一話完結短編集!「キママニ」

荒咲琉星

お品書き①「グラウンドを染めた色は」

 もう、いやになったんだ。

 何が? と問われても、別にこれといってマトモな返事は出来ない事を自覚する。

 少女は独り、放課後の校舎の屋上にいた。

 フェンス手前のバルコニーには、一足の靴が寄り添って置かれている。その靴は、独り屋上で夕日を眺めながら黄昏る少女のモノだった。

 屋上。脱がれた一足の靴。

 これが何を意味するのか、大体は予想がつく。しかし少女は、フェンスを越える事はなく、まるでリラックスするように瞳を閉じながらフェンスに自らの体重を預けていた。

「この弱虫」

 誰かが言った。

「死ぬ勇気もないくせにこんな事してんじゃねえよ」

 誰かが言った。

 そうだ。その通りだ。少女は心からそう思った。少女はゆっくりと目を開き、眩い夕日から視線をそらすようにその下に広がる誰もいないグラウンドを眺めた。

 何度も何度も何度も何度も放課後に独り屋上に来ては自殺ごっこ。

 おふざけも度が過ぎていた。過去に自殺を行ってきた人は、どんな心境でこのような屋上の縁から足を踏み出す事が出来たのだろうか。

 少女には、死ぬ勇気がなかった。

「クソッたれ」

 少女は犬歯を剥き出し、裸足で屋上のコンクリを力のままに踏みつける。痛みが走った。たったこれだけの行為でとても痛かった。コンクリに与えた力とほぼ同等の力が、足の骨を伝ってふくらはぎ、膝、太ももへと鈍い痛覚を揺さぶってくる。

 これだけで、たったこれだけで激痛が走る。屋上から落ち、地面に体が着いたその瞬間の痛みなど、まるで想像もつかない。

 これ以上の痛み。死んでしまうほどの痛み。

 恐怖。嫌悪。怯え。

 フェンスに乗った腕が湿る。雨なんて降っていなかった。ただ、湿る。少女の目から零れる雫が、次々と腕をぬらしていく。

 噂とは怖い。一人の、ごく普通の少女をここまで追い詰めるのだから。


『女子高校生、教師と援交か?』


 身に覚えがなかった。本当に、本当に何もしていない。ただ、確証のないデマ情報に釣られた愚かな人間たちが、理不尽に少女を責めた。

 噂の出所は全くつかめない。

 昨日まで笑顔で接してきてくれた友達は、今では侮蔑の視線を向けてくる。

 昨日まで世界で一番面白いと思っていた自分のクラスは、今では嫌悪と屈辱で溢れかえっている。

 昨日まで団欒としていた家庭は、今では一方的に少女を責めたて、彼女の居場所を完全に無くした。

 昨日まで充実していた毎日が、たった一つのくだらない噂話によって、今では絶望と孤独しか生まなくなってしまった。

 もう、終わりにしようよ。

 少女の心に誰かが言った。

 真下を見る。数センチ傾くだけで、あとは忌々しい重力に身を任せるだけ。それだけで少女の願いはかなう。

 少女は無意識にフェンスを越え、本当の意味での瀬戸際に手ぶらで立っていた。

 直立不動。それはそのはずだ。少しでも動けば、もう後戻りはできない。

(もういいや・・・。未来を考えても暗闇しか見えなくなっちゃった)

 少女は、足を、、、

 その時。

 屋上に、誰かが来たのが分かった。少女は虚ろな目を、背後へ向ける。そこに立っていたのは同じクラスの、幼馴染であり親友でもある少年だった。

 少年は静かに、少女のいる縁まで、一歩一歩とゆっくり進んでくる。

 真っ赤な夕日が長い影を生み出し、少年を正面から照らす。

 少女はほんの微かにだけだが、期待が生まれた。つくづく優柔不断な人間だと自己嫌悪に襲われるが、しかしその期待はそれを意識させる前に、粉々に砕け散った。

「じれったいなぁ」

 少年は言葉を放つ。虚ろな瞳を宿す少女に対して。幼馴染で親友の少女に対して。

「さっさと死ねよ」

 少女は、それが少年が放った言葉なのだと理解するのに数秒はかかった。今まで聞いたことのない、無機質で冷酷な言葉。少年のこんな言動を、少女は過去に聞いたことがない。

「・・・ぇ」

 わずかながら、少女は擦れた声を出す。

「面白いよね人間ってさ。少しでも新鮮な驚きがあれば、確証がなくても人の話を簡単に鵜呑みにしちゃうんだ。もう大爆笑ですわ」

 少年は、笑みを浮かべる。しかし目が確実に笑っていない、機械的な笑みを。

 いつの間にか少年は、フェンスを隔てた数センチの所まで来ていた。そこで、歩を止める。

「悩んでんだろ? こんな人生嫌だろ? ならサッサと死んじまえよ。そうしたら、真下を見降ろしてお前のグチャグチャになったソレを見ながら腹ぁ抱えて笑ってやるからさ」

 少女の瞳から、更に光が消える。

 少女は何も言わず、再び誰もいないグラウンドへ視線を移した。

 少しでも少年が少女の背中を撫ででもすれば、少女の小柄な体は強固なコンクリに叩き付けられ、その欠片が健全な野球男児の汗と共にそのグラウンドに染みこむことだろう。

 その時だった。

 未来、可能性、その他もろもろの“未練”が、少女の脳裏に稲妻のごとく過った。

 夕日を見る。沈みかけて、あと少しで暗くなるところだった。

 少女の瞳に光が戻る。

「・・・い、や・・・だ」

 少女は言葉を発す。

 振り向き、少年と向かい合う。退屈そうな表情の少年。

「私、まだやりたいことたくさんある。将来の夢だってある。だからお願い、復帰できるように協力して!!」

 少女は、涙を抑えるほどの感情を込めて訴える。優柔不断さに自己嫌悪に拍車がかかるが、食道を刺激する吐き気を必死に抑えながら、少女は少年を真っ直ぐに見据えた。

 数秒の沈黙……………。

 少年の表情が、微かに笑顔になる。スッと、無言で片手を差し出す少年。

「あ、ありが」


「それじゃつまんねえな」


 少女の声を、野太い声が遮った。それは少年のモノ。

 少女の手を取った少年は、勢いよくフェンスを飛び越える。そして、


 夕日が見えた。それは、二人の男女の目に映った、逆さまの夕日。そして、二人が最期に見た、黄昏の夕日。

 少女は知る。死のう死のうと思っていた時の方が、全然幸せだったということに。何故なら、そこからどうにでも出来たから。まだ、立ち直ることだって出来たのだから。

 重たい衝撃音とグシャッという水気のある音が同時に誰もいない校舎内に響き渡った。


 少年のその口元には、最期まで無機質な笑顔が張り付いていた。


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