おかえりなさい、私たちの世界へ。

 あの日、稲荷神社でトヨと再会してから、リクの世界は一変していた。


「よう、リク」


 朝起きるとサキチが話しかけてくる。猫と言葉の通じる世界。

 窓を開けてサキチに声をかけられるたび、リクは自分がまだ夢を見ているのではないかと疑った。


 だが、自分の感覚はこちらが現実であると伝えてくる。

 薄皮に包まれていたようなぼんやりとしたあの頃の方が、リクにとっては夢の中のように感じられた。


「今日は学校が終わったら稲荷神社に行け。それと、余計なモノにちょっかいを出さないようにな」


 そう言い残すと、サキチはどこかに行ってしまった。

 気を取り直して、リクは学校に向かうことにした。


 出がけにテレビを観ると、何処かの街並みが映っていた。

 人でごった返した雑踏。

 リクにはそのテレビの中の映像が、霧に覆われていたような、少し前の自分に見えていた光景に思えた。




 リクはいつも通りに家を出て、学校に向かった。


 外を歩けば、今まで見えていなかったモノたちが街中を何食わぬ顔で歩き回っている。


 人に近いモノ、四足のモノ、飛ぶモノ、大きなモノ、小さなモノ。

 世の中は想像以上に人以外のモノに溢れていた。


 一部のモノを、猫たちが追い回している。


 リクはその光景に圧倒されるのではなく、どこか懐かしいとすら感じていた。


「それは、お前がかつてはこの光景の中で生きていたからだ」


 サキチによれば、リクには元々こうしたモノを見る力があった。

 だが、モノが見えることを酷く恐れて、リク自らその力を封じてほしいとトヨに願ったのだという。


(まあ、確かに見えて得するとも思えないけど)


 見えていない人間にとって、モノはそこにいないのと変わらないみたいだった。

 ぶつかりそうになった、と思ったら、するり、とすり抜けてしまっている。


 人間にはモノが見えていないのだから、無関心に見えるのは当然として。

 モノの方も、あまり人間に関心が無い様子だった。


 お互いがお互いを意識せず、それぞれが好き勝手に活動している。

 そのため、人が多い所にモノが紛れていると、立体的な二重映しになっているみたいで、見ていてむしろ滑稽こっけいだった。


 リク自身は、自分の身体を突き抜けられるのは気味が悪いので、モノには触れないようにして歩いていた。


 慣れるのに時間はかかるかもしれないが、そこまで怖いとは思わない。

 見ていればそれなりに楽しいものだ、とリクが考えていたところで。


 その娘を見た。


 駅の改札口に向かう通りで、痩せぎすの緑色の身体をしたモノがふらふらと歩いていた。

 人間と重なる度、その人間は軽く咳き込む。

 何かそういった特殊な存在なのだろうか。


 やはりモノには触れない方が良さそうだ、とリクが思ったところで。


 その進路上に一人の女子高生が歩いてきた。

 ほっそりとした身体に、柔らかそうな、栗色の長い髪。

 線の細い、真面目で大人しそうな、ごく普通の制服姿の女の子だ。


 ああ、ぶつかって咳き込むのかな、とリクが見ていると。


 女子高生は、すうっ、とそのモノをけた。


 えっ、と思った時には、女子高生は雑踏の中に溶け込んでしまっていた。




 放課後、稲荷神社に行くと拝殿の前でトヨが待っていた。


「やあ、リク。よく来たね」


 ニコニコしながらそう言って、濡れ縁に腰かける。

 少しためらってから、リクはその横に座ることにした。


「おう、ちゃんと来たな」


 サキチが何処からともなく現れて、トヨとは反対側のリクの横で香箱座りした。

 トヨとサキチに挟まれて、なんだか不思議な光景だ。


「この前は災難だったね。あれからもうさわりは無いと思うけど、何か困っていることはあるかい?」


 少し考えてみて、別にそこまで困っていることも無い、とリクは応えた。

 トヨは「それは結構」と言って、先日の出来事について話し出した。


 この土地の山側に、人の立ち入らない一角がある。

 リクも近付いたことが無いその辺りを、トヨはみ地と呼んだ。


 忌み地には悪いモノが封じてあり、トヨと猫たちによって厳重に封印されているのだという。

 理由は判らないが、その忌み地の封印が一時的に弱まったことが、今回の件の原因だということだった。


「一応封じ直してはおいたけど、根本的な解決は出来ないかな」


 トヨの力も万能ではなく、忌み地はかなり長い歳月あの場所にあるのだという。


「私もオリジナルの神様じゃないからね」


 そんなことを言って頭を掻いている姿は、どう見てもその辺りにいる女の子と大差なかった。


 話している内容や、あの夜の時のことを思い返せば、この女の子が神様だ、ということは理解出来る。

 理解出来るつもりだが、ただやはり、どうも今一つピンとこない。


 ふと、リクはモノを避けた女子高生のことを思い出した。


「そういえばその、視る力・・・っていうのは珍しいものなのか?」

「珍しいと思うよ。そうそうある力じゃない」


 トヨは事も無げにそう応えた。


「まあでも、普通は自分にしか見えないモノがある、なんて言ったらまずは病院行きなんじゃないかな」


 言われてみれば、確かにその通りかもしれない。


 今リクに見えている世界も、幻覚だと言われた方がむしろわりが良い気もする。

 人に話せば間違いなく正常ではないと判断されるだろう。


「そうじゃなくても色々と思い悩むでしょう。実際にリクはそれで悩んで、私が蓋をしたわけだし」


 だとすれば、あの時見かけた女子高生はどうなのだろうか。

 彼女はモノが見える、ということについてどう考えているのだろう。思い悩んだりしているのだろうか。


 だが、サキチもトヨも、その辺りはあまり気にかけていない様子だった。


「本人が折り合いをつけて生きていけてるのなら、特に問題の無いハナシだ」


 サキチはつまらなそうにそう言った。


 そういうものなのか、とも思ったが。

 リクはどうしてもあの女子高生のことが気になっていた。


「とりあえずリクの蓋が取れた影響の経過が見たいから、しばらく学校帰りに神社に寄ってくれると嬉しいかな」


 トヨの言葉に、リクは快く承諾した。

 言われなくても、こうやってトヨの姿を見て、トヨと話をすることは、リクにはとても楽しいことだった。




 翌日は、少し帰りが遅くなった。

 もう陽が沈もうとしている時間に、リクは神社に向かっていた。


 河原の土手を歩いていると、そこに彼女がいた。


 あの時、見えないはずのモノを避けた、女子高生。

 こんなところで、とリクは思わず歩みを止めて固まった。


 彼女は土手の上から、河原にある草原を見下ろしている。

 まつ毛が長い。

 物憂げな表情は、夕日に照らされて。


 それだけで、なんとなく見入ってしまうほどには美しかった。


 何を見ているのだろう、とリクが目を凝らすと。


 そこには無数の魚のようなモノが、草原をまるで水面みたいにして泳いでいた。


 普通に見ていれば、それは風が吹いて草が揺れているようにしか見えない。

 だが、視える者には、多くのモノたちがたわむれている姿が視える。


 その光景は不思議で。

 何処か幻想的で。


「綺麗でしょう?」


 突然話しかけられて、リクはどきりとした。

 女子高生が知らない間にリクの横に立っていた。


「あのモノたちは別に人に危害は加えないわ。ただああやって遊んでいるだけ」


 草原にいるモノたちは、ただ無邪気に、舞い、踊り、跳ねる。

 緑の草原の中で、銀色のうろこがきらりと光る。


「見えないモノが視えるって、確かに怖いことかもしれないけど、別にそんなに危ないことでもないと思うの」


 さわさわと風に揺れる草の音が、まるで波音のように感じられて。

 穏やかに、心をくすぐる。


「私たちの社会だって、怖いモノはたくさんあるけど、注意してきちんと対処していれば別に怖くもなんともないでしょう?」


 ささやくような優しい声が、リクの記憶をそっと刺激した。

 まるで、ずっと昔に聞いたことがあるような。


「だから、大丈夫だよ。必要以上に怖がらないで」


 女子高生はそう言うと、リクに向かってにっこりと微笑みかけた。


「おかえりなさい、リク」


 その言葉で、リクは女子高生が自分を、そして自分がその女子高生を知っていることに気が付いた。


 あの時、視る力に蓋をする時、リクの傍にはトヨと、サキチと、もう一人いた。


 ただじっと物陰で、リクの様子を伺っていた。

 自分の言葉が、必要以上にリクを刺激しないようにと。


 確か、名前は。


「ユイ・・・か?」

「蓋をした時、私のことは忘れてしまうかもって言われてたから、こうやってまた話せるとは思わなかった」


 女子高生、橘ユイはそう言って、ほっと肩を落とした。


 トヨがリクの力に蓋をした後。

 リクが普通の生活に戻れるように、ユイはずっとリクの前に姿を見せていなかった。


 ユイを認識することで、リクにほどこされた蓋に影響を出さないために。

 リクが望むままに、全ての恐ろしいものを忘れさせてあげようと、そう考えていたのだ。


「ここはね、あの頃からずっと、私のお気に入りの場所なの」


 ユイは土手の下に広がる草原の方に顔を向けた。

 そこではまだ、モノたちが戯れている。


「綺麗で、楽しいって思ってくれたなら、本当に良かった」


 夕日がユイの顔を赤く染める。

 ユイの表情もとても楽しそうで。


「改めて、おかえりなさい、リク。私たちの世界へ」


 リクは、この力を取り戻したことを本当に嬉しく思えた。




 土手の上を並んで歩きながら、リクはユイの話を聞いていた。


「でも、トヨちゃんから聞いた時は驚いた」


 そう言えば、トヨもサキチも彼女のことを知っていたのではないか。

 稲荷神社に着いてからリクが訊くと、トヨは事もなげに答えた。


「自分で思い出さないと意味ないでしょ」


 サキチも退屈そうに一つあくびをしただけだった。

 二人とも、リクがユイの話をしていると察した上で、知らないふりを決め込んでいたのだ。


「ユイにはちょっと悪いかなと思ったんだけど、キミが思い出すまで少し距離を置いてもらっていたんだ」


 ユイの家は氏子うじこを代表して代々この稲荷神社の世話をしていた。

 ユイ自身も、小さい頃からこの神社を遊び場にして育ってきている。


 視る力は家族の中でもユイしか持っていない。

 その力には誰も気付いていなかったが、昔からトヨがそばにいて色々と教えていたらしい。


「ユイの視る力はそんなに強くないんだ。見て、話して、そんなトコロまでかな」

「それ以上の力なんてあるのか?」

「あるよ」


 ふふん、とトヨは胸を張った。


「例えば縁を結ぶ力。見えない絆を結びつけるのは、縁結びの神様の大事な力だ」


 リクとユイの姿を交互に見て。


「これが素敵な縁だと、そう思えるように、ね」


 トヨは楽しそうに笑った。

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