8 雪の日の衝突(2)

 キッチンに立つアルトの背をじっと見る。

 今日も彼女は頼みもしない晩ご飯を作りに来ている。


 これ以上近くにいてはいけない。

 研究のためにも、ナナリーのことや過去を知られないためにも。


「アルト」


 ん? と振り返る口元には笑みが浮かんでいる。


 セルシオが一瞬ためらい、うつむいてアルトを見ずに告げる。


 傷つけるなと、いうならば。


「もうーーーうちに来るな」


 今、アルトを突き放す。


 しばらくの間、どちらも声を発しなかった。


 セルシオが顔を上げられずじっと固まる。


 するとアルトがテーブルを挟んでセルシオの前に立ち、ゆっくりと口を開く。


「セルシオはーーーずっとナナリーさんといられたら幸せ?」


 予想もしなかったその質問に、弾かれたように顔を上げる。


 アルトは真剣な顔で伏し目がちにセルシオを見返している。


 ぎゅっと拳を握り、


「ぼくはキミに幸せになって欲しいと思ってる。でもキミは今ーーー全っ然幸せそうじゃない」


 力強く言い切って、セルシオが呆然とする。


 アルトは目の端を光らせ顔を背けると、バタバタと家を飛び出していった。


 一人になったセルシオはしばらく身じろぎできなかったが、やがて両手でぐしゃっと前髪を掴んだ。


「とっくにーーー見透かされていたか」


 ずっとナナリーとの思い出だけこの手にあればいいと思っていた。

 けれど記憶は砂のようで、時間と共にさらさらと手の中から流れて落ちていく。

 どんなにセルシオが時間を止めたいと思っても。


 そうしてこの両手はとうに何もなくなっていた。


 それに気づいていたのに、見ないことで気づいてないふりをしていた。


 ーーー全っ然幸せそうじゃない。


 セルシオがバンとテーブルに強く手を突いて立ち上がった。




 外は真っ暗だったが、街灯に照らされて積もった雪がきらきら光っている。


 はぁっと上を向いて息を吐く。濃いグレーの空に白い息が溶けていった。


「寒いな……」


 つぶやいて震える。

 勢いでコートも着ずに飛び出してしまったのを後悔する。


 しかしセルシオのところに戻る気にはなれない。


 立ち止まっていると凍りつきそうなので、足元を見つめながら雪を踏み歩く。


 言いすぎただろうか。

 ずっとナナリーのそばにいる。

 それでもいい。それでセルシオが幸せなら。


 全然幸せそうじゃないと言ったが、本当は幸せにも不幸にも見えなかった。


 ただ、時を止めた彼女のそばで、時が流れるのを拒んでいるように見えた。


 砂時計を模したようだと言われるこの街で時を止めているなんておかしいな、と空に浮かぶ機械を見上げて思う。


 瞬きすると、左の頬に温かいものを感じる。

 目を瞑ると、右頬にも温もりが流れた。




 雪道を走りながら考えていた。


 アルトを探して見つけたらどう言えばいいだろう。

 ナナリーのことはこれ以上知られたくない。

 だからといって、アルトを泣かせてまで突っぱねるのは違うと思った。


 矛盾している。

 何と甘い考えだと自分を叱りたくなる。


 料理も買い物も掃除も、アルトが勝手にやったことだ。


 そう言い切れないのは、抜け殻の自分を心配してくれているという負い目と、淡い期待のようなものがあって。


 ずるっと片足が滑って、慌ててブレーキをかけてバランスを取る。

 雪道でなくてもこんなに走ったのは初めてだ。

 一旦止まって呼吸を整える。

 少しの距離なのに、脚は震え喉がヒリヒリ痛む。

 日頃の運動不足が憎い。


 幸せになんてなれなくていいと思った。

 幸せじゃない人間が誰かを幸せにできるわけがないと、人を想うことをやめた。


 全てナナリーのせいにしていたと、今さらになって気づく。


 頰を冷たく感じて手を当てる。

 気づかぬ内に雪が当たったのだろう。目から伝う水を袖口で乱暴に拭った。




 ぐっと息を呑むと、アルトは駆け出した。

 滑るのも、何かにぶつかるのにも構わず。


 セルシオは空っぽだ。

 何も欲しがらず、それどころか何も要らないと言う。


 でも、笑って欲しかった。

 幸せを望んで欲しかった。


 押しつけがましいと思ったことだろう。

 少しの間一緒に住んだだけで、さほど彼のことを知らないのに。


 誰もいない雪道に突如人影が現れ、アルトが驚く。

 どうしてか相手も走っていたようで、息が弾んでいる。


「ーーーアルト?」

「セルシオ……? って、わあぁぁ危ないよぉっ!」


 アルトが坂の上、セルシオが坂の下にいる。

 坂道では急に止まれない。雪道ならなおのこと。


 アルトはブレーキをかけられず、立ちつくしていたセルシオの前で見事にすっ転び、ひっくり返って激突した。




「……いっ……たたたたた」


 気がつくと、身体のあちこちが痛んだ。

 腕も脚も擦り剥いてそうだ。


「お……っ前は本当に……」


 苦虫を噛み潰したような声が息がかかるほど近くで聞こえて目を開けると、すぐ目の前にセルシオの胸があってドキッとした。

 転がり落ちてきたアルトを抱きとめてくれたようだ。


 けれど受け止め切れずにそのまま転がったのだろう、二人して地面に倒れている。


 セルシオがため息をつき、身体をひねって後ろを向く。


「あと少しで真っ逆さまだったぞ」


 えっ、と上半身を起こして見ると、眼下には下層の街の灯りが見える。吹く風がものすごく冷たく感じられた。

 あと五十センチ滑ってたら、二人して最下層まで転げ落ちていたかもしれない。


 アルトは口の端を引きつらせて、


「え……えへっ?」

「えへ、じゃないっ。まったくコートも着ずに……」


 そういうセルシオだってコートを着ていないのだが棚に上げている。


 そんなことよりまだ道の端っこで向かい合わせに寝転がっていて、しかもセルシオの左腕がアルトの腰に回っている状態だったので、緊張してアルトは顔を上げられないでいた。


 セルシオが起き上がろうとするのでぱっと身を起こすと、睨むような視線をアルトに向ける。


「動くな。これ以上滑るとどっちか、最悪どっちも落ちるぞ」


 言われるがまま身を固まらせる。

 引き寄せられると顔がセルシオの胸に当たって強く目を瞑る。


 セルシオは起き上がると同時にアルトを右腕で持ち上げて起こした。

 肉のない細腕が思ったより力強くて、アルトがドキドキする。


 起き上がってまた向かい合うと、アルトの髪や肩から雪を払う。

 アルトは気恥ずかしそうにじっとしている。


 アルト、と呼ばれて顔を上げると、セルシオは申し訳なさそうに下を向いていた。


「すまなかった」


 一言謝って黙り込む。

 この後何と言うべきか決めあぐねているのだろう。


 アルトは地面に視線を彷徨わせた後、うつむいた。


「アルトーーー」


 するとにょっとアルトの腕が伸びてきて、セルシオの頬を軽くつねり始める。

 ぐいぐい引っ張るので、セルシオがアルトの手を押しのける。


「った……。何するんだ」


 怒っているのではなく、何をしたいのかよく分からなかった。


 アルトがぱっと顔を上げる。

 真顔で、


「セルシオ、笑ってっ」


 は? とセルシオが頭上に疑問符を浮かべる。

 このタイミングでまたその話かと思ったが、


「ぼくはセルシオと一緒にいると、楽しくって自然と笑顔になるよ」


 そう言ってにっこり笑う。


「笑って? 笑ってる間は幸せなんだよ」


 笑顔だと思ったが、よく見ると目が潤んでいる。

 全然幸せそうじゃない、と言ったのを気にしているのだろう。


 ああもう、何でそう人の心に素直に飛び込んでくるのかーーー。


 思うより先に身体が動いた。


 セルシオがアルトの首回りに腕を伸ばし、唐突にぎゅっと抱きすくめる。


 突然の抱擁に、アルトの目の前はチカチカし、鼓動が激しく鼓膜を叩いた。


 アルトにどう話すべきなのか、この先どうすべきなのか、いくら考えても答えは見つからない。


 けれど見えているものばかりが答えではない。

 こうして行動することで現れる答えもある。


 ああ、だから追いかけて来たんだな、とひとかけらの答えが冷え切っていた心に溶けていく。


 セルシオが強く眉間に皺を寄せる。

 アルトの耳元で小さく「寒いな」とだけ言うと、すぐに離れた。


 ほんの一瞬のことだったが、アルトは混乱して目を回しそうになった。


 無表情で立ち上がり、ズボンについた雪をはたき落とすと、アルトに手を差し出す。


「……帰るぞ」


 わずかに顔が強張っている。


 おずおずと手を乗せるとどこかほっとした表情になった気がして、アルトがへらっと笑顔になった。


「ん、帰ろう」

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