1 魔法使い(2)

 おはようっ、と手を上げてアルトが元気よく挨拶する。

 すれ違った白髪の老婆が柔和に微笑み、会釈をして通り過ぎていった。


「知り合いか?」

「うん。買い物のときたまに会って喋るんだ。この間は美味しい魚の選び方教えてくれたよっ」


 その後も、仕事へ向かう人やベランダで花に水やりをする人に挨拶をしては短い立ち話をする。


 そのたびにセルシオも立ち止まって、話が終わるのを手持ち無沙汰に待った。


「知らない人にまで挨拶しなくていいぞ」


 よく忘れるがお嬢様なので、街中で挨拶する相手の加減が分からないのだろうかと念押しする。


 しかしアルトは不思議そうに、


「みんな知ってる人だよ。それに知らない人でもまずは挨拶しないと知り合いになれないよ」


 ううむ、とセルシオが悩む。

 その理屈は分かるのだが。


 セルシオは毎日家と研究所の往復で、買い物するにも店の人と会話らしい会話をすることはない。


 アルトのように誰とでも仲良くとまではいかないが、よく行く店では挨拶くらいしようかと思い改める。


 そしてふと、腕に抱えた菓子の紙袋に目を落とす。


「まあいいが……。誘拐には気をつけろよ」


 えっ、どうしてそうなるの、とアルトが目を剥いた。




 赤錆色の髪の少年が一人、真剣な表情で壁を見つめている。


 何だろう、とアルトが立ち止まって見ていると、少年が指を鳴らす。

 しかし音は鳴らず、指を擦る音が虚しくしただけだった。


 アルトにつられてセルシオも視線をそちらへ移し、ああ、と納得する。


「ねっ、何やってるの?」


 いきなり飛び込んで行って、セルシオが仕方なさそうに肩を落とした。


 指を見てむくれている少年の隣で腰をかがめ、


「どうしたの? 指痛い?」

「違うよっ。魔法使う練習してんの」


 日なたは暖かいがまだ冷たい風の吹くこの時期にTシャツ短パンという、見るからにわんぱくそうな少年が大きな声で答える。


 壁に目を向けると四角い箱が立てかけられていて、黒い紙が貼られた中に黄味がかった透明な魔法石が置かれている。


 少年が箱を指差して、


「こっからあの石の灯りをつけんの。学校の宿題なんだけど」


 魔法石は魔力を石に流し込むことで効果を発揮する。

 灯りの石なら最初のきっかけだけ与えれば、あとは身体を勝手に流れる魔力で灯り続ける。

 きっかけは指を鳴らすのでも、指差して振るだけでも、要するに魔力を流し込む対象さえはっきりさせられれば何でもいい。


「指差しではできた?」


 少年がむっとした顔で首を振る。

 アルトが笑って、


「じゃあまずそこからやってみよっか」

「指差しじゃ嫌なんだよっ。指鳴らすのがいいんだ」


 鼻息荒くそう言うので、何で? と首を傾げる。


「指を振るより鳴らした方がかっこよく見えるからな」


 離れたところで傍観していたセルシオが近寄る。

 少年は違う大人が来た、とびっくりしたが、即座にそう! と力強く同意した。


「そうなの?」

「子どもの頃はそうだった」


 友達より早く鳴らせるようになりたくて、学校で習ってすぐはこうやって一人こっそり練習するのが通例になっているのだと話す。


 セルシオが少年の頭に手を乗せて、


「でもまずは指鳴らしより魔力の扱い方からだ。あと、もう少し近いところでやれ」


 少年はふてくされたが、うなずくと素直に魔法石に近づいていった。


 アルトがうずうずして嬉しそうに声を上げる。


「このおにーさん、魔法の専門家だからいっぱい教えてくれるよー」

「そうなの? おじさん魔法使い?」


 セルシオが半眼になって、「違う。誰がおじさんだ」と口の端をひくつかせる。


 ため息をついて、


「魔法の研究をしてるだけだ」

「魔法研究所? 馬の階の。じゃあ賢いんだおじさん」


 ほぉ、とアルトが感心する。

 そういえば国立なのはここだけだと前にレナードソンが言っていた。


「賢いんだ? セルシオ」


 他意なく訊いたのだが、セルシオが顔を引きつらせて呆れる。


「バカにしてるだろう。ほら、いいから構えろ」


 何でさ、と頰を膨らませるアルトを無視して少年の背を押す。


 少年が軽く足を開き、魔法石に向かって腕を伸ばす。

 セルシオが頭や肩を調整して、まずは魔力の流れを意識しろ、と指示する。


 少年が緊張した表情になり、そして指を振る。

 しかし灯りがつく気配はない。


 少年ががくりとうなだれた。


「ダメじゃんおじさんー」

「しっかりしてよおじさんー」


 アルトまでそう声を重ねるので、セルシオが睨む。


「一度で出来ると思うな。練習すれば出来るようになるから」


 言ってまた少年の腕を上げさせる。


 その光景を、座り込んで微笑ましく眺める。


 アルトは魔法の使い方を教育係から教えられたが、一般家庭であればこんな風に親兄弟や近所の人から習うものなのかもしれない。


 そういえば家族はどうしているだろう。

 ふと頭をよぎる。


 あの恐ろしい父親は変わらずだろうか。

 母も兄もまだひっそり暮らしているのかと思うと、この自由が少し申し訳なくなる。

 お屋敷を出たアルトは、まるで籠から出た鳥のように好きなところへ行き、のびのびと生きている。


 いつかまた、あの家に足を踏み入れることはあるだろうか。


 いつかお父様に会いたいと、思うかな……?


 首を九十度になるくらい曲げて悩んでいると、目の前の地面に影ができる。


「何考えこんでるんだ」


 顔を上げると、呆れ顔のセルシオが立っていた。


 アルトはしばしぼうっと見つめた後、にへっと笑う。


 出来た? と訊くと、少年を指し示す。

 少年が箱に向かって指を振ると、魔法石が弱く光った。


「すごーい! 出来た出来た!」


 アルトが目を輝かせて拍手する。


 セルシオは疲れた様子で、


「指鳴らしはまだだがな。魔力の誘導だけ身体が覚えれば、あとは鳴らし方だけだからすぐ出来るようになるだろう」


 先生お疲れさま、とアルトがねぎらう。


 立ち上がり、スカートについた砂埃をパタパタはたく。


「うん、よし! ぼく、手紙を書くよ」


 今の自分を家族に伝えよう。

 この街でどんな風に暮らしていて、どんな人たちと出会ったか。


 セルシオのことも書こう、とにっこり笑う。


 セルシオはよく分からずただ首を傾げた。


 少年が嬉しそうに二人に駆け寄ってくる。


「ありがとうおにーさんっ。オレ、もっと練習するねっ」


 おにーさんと言い改めてるのがおかしくて、アルトがあははっと笑った。


 少年が腕に抱えた箱には、割れた欠片のような小さな魔法石がいくつも入っていた。

 半透明の白色や、黒い粒が集まって固まったような石が、日の光を反射してキラキラ輝いている。


 少年がコレクションを自慢げに見せると、セルシオが火の紋章がついた石をつまみ上げた。


「あまり色んな種類の魔法石を混ぜておくな。一つに連動して他の石まで発動することもある」


 そうなの? と少年が驚く。


 例えば、灯りと火の石を近づけるな、と説明する。


「灯りがつくときの火花が火の石に飛んで火が出ることがある。それと欠片が多いが、自分で割ってないな? 自然に割れた欠片でも、紋章がないものは使うなよ」


 ほおぉ、とアルトが感嘆の声を上げるので、またセルシオが呆れた顔をした。


「指、鳴らせるようになったら、これ全部使えるようになる?」


「ああ。魔力の流し込みさえできるようになれば、魔法石の種類は関係なくどれでも発動させられる」


 あとさー、と質問攻めの少年に、アルトがくすくす笑う。


「魔法使える奴が学校に何人かいるんだけど、魔法使いって他の人と何が違うの? 石じゃできない魔法が使えんの?」


 魔法使いとそうでない人の違いの説明はできるが、幼い少年にどこまで噛み砕いて話したものか。


 悩んでいると、アルトがパチンと指を鳴らす。

 セルシオが抱えていた菓子の紙袋が宙に浮き上がり、少年とセルシオが目を丸くする。


「すげーっ、浮いてるっ。おねーちゃん、魔法使えんのっ?」


 興奮する少年に、アルトが照れ笑いする。


「少しだけね。あとは水や風を動かしたりもできるよ。水を動かせると、お洗濯のとき便利だよっ」


 お嬢様なのに、もうすっかり庶民の生活に馴染んでいる。


 いや、そんなことよりも。


「アルト、お前……。魔法使えたのか?」


 驚いた様子のセルシオに、アルトがにこっと笑って首を傾げる。


「うん。あれ、言ってなかったっけ?」


 聞いてない。


 というのも、セルシオは口下手であまりアルトに質問しないし、アルトも見合いの釣書に書かれてるだろうと、わざわざ口に出さなかったらしい。

 それに魔法は使うと体力を消耗するため、洗濯くらいにしか使ってなかったせいもあるだろう。


 そうか、とセルシオが視線を落とし、複雑そうな表情を浮かべた。

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