3 これからと、いつか(2)

 翌朝、ダイニングに行くといつも通りアルトがキッチンに立っていて、ほっと安堵する。


 しかし挨拶はなく、気づいているのに振り返りもしない。


 怒っているんだろうな、と胸が痛んだが、黙って席に着いた。

 朝食を並べ、アルトも無言で座る。


 アルトが来て初めての、静かな食卓だった。




 夕方、所長に呼ばれて部屋に入ると、所長は机に肘を突いて手を組み、沈痛の面持ちをしていた。

 重い雰囲気に、セルシオが緊張しながら前に立つ。


 所長は肩を落としてため息をつくと、


「アルトローザくんからーーー退職したいと申し出があった」

「な……っ」


 目を剥いて息を呑む。


 この間、新しい仕事のために翻訳の仕事を辞めようかと話していた。

 けれどこんなに急なはずはない。


「今日で辞めたいと。君には話してないと言っていた。本当に知らなかったんだな」


 声も出ず、手が震える。


 所長は眉をひそめると、


「……何があった?」




 玄関扉の前に立ち、アルトが大きな鞄を持ち上げる。

 胸に手を当てて一度目を閉じ、落ち着くため長く息を吐く。


 後ろでソラが小さく鳴く声が聞こえて振り返る。

 いつもより多く鳴いているのは、分かるのだろうか。


 ふっと苦笑するとしゃがみ込み、優しく頭を撫でた。

 何かを訴えるように必死で頭を擦りつけてくるソラに、


「元気でね、ソラ」


 そして立ち上がり、静まり返った家の中に向かってつぶやく。


「ーーーバイバイ」




 息を切らせ、玄関前で膝に両手を突いて呼吸を整える。

 鍵を開けて息を呑み、扉を開けると明かりは灯っていない。


 日の落ちかけた夕闇の中、足元でソラが心細そうに鳴いた。


 ダイニングに入るが、「おかえり」はもちろん姿もない。


 振り返ってアルトの寝室の扉を押し開ける。

 さっきまでアルトがいた様子なのに、いつもの鞄と大きな旅行鞄がない。よく着ていた服も、靴もない。


 アルトの机に手を突き呆然とする。


 いつか彼女を喪うのが怖かった。

 喪いたくないといくら願っても、必ず別れのときは訪れる。

 そのときにまた喪失感を抱え、心が空っぽになるのかと思うと臆病になりーーー前へ進むことができなかった。


 けれど一人のときのように時間は止められない。

 流れる時間に戸惑い、ただ眺めている間に、大切なものは手からこぼれ落ち、失っていく。


 そうして残ったこれが、二人の結末。


 応えられなかった。あんなに懸命に想ってくれたのに。


「アルト……」


 玄関がノックされてはっと我に返る。

 まさかと思いながら向かうと、ノックに混じってセルシオを呼ぶ声が聞こえて少し落胆する。


 扉を開けると、心配そうな顔のレナードソンが立っていた。


「アルトちゃん、急に仕事辞めたって聞いて……。もしかしてと思ったが」


 セルシオの暗い表情に答えを見透かして、レナードソンが呆れと困惑をないまぜにする。


 何がと急かすレナードソンをとりあえず中へ入れ、テーブルにつく。


「で、何があったんだよ一体」


 全く分からないと眉を寄せる。

 当然だ、この間恋人になったばかりというのに。

 これからだとセルシオも思っていた。本当に『これから』を意識するまでは。


「アルトと喧嘩を……いや、もう別れ話だったんだな」


 別れ話ぃ? と素っ頓狂な声を上げる。


「アルトを大切にできないと言った。いつかまた大切な人を喪って、ナナのときのような辛い思いをしたくない、と」


 レナードソンが口をパクパクさせ、もどかしそうにつぐむ。


 今すぐに喪うわけじゃないだろとは言えない。

 そんな不確定なことを言ったところで気休めにもならないことを、レナードソンは身に染みて知っている。


 浮かんでは打ち消される、セルシオには意味を成さない言葉たちを、大きなため息に変えて吐き出した。


「……そりゃ出て行くだろ。ったく、バカセルシオが」


 アルトにも言われた、と目線を落とす。


「アルトはもう、戻ってこないだろう」


 冷静に言うセルシオに、はぁ? と苛立って声を裏返す。


「何言ってんだよ。行くんだろ? アルトちゃんを探しに」


 レナードソンがじれったそうに拳でテーブルを叩く。


 しかしセルシオは真剣な顔ではっきりと、


「行けない。私の気持ちは変わってないから」


 追いかけ見つけてまた一緒に暮らしたところで、アルトを喪うことへの恐怖は変わらない。むしろ失いたくない気持ちが強まるだろう。


「それに……アルトを押し倒したんだ。無理やり」


 無理強いした挙句、突き放した。

 そんな自分と一緒にいたいと、アルトが思うはずもない。


 まさか人に暴力を振るうと思ってなかったのだろう、信じられないとばかりにレナードソンが顔を歪めた。


「お前……アルトちゃん傷つけて」


 それ以上は何も、と首を振るので、レナードソンが安堵と呆れの混ざったため息をつく。

 それでも無理やりは許せない、と一言言いかけたところで、


「……違う、そんなことを……したかったわけじゃなくて」


 つぶやき、暗い顔で黙りこくってしまう。

 自分が起こしたこととはいえ、まだ気持ちの整理がつかないのだろう。


 セルシオの性格はよく知っている。

 一人で溜め込み、やがて爆発するところも、それを後で激しく反省するところも。


 だからレナードソンは舌打ちし、仕方なく睨みつけるだけに留めた。


「追いかけないって、じゃあどうすんだよ。アルトちゃんこのままにしとくのか? 泣いてるかもしれないのに」


 昨夜の涙を思い出し、「そうかもな」とうなずく。


 あーもうっ、と頭をがりがり掻いて、レナードソンが必死に訴える。


「セルシオ。大切な人を喪うのは誰だって怖い。ナナを喪って人一倍臆病になるのも分かる。けどだからって、アルトちゃんの想いを無下にして泣かせていいわけないだろ?」


 未来が怖いと、自分のことしか考えてないのは分かっている。


 アルトが好きで、大切で。

 だからこそ、こんな自分といて欲しくない。

 喪うことへの恐怖を抱えながら、アルトを幸せにはできない。


 口を開こうとしないセルシオに、我慢の限界に達したレナードソンがテーブルに平手を打ちつける。


「じゃあもうずっと独りでそうしてろっ! アルトちゃんが他の男と見合いして嫁に行っても後悔すんなよっ!」


 啖呵を切るレナードソンに、セルシオが眉尻を下げ、困った顔でふっと笑った。


「それは後悔するだろうな」




 憤慨するレナードソンが帰った後、晩ご飯を簡単に済ませて風呂に入り、集中できない仕事を諦めて床についてもアルトは戻ってこなかった。


 翌朝もダイニングは空で。翌日も、その翌日も。


 これまでの明るい毎日が嘘だったかのように、静かな時間がただ流れていった。


 アルトがいなくなったのに落ち着いていたのは、もう二度と会えないと身に染みて思っていないのか、それともソラがいるおかげかもしれなかった。


 ソラはアルトがいなくてもご飯さえもらえれば特段変化はなかったが、時々アルトの部屋の前に座り込んでは、尻尾を揺らして扉が開くのをじっと待っていた。


 セルシオは、何もできずに。


 そうしてアルトのいない日々が淡々と過ぎていった。

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