殺された小説事件
「犯人は、この中にいます」
絶海の孤島に佇む大富豪の別荘。その豪奢な屋敷は、今や嵐に捉えられ、誰の出入りも許されなかった。また屋敷内の電話線はことごとく切られ、携帯電話の電波も届かず、昨夜のうちに帰ることのできなかった人々は、物理的にも情報的にも、外部から完全に遮断されてしまっていた。
「今回の殺人事件は、私がこれまで関わったどの事件よりも難解で、複雑でした。その解決には私の論理的思考と行動的捜査、大胆な発想のすべてを発揮しなければなりませんでした」
外界から途絶した屋敷で事件が起こるとすれば、それは殺人以外に何が考えられるだろう。まさにこの別荘の主人・嵐山大吾氏は殺されてしまったのだ。となればパーティに出席した人物の中に犯人がいるのは明白な事実。私こと名探偵・雨川誠一郎は、もとより探偵役であるために除外されるとしても、十数人の容疑者の中から殺人犯を見つけ出すことは容易ではなかった。
「まずは現状の確認をします。被害者である嵐山氏は何者かに胸を一突きされ、おそらく即死。胸の傷は鋭利な刃物によるものと、嵐山氏の旧友である専属医・晴村太郎氏も断言しておりました。しかし、屋敷内のどこを探しても、その凶器は見つからなかった」
つまり、この事件における中心的な謎は、どのようにして殺人を行ったか、という点である。推理小説的に言えば、ハウダニット。How had done it. 凶器さえ特定できれば、その準備過程をたどっていくことで犯人を推理できるという仕組みである。
「嵐山氏が殺されたのは昨日夜。この大広間でした。パーティも終わり、ほとんどの参加者が船で帰った後でした。その後突然訪れた嵐により屋敷に閉じ込められる形になった私たちは、仕方なく屋敷に泊まることにし、一人にひとつずつ客室が割り当てられました。そして、屋敷の女中・霧島早苗氏の叫び声に部屋を飛び出すまで、私たちは互いに顔を合わせていなかった。すなわち誰にもアリバイはありませんでした」
アリバイは誰にもなく、嵐山氏が殺されたのは大広間。いつ、誰が、は特定のしようがなく、密室殺人でもなければ見立て殺人とも考えられない。嵐のために科学捜査を行う警察も呼べない状況である。
「ですが、凶器さえ特定できれば、犯人はおのずから知れてしまうのです」
「そうは言っても、その凶器がそもそも見つからないんじゃないのか」
と、パーティ招待客の酒豪・酒飲太陽氏が大柄な体を震わせながら、よく通る声で言う。
すると、それに触発されたように、他の招待客たちも口々に喋りだす。
「本当に犯人が分かるのか」
「第一あの探偵こそが一番怪しいじゃないの」
「私もう部屋に戻ってもいいかしら」
それを私は手で制しながら、頭のハットの位置を直す。
「ではご説明します。犯人がどのような凶器で嵐山氏を殺害し、そして凶器を処分したのか。その答えは、これです」
と、私はインバネスコートの懐から、掌に収まる程度の氷を取り出した。
「氷だって」
「まさか、そんな」
再び招待客たちはざわつくが、私は見せ場に酔ってもはや気にならない。
「そのまさかです。これはさっき私が、とある部屋でためしに作ってみたものですが、この程度の氷ならすぐにでも出来上がります。そして、我々招待客に割り当てられた客室には、冷凍庫はなかった。また、意外なことに、厨房にも冷凍庫はありませんでした」
「ならその氷はどこで作ったんですの」と、女中の霧島氏が先を促す。
「嵐山氏の自室です。なんでも嵐山氏はお酒が好きで、ロックなどに使う氷にもこだわりを持っていたようですね。ずいぶんと高性能な製氷機がありました」
さあ、いよいよクライマックス。この瞬間こそが私の喜びであり、生きがいであり、存在理由と言っても過言ではない。犯人を指差すその瞬間と快感、その至上の幸福のためにこそ、私は地道な捜査と論理的思考、そして、大胆な発想を積み重ねてきたのだ。
「製氷機で氷のナイフを作り、嵐山氏を殺した人物。その人は嵐山氏の自室に製氷機があることを知っており、怪しまれることなくその部屋に出入りできました。また、誰にでも犯行ができる状況に仕立てるために、嵐山氏を大広間に誘い出した可能性も考えれば、それが最も自然にできた人物。
すなわち、犯人はあなたです。嵐山氏の後妻・嵐山真白さん」
私の人差し指の先には、今にも倒れそうなほど真っ青な顔をした、美しい未亡人の姿があった。これほど犯人にふさわしい人物がいるだろうか。実は私は、トリックが分かる前から彼女が犯人であることをほとんど確信していた。条件に合う人物なら、専属医である晴村氏にも可能かもしれないが、それでは盛り上がらないのだ。
「ちょっと待ってください、雨川さん」
と、私の至福の瞬間に水を差したのは、密かに未亡人に心惹かれている気弱そうな青年・雲田光成君である。
「氷のナイフはできるかもしれませんが、それでは死体の状態の説明がつきません」
「……なんだって?」私は不快感をあらわにして聞き返す。
「だって、嵐山さんの死体は、濡れていませんでした」
「そんなのは、氷のナイフを抜いたあとに融かしたからだろう」
「それにしては、死体の出血が少なすぎる。僕は医学を少しかじっていますから分かりますが、凶器をすぐに抜いたのなら、もっと出血が多くなるはずなんです。それが、嵐山さんの死体は、出血量は少なく、かつ水で濡れた様子もなかった。もっと別の凶器があったと考えるのが自然です」
雲田君は気弱ながら、精一杯に声を張って論じた。
だが、どうやら出しゃばりすぎたようだ。
「なら、君が犯人だ、雲田君」
私は指の指す先を未亡人から雲田君に切り替えた。
「そ、そんな、どうして」
「どうしてもこうしてもない。私が名探偵だからだ」
「許されるんですか、そんなことをして!」
なにをばかなことを、と私は呆れる。私が名探偵だから、それ以外に何の理由が必要だろう。トリック?凶器?フーダニットもハウダニットもない。私が犯人だと言った人物が犯人、そしてそれらしい説明ができれば、読者は納得するのだ。第一、推理しながら本を読む読者など皆無と言っていいだろう。それは読者の側の問題ともいえるし、作家の側の問題ともいえる。探偵が犯人当てのシーンになって初めて新事実を提示することだって珍しくないのだから。
「そんなのは横暴だ」
「そもそも氷のナイフなんてのも使い古されたネタよね」
「つーか、嵐も止みそうだし、警察呼ばね?」
招待客たちも次々に口を出してくる。
「ええい、うるさい、うるさい! そんなにお前らも犯人になりたいか! お前も、お前も!」
私は彼らを片っ端から指差していく。彼らの肩書は次々に犯人になっていく。だというのに、彼らは動揺もせず、かえって私に反論をかましてくる。
「そんな態度の探偵がいたものか!」と、犯人・晴村太郎氏。
「新事実を出してもいいから納得できる説明をしてほしいものね」と、犯人・霧島早苗氏。
「俺らを犯人にしても、読者が喜ぶと思うなよ! 所詮俺たちの大半はミスリードのための存在なんだからな」と、犯人・酒飲太陽氏。
もはや私は理性を失っている。探偵が犯人を決めつけられないなど言語道断。論理的でない。破綻している。こんなのは現実じゃない。だが小説でもない。まだらの紐はどこだ。Xは誰だ。チョコレートの包み紙は。赤い部屋は。犬は。時刻表は。安楽椅子は。阿片は。犯行声明は。ダイイングメッセージは。なにかないのか!
「そこまでです」
と、それまで見たことの無い人物が私の前に立っていた。気づけばさっきまでヤジを飛ばしていた人々は消え失せ、屋敷の大広間の舞台には、向かい合った同じ格好の二人だけがいた。その人物を私は見たことがない、と思ったが、それは若干違う。顔は違うが、彼は私だ。だが、彼が私であることを、私は認めたくはなかった。
「もうあなたに探偵は務まらない。いつだって探偵に必要なものを、あなたは見失ってしまった」
もはや私は探偵ではなくなってしまった。だが、探偵のいない探偵推理小説など許されようか。
つまり彼は。
「あなたが見失ったもの、それは冷静さです。たとえ論理的でなくたって相手を納得させるためには、冷静さが必要なのです。どうやらあなたは大胆な発想ばかりに囚われてしまったようだ。まあ小説の探偵にはありがちですが。先ほど雲田君に反論されたとき、なぜ言えなかったのです。例え氷が融けて濡れてしまっても、それは乾いたはずである、と。理由なんてなんでもいい、除湿器でも、空調でも、隙を見て拭いたのだとかでも」
彼は新たな探偵。新たな犯人を指差す探偵。
では私は何になるか、探偵役を外された今、私に残っている役割は何か。
「犯人です」と、探偵は私を指差して言う。
「あなたは小説を踏みにじり、破綻させ、小説とは呼べぬものにしてしまった。その罪は重い。あなたは、この小説を殺した、犯人です」
目の前の探偵は、殺された小説をいまだ立て直そうとしている。なら私にできるのは、ただ黙って役割を全うすることだった。
「後は私に、探偵・雨川誠二郎に任せてください」
探偵はそう言うと、大広間の扉を指で示した。
私は黙ってうなずくと、探偵に背を向け、大広間を去った。
私こと犯人・雨川誠一郎の出番は終わった。小説は殺された。
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