第30話 綿菅

 狩りで遠出をした日の夕餉は遅い。綿菅はひとり、ぶらと村の中を歩いていた。週の三日目、もうすぐ夜になることも手伝って、仕事は特にない。眩しい夕焼けを嫌ってか、人の姿もほとんど見えなかった。夜が近づくとなれば、あとは刺繍でもして眠るだけがオングルの生活である。


 綿菅が外を歩いていたのは、頭の中を整理したかったからだ。


 綿菅のせいで、苔桃の伯父が、かつてその駆る機体と同じく無敵と呼ばれた男が死んだのは、変えようもない事実だ。

 だがひとつの重荷が消えた。

 苔桃から許しの言葉が聞けたというわけではない。贖罪などやめろと言われたわけではない。心の裡が覗けたわけではないし、何某かの償いができたわけでもない。

 ただ礼を言われただけで、笑いかけられただけで、しかし確かに綿菅には重荷が消えた実感があったのだ。

 ああ、やめてやる。やめてやるさ。苔桃だって、男と愛を育み、子どもを実らせるという形で、新たな人生を歩もうとしている。ならば自分も、と。

 ここにきて改めて考えていたのは、今後の身の振り方である。苔桃と彼女の伯父に対する贖罪が終わった今、これから何を目的に生きていけば良いかわからなくなったのである。だからこの年齢になって改めて、何が幸せなのか、どう生きるべきかを考えていた。


 望みは単純だ。

「石竹が好きだ。だから一緒にいたい」


 子どもの頃から、いつもいつも、綿菅に声をかけてくれたのは、大人である石竹の母親や苔桃の伯父ではなく、石竹だった。優しくて、綺麗で、柔らかくて、だから綿菅は、彼女が好きだった。だから綿菅は、彼女が好きなのだ。

 きっと苔桃は、夫婦としてディーと暮らすようになるだろう。夫と妻と子とが、ディーのあの小さな家で暮らすには小さすぎるから、綿菅がいまの家を出て行って、代わりにディーが入れば良い。そしてじぶんが、じぶんが石竹の家へ住まえばよい。そうして、一緒に暮らして、奏でる二胡に合わせて、傍で歌ってほしい。

 それは純然たる下心で、小さな茜色の恋心だった。

 だがその心を形にするまえに、するべきことがある。

 幸いなるかな、苔桃と同居しているにも関わらず、綿菅はこれまで一度として、彼女とディーが夜の営みを行っている場に出くわしたことがなかった。

 だが目を背けて後ろに向かって歩かざるを得ない場に出くわさなかったのは、単なるお互いの幸運によるものだけではなかったのかもしれない。行為そのものがなかったのやもと、綿菅は疑っていた。

 もちろん苔桃の腹の中に行為の物的証拠があるのだから、手を繋いで見詰め合う以上の繋がりが何もなかったということはありえない。だがその繋がりは、僅か一度きりのものだったのかもしれない。

 苔桃は誰にでも気安い気質だ。同い年である綿菅や石竹には勿論のこと、年の離れている女たち相手にも、あるいは幼き日々には存命していた大人の男相手にも、彼女は気安い態度を崩すことはなかった。良く言えば親しみやすく、悪く言えば馴れ馴れしいのが彼女の特徴である。

 そうした態度は、勿論新たに来た男であるディーに対しても変わることはなかった。本土で生きてきて本土の言葉に慣れたディーに対してあれやこれやともっとも世話を焼いていたのは、身近に居た石竹より、むしろ苔桃だったかもしれない。


 だから思うのである。

 もしやディーは、無防備にも近づいてきた苔桃に、無理矢理に襲い掛かったのではなかろうか。そのときに子種が宿っただけで、苔桃とディーはべつだん愛し合っているわけではないのではないか。


 そんな想像までしてしまうのは、睦み事どころか、苔桃とディーとの間で交流があるところを、子を成したであろう時期のあたりからほとんど見ていないからだ。あるいは他の女たちからの妬み嫉みを買わないようにと、できるだけ人目を避けていたのかもしれない。だがそれよりも、単に彼らの間に愛がなかったと考えれば、それだけで納得がいく。

 苔桃は小柄な女である。上背だけでいえば年若い少女たちよりも低いくらいで、でなくともディーの膂力はすさまじい。隻腕ではあるが、襲い掛かられたら、彼女では抵抗できないだろう。無理矢理に身体ひとつで組み敷いて、空いた隻腕で衣服を剥ぎ取り、厭だ厭だと喚き立てる口を殴りつけて黙らせたのかもしれない。そうして白い太腿の間に膝を入れて無理矢理に足を開かせ、肌着はほとんど破り捨てるようにして除き、そのまま自分の物を押し込んだのかもしれない。

 男ならば、傍にいて、自分に気を焼いてくれる女に襲い掛かったとしても、それは不思議なことではないのではなかろうか。

 もしそんなことが起きていたとすれば、許せる話ではない。

 ディーに、彼の心意を質さなければならない。


 石竹とはまた別の理由で、苔桃は綿菅にとって大切な人間だ。彼女の伯父には、心と身体を助けてもらった恩がある。たとえば、もしふたりがクレバスに落ちそうになっていて、どちらかひとりしか助けられないとすれば、自分は一も二もなく自らの身体を投げ出して両者を救おうとするだろう。自分のような人間でも、きっと命を投げ出す気で飛び込めば、前提条件のひとつくらいは覆い返すことができるはずだ。

 こんなことは考えすぎかもしれない。苔桃とディーとは確かに愛し合っているのかもしれない。が、それを確かめるまでは、少なくともディーの口から真実を聞き出すまでは、苔桃の傍から離れるわけにはいかない。


 ディーは犬小屋で犬を世話をしていた。

「本当に、よく働く」

 一華が死んで以来、犬の世話の仕事は宙ぶらりんになっていた。皆が皆、それぞれ自分の仕事で忙しい。仕事を持たないのは幼い撫子くらいだが、相手が如何に人に慣れた犬とはいえ、幼い子どもに任せられる仕事ではない。大人が自分の時間を割いて、犬に奉仕してやらなければならないのだ。

 ひとつきりの手を挙げたのがディーだった。既に実戦を経験し、無敵号の騎手の座に納まっていたディーであったが、さりとて騎手に外来種と戦う以外の、日ごとの具体的な仕事があるわけでもなかった。そのため、彼の手は空いており、ディーは犬の世話をも任せられるようになった。

 正直なところ、そう長くはもたないだろうと綿菅は想像していた。犬は自分勝手で、しかも人間に対して勝手な評価付けをする。こちらも犬たちのことを、使える犬だの、乱暴な犬だの、碌々言うことをきかないくせに大食らいな犬だとか、そんな評価付けをしているのだから文句は言えないところだが、舐めてかかられるのは困りものだ。ディーは犬にとっては、得体の知れない人間で、正体不明だから畏れる可能性もあるが、それよりかはどうでも良い相手として認識され、舐められる可能性のほうが高いだろうと、そう思っていたのだ。

 実際、上手くは行かなかったらしい。運動場に放していた犬を、夜になって小屋の中に戻すだけでも苦労して、あまつさえ不用意な行動で怯えさせてしまい、噛み付かれることさえあったらしい。犬が人を噛むなんて、一華が犬を担当していた頃には考えられなかったことだ。それだけ彼が犬に懐かれていなかったということだ。

 だが季節が一巡り以上経過した今となっては、一華の頃と変わらぬとまではいかないが、少なくとも犬は言うことをきくようになった。それが彼の為した結果だ。おかげで犬橇が使えて、冬も例年と変わらぬ狩りができた。


 綿菅が犬の運動場の中の長椅子に座っているディーに近づくと、犬たちが興味を抱いてか綿菅に寄ってきた。中でも一目散にやってきたのは、焦げ茶色の毛並みを持つアーニーだった。犬たちの中でも年長であり、多くの犬の父親であるというのに、落ち着きがないやつだ。膝を折り、アーニーの耳の裏を掻いてやる。

「いま、時間あるか」

 と綿菅は犬を掻きながら、ディーに近寄って尋ねた。彼が驚いたような顔をしていたのは、平時は綿菅がほとんど彼に話しかけることがないためだろう。しかし足元の犬を撫でながら、頷いてくれた。

 ディーの座っている長椅子に、少し間を置いて腰掛け、はてなんと声をかけようかと今頃になって考える。まさか、おまえは苔桃を無理矢理強姦しはしなかったか、などとは訊けない。だが他にどう言葉を引き出せば良いのかわからない。


「おまえは………」

 苔桃を愛しているのか。そんな陳腐な言葉を口に出すには、綿菅の頬は熱くなりすぎていた。

 空冷で頬を冷やす。頭も。

「おまえは………本土に女がいるのだろう」

 その言葉に、ディーの身体が反応したように見えた。 

 首飾りに写真まで仕込んでいた相手だ、すぐに忘れられるわけではなかろう。そうだろう。そういうものだろう。綿菅は男女のことは知らない。だが恋焦がれる想いは知っている。

「おまえはその女のことを諦めていないんじゃないのか。ただオングルにいる間だけと思って苔桃を抱いたんじゃないのか」言葉を紡ぐのがもどかしく、舌を噛みそうになりながらも綿菅は言う。「本当に苔桃を幸せにできるのか」

 結局、言ってしまった。ちゃんと苔桃とは恋愛関係にあるのか。女なら何でもいいと、無理矢理におまえが押し倒したわけではないのか。きちんと好き合っているのか、と。


 ディーはしばらくぽかんとしていたが、やがて言った。「もしそうなら、いま危ないのは綿菅さんですね」

 綿菅は思わず顔を退かせた。長椅子に腰掛ける綿菅とディーとの間には、人ひとり分の隙間があったが、それでもこれまでにないほど接近していた。

 間近で見たディーの顔は、こちらが赤面するほどに整っていて、綿菅は以前読んだことのある本を思い出した。それは本土の観光案内書らしきものだった。幼い頃は石竹や苔桃とともに、本土の欧州について書かれたその本を見て、ここに行ったらこれを見たい、あれを見たい、などと夢を見ながら言いあったものだ。その中で見た彫像の中に、ディーの彫りの深い顔立ちは似ている。地の肌の色の違いのためか、夏でも冬でも高い反射率を誇るオングルに住んでいる女たちの日に当たる部分が浅黒くなる一方で、ディーは赤味がかかった煉瓦色になっていた。

「リリヤには、帰ったら結婚しようと言っていました」とディー。知っているみたいでですけど、リリヤっていうのは、恋人の名前です、と補足する。「必ず戻ってくるから、だからそのときは結婚しようと」

 そんなふうな約束をしていたんです。忘れられるはずがありません。そんなふうに言うディーの表情は冷え、氷の薄膜を張っていたが、綿菅はその下に悲しみの色を見た。

「じゃあ、本土に戻ったら……」

 本土に戻ったら、その女の下へと行ってしまうのか。実現の可能性があまりにも低いその未来を問う言葉を口に出すのが、辛かった。この男を好きになりかけている自分を自覚しただけ、悲しかった。

 ディーは首を振った。「おれはもう、帰れません」

 その答えは喜ばしいものではある。少なくともディーは、苔桃を捨てはしない。


 だがそれは許されるのか。ディーとリリヤという女の結婚の約束というのが、どれだけ重いものだったのかはわからないが、男女で愛を誓い合うというのは、少なくとも誰とでもできるような、簡単なものではないだろう。ましてやディーは、外来種との戦闘状態にある惑星へ赴き救助活動を行う軍の兵士である。いつ死ぬか解らぬような男と結婚の約束をしあうからには、それだけリリヤという女性は真剣だったに違いないのだ。

 そんな女性を、彼女の知らぬ場所で打ち棄てて、それは許されることなのか。

「許されるわけがない」

 ディーはそう応じた。ええ、許されるはずがないんです。おれは、必ず戻ってくるから、だからそのときは結婚しようと、待っていてくれと、そう言って出てきたんです。

「もともと数週間や数ヶ月で終わる任務じゃなかったんです。往復だけで最低一年はかかることが判っていました。オングルでの作業によっては、三、四年は覚悟する必要がありました。亜光速航法の時期によっては、十年以上も」

 それなのに、彼女は待っていてくれるって言ったんです。ディーは搾り出すように言葉を紡いだ。


 ディーは悪人だ。女に婚約を取り付けておいて、勝手に解消するどころか、他の女と既成事実を作ってしまうのだから。

 だが、綿菅は彼に悪人であって欲しかった。友を見捨てないで欲しかった。


「だからおれは、彼女に償いをしなくてはいけません」

「償い………?」

「たとえば、普通はお金だとかですが……お金ってわかりますか?」

「いちおう、わかるよ。馬鹿にするなよ」

 使ったことはないけど、と綿菅は聞かれないように、小さく呟く。

「お金で事が済むなら、それで良いかもしれません」でも、そうはならないでしょう、とディーは言う。「おれは金持ちとはいえませんし、彼女のほうは資産家です。お金なんか要求しても仕方がないです。そもそも、お金で片が着くことではありませんし」

「じゃあ、どうするんだ」

「たぶん、彼女は何も要求しないと思います」とディーは呟く。「でも、何もしないわけにはいかない。どうにかして償わなければいけないでしょう」

「何も要求しない?」

 意外な言葉であった。

 男女の問題が、金で片付くことではないというのはわかる。失ったものは時間と信頼である。それを埋めるようなものでなくてはならないが、そんなものはそうそう見つかるはずもない。

 だが代替物となるものそのものは見つからずとも、何か代わりになるもので良いから要求したくなるのが人間というものだろう。たとえば労働なり、たとえば刑罰なりを要求して、相手が苦しまなくては、気が済まないのではないか。

「そういう子じゃないんです」とディー。

 それは随分と、なんといえば良いのだろうか、人が好すぎるのではないだろうか。

「良い子なんですよ」

 とそんなふうに応じるディーの表情は、何所か誇らしげでさえあった。


「おれと彼女は同い年で、孤児でした。小さい頃は花だの野菜だのを育てるのが好きで、孤児院では花壇や農園の世話をしながら、街に行って売っていました。

 本土といっても、おれが育った場所は田舎で、オングルとそこまで変わりません。得たお金で他の子どもたちのぶんも、食べ物や衣服を買ってあげたりしていました。大きくなる前に、彼女は本土の名士の家に引き取られて……それで今ではお嬢さまです。同じ本土でも、全然別の立場になってしまって……それでも彼女はまだ昔のことは忘れていないんです。毎週、孤児院を訪問して、子どもたちと遊んだり、新しい親元で孤児の引き受け先を探してくれています。リリヤは、そういう優しい子なんです」

 目を細めてリリヤという女性に関して述べるディーの瞳は、親愛の情に満ちていた。それ以上かもしれない。尊敬だとか畏敬の念さえ感じているようである。

 本土の生活など、オングルに根ざす綿菅にとっては遠い空想以上の何物でもなかったが、しかしディーの語るリリヤという女性が、如何に優しい人間なのかはわかった。彼はリリヤという女性の肯定的な面しか語らなかったが、それだけ語りたくなるような人間だということだろう。

 が、それだけの素敵な人物と結婚を誓い合っていて、なぜ苔桃を愛せるのか。


 ディーの首飾りに入っていた写真で見たリリヤは、透き通るような白い肌といい、布織物のようなプラチナブロンドといい、いかにも見目麗しい女性だった。おまけに彼と同い年ということだ。

 一方で苔桃はといえば、オングルでも飛び抜けて美人というわけではないし、体格は女の中でも特に小柄で、胸も尻も肉付きが良いほうではない。何より、オングルの日々の仕事で泥に汗に光に汚れている。性格といえば、けして邪悪であるとまではいわないが、やや尊大であり、人をおちょくる傾向にある。少なくとも話に聞くリリヤという女のように、聖女のような優しい女ではない。

「おまえは……どうして苔桃を好きになったんだ?」

 綿菅はそう問わずにはいられなかった。

 ディーは首を傾げる。

「だから」と羞恥に己の頬がまた赤くなるのを自覚しながら、綿菅は言う。「おまえは、なぜ苔桃を愛するようになったのかと、そういうことだ」

「おれは彼女を愛していません」

 おれは、彼女を、愛していません。

 ええ愛していますと、本土では違ったかもしれませんが、今は苔桃だけを愛していますと、そんな言葉が聞けるものだと思っていた。

 この男は、言葉がわかっていないのだ。愛しているだの、いないだのというのは、日常的に使う語彙ではない。少なくとも、このオングルでは。だから、意味がわからずに返答しているのだ。

 あるいは、照れているのだと、そんなふうに思うこともできた。彼女というのが、苔桃を指しているわけではないのだと、そんなふうにそんなふうに自分を騙すのは簡単なことだ。


「おまえは苔桃を好いているんだろう? だから子どもを作ったんだろう?」

「違います」

 ディーの青い瞳は真っ直ぐにこちらを見ていた。ただただ真っ直ぐで、何も見えていないかのように。

「愛しているんだろう?」

「愛していません」

 嘘でも、愛していると、そう言うべきではないのか。

「愛していないのに、おまえは苔桃を孕ませたのか!?」

「駄目なのですか」

「当たり前だ!」

 綿菅の怒号に、近くに集まってきていた犬たちが怯えたように集まる。

 ディーの襟首を掴めば、そのまま犬の中に叩きつけてやれそうな気がした。だが立ち上がらせるのがせいぜいで、夕陽に照らされた銅色のディーの身体は、綿菅の力ではびくともしなかった。


 こいつは、この男は、おかしい。


 本土の人間だからか、男だからか、単にこのディーという男があまりに特殊なのか、でなければ、綿菅がおかしいのか?

 違うはずだ。子どもができるとは、そういうものではないはずだ。もっと、愛だとか、そういうものが根底にあるはずなのだ。たぶん、きっと、そういうものだ。違うのか?

「なぁ、違うのか!?」

「おれが愛したのは、リリヤだけです」

 静かに言い放たれた言葉は綿菅の気を挫いた。

 綿菅は踵を返す。もはや何も言い返す気になれなかった。言葉が通じないわけではない。感情が無いわけではない。ただ、合わない。駄目だ。そう思った。

 そうして犬の運動場を出ようとしたとき、おおぃ、という声が響いた。声のするほうを見れば、夕陽に照らされた小柄な影が犬たちの中で立ち尽くす男のもとへと歩を向けていた。

 綿菅は苔桃のことを見止め、少しの間逡巡した。なんと言うべきか迷った。この男は、この男はもう駄目だと、関わるのはやめろと、そんな言葉がどんなにか力を与えられるかがわからなかったのだ。

 だが自分の言葉がどんなにか弱くても、友を助けなければとばかりに、綿菅は引き返して苔桃とディーの間に割り込もうとした。

 犬の運動場は、膝丈程度の背の低い柵に囲まれている。柵に手をつかずとも、簡単に越えられる程度の高さで、だからやってきた苔桃も、いつものように膝を持ち上げて柵を越えようとした。


 いつもなら簡単に越えられるものだが、腹が大きくなっていて膝を上げるのが難しい苔桃は柵に足をぶつけて、バランスを崩した。


 もう一歩二歩疾く駆けていれば、綿菅は運動場の柵を越えようとする苔桃のところに辿り着けただろう。一秒二秒逡巡する隙が少なければ、綿菅がその小さな身体を受け止められていただろう。

 綿菅は間に合わなかった。

「あっぶなかったぁ………」

 そんなふうに息を吐く苔桃を受け止めたのは、彼女が視界に入るや否や動き始めていたディーだった。

「身重なんだから、無理しないように」

 と女の身体を地に下ろしながら言い聞かせるディーは慈愛に満ち溢れていて、愛していないなどというのは嘘のように感じられた。

「わかってるんだけど、綿ちゃんとディーさんが珍しく一緒にいたから、何を話してたのか、気になっちゃって」

「きみのこと」

「なんか悪口とか言われてた気がするなぁ」

 ディーは、苔桃のことを愛していないと、そう言った。愛しているのはただひとり、本土に残してきた恋人だけだと。

(でも、そんなのは嘘だ)

 そんなやり取りをしながら、手を繋いでゆっくりとこちらに歩いてくるふたりの姿は、まさしく仲の良い夫婦そのもののように見えたのだ。


 ディーが来てから、物事が好転し始めたような気がする。彼のおかげで、綿菅は古い贖罪から抜け出せた。新しい命も生まれた。まるで彼が新しい風と共に幸運を運んできてくれたようだ。

 彼の姿は均整の取れた身体つきといい、整った顔立ちといい、金色の髪といい、まるで天使のようだと綿菅は思った。天使など、本の中でしか見たことがないが、何処の生まれの天使なのかもわからぬそれは、金色の髪をしていた覚えがある。

 思えば彼は空から降ってきたわけだ。ならば天使と呼んで差支えあるまい。なぁ、そうだろう?

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