くらいなら大丈夫だろう。ちょっと出かけてくるけど、清白と鈴奈のことを見ていてくれるか、と撫子に頼む。

「何処へ行くの?」

「ちょっと、外へ……散歩してくるだけ」

 撫子は少し考える様子を見せた後、「じゃあ、ぼくも一緒に行くよ」と言った。

「でも………」

 ちらと綿菅はふたりの赤子へと視線を向ける。寝ている子どもを放置してはおけないだろう、という無言の誘導のつもりだった。

 しかし撫子は「しろちゃんとなっちゃんも連れて行くから、大丈夫だよ」と返してきた。「昼のうちに、ちゃんとお日さまに当ててあげないとね」

 そう言われては、子どものことを言い訳に使っただけに断りにくい。無理矢理に撫子を留守番させるということもできないではなかったが、彼女の言葉は正当である。母乳を飲んでいた時間が短く、栄養が十分ではない双子は、高緯度に住まうことも手伝って、明るいうちに十分に日の光に曝してやらないと骨の成長が遅れてしまうことがあるらしい。それを防ぐには、ビタミンDを十分に与えてやる必要がある。簡単なビタミンDを増やす方法は、太陽に当てることらしい。もっともあまり日に当てすぎるのも良くないが、昼も夜も期間が長いオングルでは、昼の間に少し長過ぎるくらいに赤ん坊を日に当てる必要がある。


 しょうがないな、と言って同行を許可すると、撫子は嬉しそうな顔になる。石竹の躁鬱が一時的なものだとわかってはいても、赤子と三人きりで残されるのは不安だったのかもしれない。

(撫子や双子がいれば、あいつも下手なことはしないだろう)

 綿菅は不思議な安堵感を覚え、次にその安堵感の意味を探った。すぐに思い当たる。ディーは石竹を強姦した。となれば、綿菅も無理矢理に犯されることになるかもしれない、と無意識に恐れたのだ。

(まぁ、それはないだろうが)

 石竹のように女らしい身体つきというわけではない。それでも雄々しいディーを前にすると、自分が女性だということは自覚させられてしまうのだ。度重なる狩りで、綿菅はそれを実感している。


 目覚めた石竹が心配せぬよう、双子とともに出かけてくる旨の書き置きを残し、寒くないように清白と鈴奈に上着を着せてやる。その過程で清白は一度目を覚ましたが、撫子が優しく抱っこしてやるとすぐにまた眠った。鈴奈のほうはといえば、ぐっすりと眠っていて周囲の出来事をまったく気にしていなかった。兄とは違い、まったく剛胆な子である。

 撫子が清白を背負うと言うので、鈴奈は綿菅が負ぶうことにした。

「疲れたらすぐに言えよ。ふたり一緒に、抱っこしてやるから」

 と綿菅が言うと、大丈夫だよ、と撫子が笑う。もう完全にお姉さんの気分らしい。本人は自信満々でも、まだ子どもだ。気が済むまでやらせて、危なくなったら手を貸してやらねばいけないな、と思う。

 何処へ行こうか、と家を出ると撫子が言った。向かうはディーの家である。綿菅は、親友が死ぬまえにしたのと同じ問いかけをするつもりであった。

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