かみさまクラスタ
NES
お試し版
物語が動き始める前の話。
まだまだ寒さが強く残る朝、いつものように橘ユイは稲荷神社にやって来た。
小さな、とは言ってもそこそこの公園ほどの大きさがある稲荷神社には、神主がいない。
この稲荷神社が出来た時から、ユイの一族が
一昨年辺りから祖父の体調が思わしくなく、基本的にユイが全ての雑事を行っていた。
もっとも、そうでなくてもユイには神社に来なければならない理由が出来てしまっていたのだが。
普段から人気のない神社の境内に入ると、ユイは拝殿の前に立った。
「ふわー、ユイ、おはよう」
拝殿の扉が開いて、朱の
年の頃はユイと同じくらいだろうか、十代前半位に見える。
きらびやかな髪飾りがきらきらと光り、ふわり、と長い黒髪が揺れる。
すっきりとした目鼻立ちは年頃に似合わず秀麗で、どこか神々しさすら感じられた。
「おはよう、トヨちゃん。今日も寒いね」
そう言って、ユイはにっこりと笑った。
「今日は学校は?」
訊きながら眠そうに眼をこすると、トヨはうーんっと伸びをした。
「あるよ。だから、今日もお掃除したら行くね」
ユイはここから電車で二駅ほど離れたところにある女子高に通っている。
朝、学校に行く前に境内の
拝殿の裏手にある倉庫の方に歩いていこうとして、ふと、足を止める。
それから、慌ててトヨの方に向き直って手を合わせた。
「ええっと、今日のお参りを」
ユイのそんな様子を見て、トヨは満足げにうなずいた。
「うむ。良い心がけだ」
少女の名前は、トヨウケビメノカミ。
この稲荷神社の祭神、神様だ。
ユイが境内を掃いていると、ひらり、と一匹のキジトラ猫が飛び出してきた。
大きな体は太っているというよりもがっしりとしていて、毛並も良い。
一目でわかるボス猫の風格という奴だ。
「よう、ユイ」
「こんにちは、サキチさん」
ユイはサキチに笑顔であいさつした。
サキチはこの辺りの猫たちのまとめ役をしている。
地元の神様であるトヨとも協力関係にあり、こうやってまめに稲荷神社に足を運んでくる。
猫たちと話をする力は、神様であるトヨの姿を見て、話をする力と同じものということだ。
ユイはそういった力について、幼少の頃よりトヨから教わってきた。
トヨいわく、「視る力」であると。
猫は人間の言葉を話しているわけではなく、ユイも猫の言葉を話しているわけではない。
ただ、意思の疎通をおこなった際に、お互いにとって都合の良い現実を視て、それを自身の中に反映させている。
説明されてもよく判らないことが多かったが、とりあえず確かなこととしては。
ユイはこの神社の神様であるトヨウケビメノカミ、トヨの姿を見て、言葉を交わすことができる。
サキチを含む猫たちと言葉を交わすことができる。
そして。
「なんか客が来ているみたいだぞ?」
サキチに言われて、ユイは後ろを振り返った。
金色の眼が目の前にあって、思わず一歩後ずさる。
人の顔程もある大きな蛇の頭が、ユイをすぐ近くで見据えていた。
「道を尋ねたい」
「は、はい」
川の近くにあるということも理由であるらしく、神社にはこうしたモノたちがよく流れ着く。
本来は目に見えない存在であるモノたちの姿を見て、言葉を交わすこと。
それも、ユイにできることだった。
その力ゆえに、神社を訪れるモノたちの世話をすることも、ユイの仕事の一つになっている。
蛇の頭に山伏の装束を着たモノにユイが道を教えている間、トヨは拝殿の濡れ縁に腰掛けて、退屈そうに足をぶらぶらさせていた。
せめてもうちょっと威厳を持っておいてくれないかなぁ、とユイは
学校が終わって、ユイはその足で稲荷神社にやってきた。
朝では片付かなかった
鳥居をくぐろうとしたところで、先客がいることに気が付いた。
拝殿の前に立つ一人の少年。
その姿を見て、ユイは慌てて近くの木の陰に身を隠した。
物陰をつたいながら、こっそりと拝殿の裏に回る。
ほっと一息ついたところで、サキチが濡れ縁の下から顔を覗かせた。
「ごくろうさん」
「うん、びっくりした。いつもはいない時間だと思ってたから」
少年。
多分、今は中学三年生。
ユイは普段から、彼とはなるべく顔を合わせないようにと、細心の注意を払っていた。
今までも何度か不意に出くわしたことはあったが、とりあえずは何事も無くやり過ごしてきている。
それは良いこと、なのだろうが。
ユイには、少し寂しかった。
「お二人さん、もう出てきても良いよ」
トヨの声がした。
ユイとサキチが拝殿の前に出て行くと、もう少年の姿は無かった。
賽銭箱の上にトヨがだらしなく腰かけている。
こうなるともう神様としてのありがたみなど欠片も無い感じだ。
トヨは頬杖をついて、つまらなそうにそっぽを向いていた。
「高校受験合格の報告だったよ。確か、近くの公立校だったかな」
そういえば今年、彼は高校受験だったか。
「良かったですね」
ユイが笑顔でそう言っても、トヨはあまり浮かない顔だった。
「まあ、私の加護があるんだから、余程高望みしない限り失敗なんてありえないんだけどさ」
トヨは少年に特段の加護を授けている。
そのことは、ユイも、サキチも良く知っている。
だからこそ。
「そろそろ七年。蓋は完璧だと思って良いんじゃないのか?」
サキチの言葉に、トヨは更に不機嫌そうな表情になった。
「うん、そうだね。彼はもう、普通の人間だ」
特別な縁。
昔、トヨはユイにそう言った。
目に見えないモノの姿を見て、目に見えないモノの声を聴く。
視る力を持った人間の数は、そんなに多くは無いのだという。
だからこそ。
「本当に、良かったよ」
少しも良くなさそうに、トヨはそう言った。
「トヨちゃん」
ユイは優しく呼びかけた。
「大丈夫、私がいるよ」
神様はまるで、普通の女の子みたいに。
「うん」
すまなそうに、小さくうなずいた。
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